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常識を変えよう! Change commonsense

常識が変われば 世界はもっと広がる

偽物が消えれば、本物しか残らない

2014年08月25日 | 日記

人は「正しい事とは何か?」と考え「正しい事」「本当の事」のみを求め、追求しながら生きるものです。では本来、正しい事・本当の事とはどんなものなのでしょう? 私自身はすべての偽物が消えて 最後に残ったものだけが本物と考えています。

これは『世にある ありとあらゆる事を経験し、嘘を見抜けるようにならねば、本当の正しさなんてわかるはずもない』という意味にもとれますが・・もちろん人生は短いですし 時間も限られてますから、全部を経験して検証するなんて不可能なのは言うまでもありません。

よって「正しい事を求める姿勢」をやめて「何が間違いか?を検証する姿勢」へと、人生そのものを大きく転換してゆくことが重要ではないでしょうか。哲学的な人生とは、ソクラテスやプラトンが唱えたとおり【世にある前提をすべて疑い、議論の対象にすること】からしか始まらないのですが、これは 常識や経済・国のあり方・歴史に至るまで、何もかもを その成り立ちや原点ごと疑う行為とも言えます。

では、そもそも哲学が指し示す間違いとはなにか? これは矛盾のあるもの全てです。「矛盾があるものは嘘である可能性がきわめて高い」この思考さえ身につけば たいていの嘘は見破れるもの。この基本さえはずさなければ、世にある あらゆる事象を経験しなくても ほとんどの見当はつけられるようにも感じます。

哲学とは【正しそうなものが見つかったら そこへのみ傾注する】ような 世のマーケットとは一線を画すものですが、それは基本姿勢そのものが「正しいものは永遠に見つからない」というところにあるからかもしれません。つまり、その時点で正しいと感じたものは一経過にすぎない! と言う事。哲学とは終わりなきものであるがゆえに、そこには進化・変化しかないわけです。

おそらく こういった姿勢こそが 経営者や研究者には求められるはずなんですが、そのあたりが、世の常識とは 最も大きく異なる点かもしれませんね。正しいと思われる事に生きるか? 偽物を消してゆく事を楽しいと感じながら生きるか? これは大きな問題に思われます。


そもそもビジネスとは何か

2014年08月13日 | 日記

ビジネスには「“事業目的“の実現をめざして人・物・金・情報などの諸資源を活用しながら行う活動」という意味がありますが・・ビジネスを紐解くには、この“事業目的“に関しての解釈が、非常に重要な位置を占めてくるでしょう。

“事業目的”の【事業】の部分については「 生産・営利などの一定の目的を持って継続的に、組織・会社・商店などを経営する事」といった“ある種の事象を表すもの”と「大きく社会に貢献するような仕事」といった“メンタルやビジョンのような解釈”とがあり【目的】の部分には「 実現しようとしてめざす事柄。行動のねらい。めあて。理性ないし意志が行為に先だって行為を規定し方向づけるもの」という意味があります。

よって、ビジネスに関しての解釈は大きく分けて二つになりますね。ひとつは『営利・・つまり金儲けを事業と定義し、その実現を目指して行動し、利益活動をすべての行為規範としてるにも関わらず、世間的には、その行いを社会貢献などの綺麗ごとにカモフラージュする詐欺行為』に当たるもの。そして、もうひとつは『社会貢献を事業と定義し、これを実現する行動を成し、社会貢献へ向けての規範をもうけているが、これらの達成のために便宜上、営利と生産を行う哲学的行為』になります。

つまり“事業目的”における、その【目的】が「営利の追求なのか?」それとも「社会貢献なのか?」で【事業に関する意味】も変わり、その意味が異なれば・・これに付随する すべての行いも自ずと決定づけられてしまう!というわけですが、なぜ これらが決まってしまうのでしょう? それは条件の意味を参照すれば よりよく理解されるはずで【条件】とは ●約束や決定をする際に、その内容に関しての前提や制約となる事柄 ●ある物事が成立・実現するために必要な、または充分な事柄。 ●法律などの効力の発生または消滅といった・・発生するかどうか不確定な将来の事実にかからせる付款(付加する制限) を指します。

よって目的が営利ならば “その事業に対する条件“ である『前提・制約・成立要件・法律・事実に関する制限』に関するすべてが、営利を目指すことになるのは当然なんですね。ようするに、最初の目的が・・営利か? 社会貢献か? で、それを達成するための条件でもある 前提や制約、成立条件のみならず、法律や事実なんかも、まったく別の解釈になってしまうのですが、このあたりがビジネスの最もややこしい部分と言える気がします。

