佐賀旅行の第三回は名護屋城です。
唐津に一泊し、二日目の朝に行きました。
昭和バスで、大手口バスセンター(駅前ではなく、市役所の隣)から、名護屋城博物館入口に向かうのですが、
計画段階で、時刻表を見て混乱しました。
どの時間のバスに乗るかによって、運賃が異なります。かかる時間も異なるので、経路が違うのか?
それに、ジャンボタクシーというのは?呼子で乗り換える?
心配なので、初日にバスセンターの係員のおばちゃんに聞いてみたのですが、
このバスなら830円、こっちのバスなら1000円の切符を買えばいいから(値上げしてんじゃん)
向こうでは切符は買えない(じゃあ、どうすれば)、二枚買って(乗るバスで値段変わるでしょ)。現金でも払えるよ。
くらいしか説明してくれないので、
新たに時刻表をもらって、ホテルでにらめっこでした。
で、ようやく理解しました。
既成概念を振り払えば、実はシンプル。
つまりは、基本は、降りるバス停で運賃が変わる(整理券をとる)路線バスで、
私の常識と異なるのは、目的地まで複数の「系統(経路)」があり、系統が変わると、乗っている距離が変わるので、運賃が変わる。乗っている時間も影響受ける。
呼子行きだが、博物館に先に寄る経路の直行だと830円。
1000円は、玄海エネルギーパークを経由する遠回り。
朝と午後は、直通のバスがあるが、その間の時間は、呼子までしかバスは行かないので(この呼子行きは、博物館に寄らないというか、博物館直行とは経路が逆回り)、ジャンボタクシーというワゴン車で、博物館と呼子を移動することになる。
その運賃は一律200円、呼子とバスターミナルは750円なので、合計950円。
改定前の運賃の”理屈”もこの通り。
結局、7:55バスセンター発に乗って、名護屋城博物館へ向かい(830円)
城址、博物館見学は2時間くらいだと思うので、10:28博物館発のジャンボタクシー、呼子で乗り換えてバスセンターへ(950円)としました。
能書きが長くなりましたが、830円の切符を買って、7:55のバスに乗りました。
すると、バスの乗り口に、ICカードリーダーがありました。。。Suica使えんじゃん、おばちゃん言ってよ。
それなら、系統とかも深刻に考えなくてよかったし、切符買う必要ないでしょ。しかも切符買っちゃったら、違う時間のバスに変更しにくいじゃん。
(7:32の玄海エネルギーパーク経由に乗り遅れて、払い戻し、切符の買い直しをしている観光客のおじさんがいました)
車内のnimocaの広告には、昭和バスは5%割引とか書かれてあって、ICカード推奨している。
他方、なぜか、バスセンターには「Pay by Cash(支払いは現金で)」という張り紙もある。。。バス会社もキャッシュレスには混乱しているのかな。
さて、名護屋城までは35分。
田舎(というと失礼ですが)の路線バスって、なんだか和みます。(だからTV番組にもなるんでしょうね)
ハノイで、ゴルフや工業団地に行く時、田舎道を車で走っていた(運転手のおじいちゃん、元気にしているかな)長閑さを思い出しました。
ふと、降り口(運賃後払いなので前)をみると、傘が数本掛けてあります。
忘れ物を引き取れるようにしているのか、傘のない人に貸し出すのか、お年寄りは下車する時濡れないように、運転手さんが差してあげるのか、何れにしても田舎の優しさを感じるシーンです(違っているかもしれないが、そうあって欲しい)
そして、名護屋城博物館前というバス停に到着。ただ、真前ではないので、どっちに博物館なり城址があるのか迷いましたが、程なく発見。
博物館は超立派です。そして、平成5年(25年前)に開園したにしては綺麗でした(新しく感じました)
開館は9:00。まだ8:30なので、城址を巡ってから博物館を見学することに。
早速、石垣にテンションが上がります。
大手口から、本丸を目指しつつ、曲輪や櫓を見て回ることにしましょう。それにしても、ここも桜が見頃で綺麗です。
東出丸(右奥)に登ります。
陣立ての説明板に従って、
見渡します。
名護屋城そのものもスケールが大きいのですが、集められた諸侯の陣屋、兵馬が、ここから見える一帯に溢れていたと考えると驚きと感動です。
ちょうどBSで名護屋城の特番をやっていましたが、集められた兵は延べ30万人、陣屋は150以上、城下の住民も10万人(大阪並み)ここにひしめき合っていたそうです。
振り返ると、まだ開いていない博物館が見えます。それにしても立派な博物館です。
東出丸の櫓台です。博物館で「肥前名護屋城図屏風」を改めて見ると、一時的な城であったにも関わらず、天守とか櫓とかが多数、しっかりと(瓦屋根、白漆喰)造られていたようで、その支柱石、天守台、櫓台、門の石垣なども、しっかりしたものが現物として見ることができ、決して絵に描いた餅ではなく、現実に壮大な本格的な城であったことが想像できます。
三の丸跡です。
そして、この本丸大手口の先が本丸です。
本丸は、流石に本丸で、拓けています。
本丸を左手から回ります。
南西の櫓跡からの景色です。海が綺麗ですね。
多聞櫓のところには、陣屋の説明板があり、
そこからの景色です。
図面、模型を見てもわかりますが、本丸が海よりの場所にあります。
そして、城が建てられた場所が、岬なので、どの方向にも海が見えますし、
天守台も、本丸の隅に建設されていたので、海からも、陣屋からも、威圧されるように天守が見えていたのではないでしょうか。
