気ままに一筆

心に引っかかった居心地が悪い出来事や、心の隅で湧き上がってくる日本の風習への思いを感じるままにつぶやいています。

気ままに一筆 募金を考える

2022-06-27 16:51:38 | 日記

 私の92歳になる知人は、大変働き者で戦後まだまだ女性ドライバーがめずらしい時代、自動車を運転していました。実業家の実父の仕事を手伝い、月末には外車(国産車が完成しいない時代)に乗って取引先の集金をしていたという。実父は、戦前からの実業家で『作る事の来る道具や物は作れば良いが、土地は作る事ができない。』と話し、土地を買いもとめていた。戦前戦中にその土地で戦艦の砲弾を作る工場を経営した。戦後、農地改革が行われた時には、所有している広大な土地を守る為、田んぼに作り替え、家族全員で稲作を行い農協に収めていた。と、田んぼ作りの大変だった経験を楽しそうに話す。田んぼに通い農協に米を運ぶなど自動車の運転は行っていた。高度成長時代に入り、東京でお米を作る必要うがなくなった土地を、ゴルフ練習所に作り替えると、休みが取れない状態で毎日盛況だった。この時も車通勤をしている。その後、ゴルフ場を辞め貸しビル業を始め70歳を迎えるまで自動車を運転していた。

 彼女は、若い時から70歳になったら運転免許を返納しようと決めていた。その日まで一度も事故を起こすことなく運転できたことへの感謝を神社に報告に行った帰り、参道で交通遺児の援助募金活動を行っている人達にあったと話す。彼女は、自分の思いを無事に達成できた事と感謝の気持ちから、少し高額な募金をした。その時、募金を募っていた人から住所と名前を聴かれた。「それから毎年、募金をしてほしいと振込用紙が送られてくるようになって、私は、そんな気持ちで募金をしたのではないのにいやになる。」とぼやいている。

 この話を聞いて貴方は、どう思いますか? 私は、街頭募金活動を町でみかけて、財布の小銭を募金箱にいれた経験があります。「この位なら」と何気なく募金しました。でも、毎回そうするか?わかりません。彼女は、自分の中の記念に募金をしたと思うのだけど、毎年振込用紙が送られてくることで、自分の思いとは違う押しつけられていると感じてしまっている。

 募金活動を行っている人達は、募金をしてくれる人達の善意をどう理解しているのだろうか? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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