しかるに、世の中を見回してみてば・・お金持ちになるには? 綺麗になるには? 幸せになるには? など、誰もが・・そして何もかもが「その条件のみを問うてる感じがしませんか?」良い就職先を得て、安定した暮らしを営むには 良い学校を出るのが条件である!なんてのは、その典型と言えるかもしれません。つまり、前述の考察によれば・・いくら条件を問うてみても、最初の目的を変えねば、その後は自動的に行動・思考ともに そこへしか向わない!のは確かなんです。したがって『今がうまくいかない』のであれば、最初の目的そのものを変えねばならない! のかもしれませんね。


結果論に生きるか? それとも真実を作るほうにまわるか?

2014年08月11日 | 日記

結果論とは・・原因・動機などを考えずに物事の結果だけをみて行う議論。または、事が起きた後で そのわかっている結果を前提として あれこれ論ずる無意味な議論 を指します。

つまり「成功したら〜もっと早く決断すべきだった」「失敗したら〜だからやめろと言ったじゃないか」といった “よく社内や家庭でも見かける言動の一種” ですが、これって “後出しじゃんけん” であり、もはや過ぎ去った過去を論じるやり方の典型と言える気がします。

ちょっとわかりにくい例えかもしれませんが、こういった『結果的にそれがうまくいったら・・早くやれば良かったのに』『結果的にそれがうまくいかなかったら・・だから やめろと言ったでしょ』の類としては、ごく最近 改定された さまざまな健康基準の数値も当てはまるのでは?

「最高血圧は129から147・中性脂肪は149から198・コレステロールは119から178・肥満を示すBMIは25から27.7」へと、それぞれ上限が変更されましたが、その理由は「このままでは病の人が増えすぎて財政がもたないので、数値を緩和して医療費を減らすため」と言われてます。もちろん同時に「人間ドック協会の健康な方 1~1.5万人のデータでは “健康な人の数値にも幅がある”よってそれを考慮した」というような言い訳も周到に用意されてたりします。

ここから垣間みえるのは「データの解釈などの “勝手にどのようにでも出来る代物” については〈医者が収入を増やせ!とうるさかったら “病の方を増加させるために低い数値を示す” 〉〈それでは財政がもたないとわかったら、少し患者数を減らすような数字を出してみる〉といった御都合主義かもしれません。

けれど、じつは・・こんなの市場マーケットでは当たり前で そこかしこに散見される事象と言えるでしょう。つまり 問題がどこにあるのか?といえば、それって目的にあるわけですね。国民の健康を目的にするなら 数値のダブルスタンダードなんてありえない。しかし、医学関係者の収入や国の財政を目的にするなら、数値なんて結果論から、その都度コロコロ変わらざるを得ない! ということです。 

世の中はマーケットで出来ている。また マーケットにおいては『誰かが作らなければ真実などない』のは当然の話。したがって『あなたが作らなければ、すべては誰かが作った真実でしかなくなってしまう』のが現実なんです。こう考えますと、人には『真実を作る人=マーケター』と『作られたものに従う人=結果論者』の二種類があり、どちらを選ぶか? は、その方次第と言えるのかもしれませんね。


メガネメーカー大手「JINS」 田中仁氏のコメント

2014年08月01日 | 日記

あるサイトに、メガネメーカー大手「JINS」を運営する 株式会社ジェイアイエヌの創業者であり代表取締役でもある 田中仁氏のコメントが掲載されていました。

田中氏は「学問では難しそうだから商売をしていこう」と高校生のときに決めていたそうです。商売を始めるには、まず“お金と経済の勉強をしなければならない”と考えた彼は・・その目的を果たすのに最も都合がよい『信用金庫への就職』という道を選びます。なぜなら、銀行には 多くの経営者が出入りしていて、いろんな業態・職種とのふれあいがあるとともに、金融にまつわるさまざまなやり取りを体験できるからですね。よって、彼は銀行を『経営を学ぶための実践的学校』と位置づけ、そこで給料をもらいながら就学に励むことにし 4年ほどの時を過ごす事になります。