(木碑には、私が天守台にいる時から、ずっとカラスがとまっていて不気味でした)
現在はこうですが、太閤さんが見た景色はどうでしたでしょうか。
「唐入り」ですから、海の向こうに思いを馳せていたのか、あるいは、天下人として、眼下にひしめく諸侯を見下ろしていたのでしょうか。
本丸の中心に置かれた石碑です。右奥が天守台。
本丸大手口から三の丸に降り、本丸の石垣と、三の丸の櫓台の間から、二の丸に向かいます。
本丸の石垣です。それにしても、重厚な石垣造りです。TV番組では、煌めいて見えるよう、石垣の表面は磨いてあったと。
そのような手の込んだ建設作業もそうですが、ものすごい量の石が、人馬、食料と共に運ばれ、その壮大な城が短期間で建設された状況は、どんなだったでしょうね。
池が見下ろせます。これは、史跡の一部なのでしょうか、公園として整備されたものでしょうか、マップには説明がないのです。
向こうに見えるのは遊撃丸ですかね。石垣が組まれその上が平らで、曲輪っぽさが見て取れます。
馬場(馬の鍛錬や、二の丸、三の丸間の移動に使われた)を通って、二の丸へいきます。
急に拓けましたが、二の丸です。三の丸跡とは異なり、広場のように整備されています。
長屋跡だそうで、二の丸には家臣の家屋が並んでいたので、このような広場っぽいのでしょうか。
二の丸の石垣(内側)です。
二の丸は桜が綺麗です。陽が昇って、空は青く、明るくなりました。
二の丸を後に、遊撃丸に向かいます。
遊撃丸です。寝そべったら気持ち良さそうです。
反対側にある弾正丸に向かいます。
特に何かある訳ではないですが、景色が綺麗です。本丸、天守台とは方角が違うように思えますが、岬のような場所に建っていて、入江も入り組んでいるので、海に囲まれているような印象です。
一通り、観て回ったようなので、降りていくことにします。
先ほど見えた、池に出ましたが、有料の茶苑があるところから推察するに、史跡ではなさそうです。確証はないですが。
庭園跡のように見えますが、こちらは史跡の一部でしょうか。
城址を観て回る所要時間は一時間強でした。ただ、休憩なくてくてく歩いて、なので、普通の人は一時間半から二時間かかるでしょうね。
これに、各陣屋跡を見て回るとしたら、一日二日では足りませんね。
さて、名護屋城跡を満喫しましたので、博物館を見学することにします。
立派な博物館は入場無料です。広々としています。
ただ、城が機能していた期間は短く、その後破却しているので、展示物に歴史的な貴重さはイマイチ感じられませんし、
名護屋城以前と以後の肥前の大陸との交流の話などで膨らましていますが、
名護屋城が佳境にあった時の情報、古代の北九州の大陸との付き合いを簡潔に理解するには適した内容とボリュームだと思いました。
さて、展示されている模型を見ると、城のスケール、加えて陣立ての壮大さが改めて理解できます。
それと、天守閣が、本丸の中心に重石のように乗っているのではなく、櫓の位置にあることが改めて確認できます。陣屋や海(自軍の船や、相手の使節)から、よく見えるように配置したのでしょうね、やはり。あと、秀吉さん自身も、景色や陣屋が見やすいように。権威というより、張り出した展望台のような実用的な話だったかもしれませんね。
先にちょっと書いた、「肥前名護屋城図屏風」ですが、こちらでも城の壮大さと、精密さがわかります。
一時的ななものでありながら、曲輪、櫓、石垣、堀などから城の造りは本格的なものであったことがわかります。
北条攻めの石垣山一夜城も、近年の発掘では、白い布を漆喰の壁に見せかけたりしたトリッキーなものではなく、本格的に建設された城であったことがわかっていますので、豊臣家というゼネコンは本当にすごい建築技術を持っていたのでしょうね。
陣屋の配置図ですが、全ては記載できないほど、密集していたのでしょう。
これも有名な蔚山城の戦いの絵ですね。加藤清正、浅野幸長達1万が、明軍6万に囲まれている様子で、迫力が伝わってきます。
ただ、大きさや距離感は、誇張されていますが、それだからこその、この時代の絵画は素晴らしい。
朝鮮軍(明軍)の武器としてフランキ砲の模型が飾ってありました。
この時期、国内で流通している鉄砲の数が最大であったとは言え、日本軍の火縄銃では、ちょっと火力に差があったかもしれません。
それと、ちょっと優雅にも見えてしまう安宅船と、
あくまで兵器であった李瞬臣の亀甲船では、戦況を逆転させるには十分な理由があったかもしれません。
さて、バス(ジャンボタクシー)の時間が近づいてきたので、博物館を出ましたが
地図や図屏風には、鯱鉾池という堀のようなものがあったようなのですが、それがどの辺か行ってみました。
山里口(城の出入り口)です。
こちらは上山里丸(だったかな?)
そして、その前にある、堀っぽい一角、これが鯱鉾池のあった場所かな?部分的には、史跡の石垣みたいですし、ただ、整備された城址を出てしまうと、近隣住民の生活感が急に上がりますね。
バス待ちをしていたおばあさんに、この一帯そのものが史跡で、その中に住んでいるのってどういう感覚ですか?と聞いてみたら
「興味ないからな(笑)」
そういうものでしょうね。
ジャンボタクシーで呼子行って、バスに乗り換えて唐津に戻り、
次は、佐賀市に移動します。
では、次回は、佐賀市内、佐賀城などを紹介します。
ではでは。