北京オリンピック開幕直後の柔道で、ヤワラちゃんが金メダルを獲れなかったことに関して、某紙のコラムで作詞家のK氏が ゛いくら技(ワザ)の切れがあっても、組み手をちゃんと組もうとしない外国柔道相手では女三四郎もなすすべがなかった…゛と、的を射た論評をしており、さらに続けて ゛ちゃんと組んでから試合を始めるといったルールにでも変えて柔道本来の<技と技のたたかいの美しさ>に戻すべきだ ゛と、胸のすくような指摘をしている。
これを読んで反射的に、本来、技巧よりも<技と技の競い合い>が生み出す美しさで評価すべきピアノ・コンクールが、単なる<ウデくらべ>の判定に成り下がっている場合が多いことを連想してしまった。
この場合、なんらかの「個人的、組織的情実」が絡むことも皆無とはいえないが、それ以上に問題なのは、そんな評価をしてしまう審査員先生方の基本的美意識レベルだ。
<技>と<技巧>の区別もつけられない<的外れ審査>が、折角まともにトレーニングを重ねているピアニストにとって最も重要な<美意識譲成>への、バカげたブレーキになっている…ならば、どうすれば良いのかについて、いささか手前味噌になるのだが、いま続けているプライベート・レッスンの方向は決して<的はずれ>ではないことを、北京オリンピックが<遠まわし>に示唆してくれたのではないかと思えるのだが…。