もちろん、そういった“積極的な人物”なので、やる気も満載。業績も優秀。あちこちから引き抜きもあったのですが、その中で彼が選んだのは雑貨を扱う会社でした。そこへ就職する時も「将来は起業したいので、すぐ辞めるかもしれませんよ」と宣言し・・それでも良い!ということで、生活雑貨メーカーへと転職し、そこでも営業・企画ともにトップ。たった1年でやめてしまうことになるわけです。

そのあとは、すぐに同じ雑貨関係の会社を設立して、独立企業に乗り出すのですが、最初はうまくいかなくて大変だったようですよ。その理由として彼は「会社員の頃は毎月給料をもらえるのでお金のことを考えなくて済んだが、商売を始めてみると、企業の利益が自分や社員の生活へそのまま直結するゆえに儲けばかりへ気がいき、お客様視点が欠けてしまっていたからだ」と自己分析しています。これらもまさにそのとおりで・・ここがサラリーマンと経営者との最も大きな違いになるのでしょう。

このように考えると、何事も『自覚できる』という事。そして、現在 自分が何をしているのか? どんな方向へ向かっているのか? を的確に分析できる事が、経営者にとって不可欠な素養と言えるかもしれません。また彼は「大企業の中で働くのと、小さい会社で全部の業務をこなしながら働くのではまったく違う。起業を目指す人は“大きい会社で小さい仕事をする“より”小さい会社で色々な仕事をした“ほうが良い」とも述べていますが、分業作業のみの大企業と、オールマイティーに多様な業務をこなす中小零細の違いもここにあると思われます。

さらに彼は、デファクト・スタンダードの大切さも強調していて「JINSは眼鏡業界の先駆者かつ圧倒的なナンバー1。調達コスト・物流コストなどは最も安価である。よって価格競争になった時は絶対に他社には負けない」と、孫正義氏やユニクロの柳井氏と同じ趣旨のことを言っていて「現在は、店舗に自動加工マシンを導入して、ベルトコンベアー上にあるロボットアームで眼鏡を加工できるので、メガネ1本が2~3分で出来上がる。だから我が社は眼鏡をマクドナルドのように販売できる」との革新も随時実行しているのです。

他にも「Google glassはもっと小型化されれば普及する。けれどJINSはJINSだからこそできるイノヴェーションを世界に起こしていく。つまりそれは世界初の眼鏡を作ることだ。これについては既に開発を進めていて大学と共同で研究している」「日本語の検索で得られる情報と英語の検索で出てくる情報の差はかなりある。日本はある意味特殊な環境なので、国内だけを見てるようではダメだ」といった言葉からも、彼がイノベーションやデファクト・スタンダードをいかに重視しているかが窺い知れるでしょう。

また「大ヒット商品である ブルーライト対策眼鏡【JINS PC】や、花粉をブロックする【JINS 花粉Cut】は、自分のほしいものを製品にしただけ。」「何事もチャレンジしないことが1番のリスクになる。」などの言葉にも、多くの経営のヒントが隠されているような気がします。やはり、実業で成果を挙げてきた人物には、既得や学歴だけで経済を紐解く方とは一味違う【現実と事実】を垣間見ることができるのではないでしょうか。
 


常識・経済の非科学性

2014年07月29日 | 日記

自然科学とは『自然界の現象を研究する学問の総称であり、実験・観察・数理に支えられた、事実間の一般法則を見いだして実証しようとする経験科学』を意味します。ならば「経験科学ではなく、生まれた時から与えられてる常識なんて、真の意味での科学とは程遠い」のかもしれませんね。一般社会では、マーケットや流行によって すべてが左右されがちで、そこには自らが実験検証した裏付けも何も存在すらしていないのが現状なのですから。

もし、あらゆる事象に合理性を持ち込むなら「就職や職探しって いかにも狭い選択肢だ」「既存のマーケットで起業しても成功率が低くなるだけ」という答えもすぐに導き出せるはずですが・・たいていは『独立開業よりも就職優先。また、独立しても既存の業界にてビジネスを模索』といった実態が見て取れます。 

しかるに、流行とは今ある常識であり、マーケットとは今ある場。つまりそれらは、もうすでに出来上がってしまっている過去なのですね。事実、出来てしまったものは徐々になくなってゆくしかありません。

科学とは、そもそも常識や過去を疑うところから始まるもの。よって 科学には 未知と未来しかないのですが・・それは経営においても同様の事が言えるのではないのでしょうか。


人生は映画のようなもの

2014年07月25日 | 日記

人生って、よく映画にたとえられますよね。しかしながら、その映画を「自ら作っているのか」それとも「ただ見せられているのか」どちらの自覚を持たれているか? は大きな違いを生むような気がします。つまり、前者のスタンスは シナリオライターやプロデューサーの立ち位置であって、後者は観客のイメージですね。

もちろん製作者側には、途中でシナリオ変更も可能ですし、そもそも あらかじめ その脚本を読んだうえで、製作にうつすかどうかの選択肢も与えられています。しかしながら、観客には あまりそのような自由はないのが現状。作品を観てみないと良し悪しさえわからないし「つまらないから」と、途中で客席をたてば、お金と時間の無駄にもつながるでしょう。このように、自らの立ち位置を「自らの裁量で成し得るクリエーター」へ置くのか? それとも、すべて運次第の観客に置くのか? は大きな問題と言えるのではないでしょうか。

また、もしあなたがプロデューサーであったなら、同じような映画ばかり作りたくないのではありませんか? もちろん現実社会では マーケットのためにそうしている方も多くいらっしゃいますが・・・事情はともあれ、そんなのあまり好みじゃないのだけは確かでしょうし、少なくとも「変えようとの試み」は なされるはずですよね。

このように考えてゆけば、人生って 自らの事をどう考えているのか? によっても左右される代物かもしれませんよ。これからを「どっちつかずで中途半端という意味」のサスペンスにするのか? はたまた喜劇やミュージカル? それとも より多くの要素に彩られた面白いものにするか? は、きっと それぞれのスタンス次第にも思われます。 


自らの喪失によって生じるもの

2014年07月21日 | 日記

「最近の若い方は 無気力・無関心だ」 と、よく言われますが・・無気力・無関心が【一種の合理的判断に基づく自己認識】であることはあまり知られていません。つまり『努力したけど成果が出なかった』という挫折経験を繰り返すうちに、どこかの段階において、自らが自らに対して『何をしても無駄』といった “合理的判断を下した結果“ として 無気力・無関心が生じる!という見解ですね。

また「何をしても無駄」という認識は、同時に “自己の喪失をも意味します” から、すべての事柄から『何をしても無駄な自分を排除したところで、どうせ結果は同じ』なんて考えが出てきても不思議ではないでしょう。よって当然、自分がなくなればあるのは社会や他だけになるわけで・・ならば、あらゆる事象に対して「自分のせいではない」との回避傾向が顕著となり、やたら「他罰的・他責的」になるのもうなづけます。

こういった ディスチミア症候群やアパシー(青年期にみられる無気力・無関心)は「自分が何をしても無駄である」との自己喪失型の認識から“勝手に”生じるのかもしれませんが、これは熟年層におけるメランコリー親和型においても同じであり、あまりに社会や規範などを妄信しすぎても“自己を喪失する点”においては同様の事が起こるような気がします。

人生のベクトルを、自身と他のどちらへ向けるのか?「社会から自分へ」ではなく「自分から社会へ」逆転させてゆく必要があるかもしれませんね。物事は循環していますから、実際のところは どこから出発したとしてもあまり大差ありません。けれど、それがどこから出発しているのか? はとても大切なことのように思われます。


分業作業は日本文化にあわないのでは?

2014年07月16日 | 日記

海外、とくに欧米のレストランへ行かれると、日本の対応とのあまりの違いに驚く方が多いかもしれませんね。チップのややこしさはもちろんのこと、テーブルへ水を乱暴に置かれる、掃除をしてる人に注文しても知らんふりなど・・国内ではあり得ない対応がやたらと目につきます。

欧米では、仕事の内容もきわめて限定・分業化されていて「契約に基づくことをすれば給料は同じ」という感覚があり、日本人のように「店が儲かれば、それは自分にとっても良い事」といった意識はあまりないように感じられます。

けれど 昨今の日本企業においても、経営者・営業の人・経理の人などが明確に分かれていて、上記のような一蓮托生感覚が薄れてきたような気がするのは私だけでしょうか? 昔の商店の方は、販売から仕入れ・経理に至るまで、すべてをご自分でなされてましたが、サラリーマンやOLの皆さんは、きっと税務申告さえ会社まかせではないでしょうか。

そもそも欧米企業の体系を そのまま日本でやることの意義ってどこにあるの? との素朴な疑問もわいてきますが・・本当に分業化って、そんなに効率が良いものなのでしょうか? 元々日本文化は“そうじゃない”のだから、どうせなら真似するのではなく、もっと独自な“会社の代わりになるようなシステム“を作りだしたらよいのに・・なんて考えてしまうのです。

日本人は本来、あらゆる事を参考にしながら全部を自分で考えて、自ら新しいものを生み出す民族。遺伝子上や民族考察からも、そのための哲学や歴史・文化など、すべてを持ち合わせていました。分業作業を推進して、せっかくの素養を無駄にしてしまってはもったいない・・そんなふうに思わずにはいられないのですが。


武田邦彦先生の哲学

2014年07月12日 | 日記

テレビでもおなじみの 中部大学 武田邦彦先生のコメントに たいへん感銘を受けたものがありましたので ご紹介したいと思います。

人間はパンのみで生きることができない。本当のことを知る行為・・・つまり学問が必要である。事実、学問は人間を獣から考える葦にした。そして、学問は人間社会から迷信や虐待を少なくしてきた。

哲学は私たちの思想を作り、文学は安らぎを与え、科学技術は自然を明らかにし、人の寿命を延ばしてきた。学問はそれ自体に意味があり、社会の大きな発展と幸福に貢献する。だから学問はそれだけで良いのだ。科学技術は自然を探求するものだから社会の規則や道徳に縛られない。科学技術は創造物ではなく事実だから著作権などもない。科学技術には誰がやったとか、誰のデータというものもない。

自分の大学でノーベル賞がでたら、夕刻、みんなで研究室にあつまって拍手をする。そして翌日には普段と同じように当人もまわりも研究する。努力や成果に対しては惜しみない拍手をするけれど、それによってお金・地位・名誉をもらってはいけないのだ。何故なら私たちは自然の子だからだ。誰の論文? 引用はあったのか? 他人のデータ・繰り返し使う図表・コピ&ペースト・・・どれもこれも世間では問題だが、自然の前では意味なきことである。

人間が必死になって自然を解明してそれを利用する。そこでは万人が平等であり、その成果は万人に属する。そのために ずっと以前から、科学は人間社会から解放され、そして人間社会へ貢献してきた。貧弱でみじめなお金と利権・地位の亡者!そんな日本人にだけはなりたくないものだ。


人の営みは体内における化学反応

2014年07月11日 | 日記

最新の科学は「人間とはなにか?」を、さらに明確にし始めたようですね。●スパインは、脳神経のつながりを形成し脳の形状(神経可塑性のメカニズム)とその働きを決定づける ●Lynx1は、脳の発育の終わりに毒をもって脳神経の変化を抑制する ●ミエリン化は、絶縁性の髄鞘で軸索を覆い、神経パルスの電導を高速化する など、さまざまな科学的事実が明かされています。

つまり ①成長期の人の脳では、スパインによって複雑な神経組織が形作られ ②ある程度のところで Lynx1が出て、それ以降の変化を止め ③その後は元ある形状を網の目のようにつなぐバイパスが構築されるとともに、つながったところをより高速化させる機能が働くわけですが・・このように考えますと、脳には絶妙な発達経過と抑制機能という「まったく真逆の二つの作用」によって、じつに合理的かつバランス良く “さらなる進化が促されている様“ が、つぶさに見て取れます。

また、さらに ●脳内の視床下部にある内分泌細胞で生成されるホルモン(オキシトシンなど)が、愛情・好き嫌いといった感情を左右していることや ●老化や様々な病は、クロファージやサイトカインへ指令を出す役目を担う“T細胞”の暴走によって引き起こされる現象 といったことも、もはや科学では当たり前とされています。

ここから見えてくるのは「人それぞれに異なる、意志や好み・思い・考え・感情があるのは、脳ほかの構成形態に違いがあるから」ということでしょう。つまり、これらは各人の心の違いではなく、脳神経組織の構造やここから派生するホルモン・細胞の働きによって生じるものなのですね。ならばもし、人を科学的に表現するとしたら『体内化学作用の結果の表れ』といった表現もできるのではないでしょうか。


人は皆 科学者でなければならない

2014年07月08日 | 日記

本来、人は皆 科学者であるべきではないでしょうか。iPS細胞にしろ、どのような研究にしろ「成功例以外はすべて間違い」であり、また その一度得られた成果でさえも随時変わってゆくものにすぎません。よって これらを深く考察すれば「たったひとつの成功例を除いて、その他はすべて思い込みや勘違いであり・・また その一度得られた成果さえも時代とともに どんどん進化して変わってゆく」ことになりますよね。ならば、経済だって生活だって、これと同じようなものではないか? とも考えられるのです。

もしも「それはこうだよ。だって普通なら そうなるじゃないか。」といった 世間でよく見られる会話に対して「では やってみせて証明してください」なんて言ったら、みんな困ってしまうのではありませんか? きっと「私は専門じゃないから出来るはずない」との答えが返ってくる気がします。しかし このような会話そのものが 科学の世界では一切通用しないのですね。こういったことからも『いかに現代社会が 非科学的かつ非現実的なものか』が窺い知れるでしょう。

科学では、再現性のないものや結果があがらないものを “机上の空論” と言いますが、そもそも科学には常識さえ存在しないわけで・・もしそんなのがあったら、常識を覆すような製品やシステムが生まれてはこなかったはずです。つまり 革新とは いうなれば全部 非常識から生み出されたもの! となり、ここから理解されるのは『優秀なビジネスパーソンは科学者であり その姿勢はつねに非常識である』ということになります。

きっと人生なんて 理科実験のようなもの。この世が実験場なら 遊びも家庭も社会や国さえも実験室のような存在。国語や数学・社会ばかり論じていても面白くないわけで・・むしろ経済そのものを 理科実験のようなものにしてしまえば、もっと世の中 面白くなるような気がしてならないのですが。


日本の常識は世界の非常識

2014年05月21日 | 日記

多くのビジネスパーソンが「日本はある意味特殊な環境に置かれている」とコメントしてますが・・その最たるものが、情報ソースの偏りではないでしょうか。

ヨーロッパでは、工場のロボット化や自動化への反対運動が盛んです。オランダには安楽死がありますし、ドイツでは売春も解禁。また、イタリア人はほとんど離婚しませんが、イギリス・ドイツ・オランダは離婚率が半数に近く、フランスにいたっては婚姻制度さえ自ら崩壊させてしまったようにも見えます。

お国かわれば、そのあり方や議論もさまざま。日本の常識は世界の非常識・・なんてことも多いもの。ビジネスには独自性が求められても、情報の偏りは弊害しか生み出さないでしょう。ただ、先進国の事象でもそうなのですから、後進国の現状はもっとわかりませんよね。誰もが「飽和した先進国より、これから発展してゆく国へ」と考えてしかるべき。しかしながら、その内情がわからなければ、そもそも選択の範囲にもあがらない気がします。

世界には親日国がたくさんあり、日本にとって、その潜在的ビジネスチャンスは計り知れないのに・・情報がほとんどありません。少なくともASEANのニュースくらいはもっと流してもよいでしょう。国内では議論もしないし、ニュースにも取り上げられないなら「多言語を身につけた上で、情報は自ら取りに行く」今のところそれしか手はないようにも思われます。


懸命・賢明と他人事社会

2014年04月09日 | 日記

【懸命】とは「力の限り努めるさま。全力を尽くすさま。」また 同じ読み方の【賢明】とは「賢く物事の判断が適切であること」になりますが “生きる” って そもそも一体何なのでしょうね? それはやはり “命を使う事” になるのかもしれません。それも全力で・・だとしたら『懸命に生きる事こそが賢明でいられる事』につながるような気もしてきます。

しかるに 懸命の反対語は【適当・手抜き】ですが、これは自ら考えたり行動するのを途中でやめてしまう。いわゆる『あきらめる事』で生じる行為と言えます。したがって 何かをあきらめるとは・・自分の考えや行動を失くす事であり、それすなわち『他の人生を生きること』にもなってくるわけですね。

他の人生を生きるのは “他人事“ であって、それは もはや何もかもが自分の人生 “自分事“ ではなくなることを意味する。よって 懸命に生きないとすべてはあきらめにつながる。また 人はあきらめると・・社会や他へ身を任せて流される。これは【あきらめる⇒適当・手抜きの人生⇒自分事の消失⇒自らを他へおもねる⇒他人事の人生】という構図にもなりますよね。

ただ、このような経過は本人も知らないうちに自然発生的に生じるものですから、一度こういったスキームや流れにはまってしまうと、ここから逃れるのは至難の業かもしれません。理由は簡単で “自らの意思を失えば 自らに対する認識が出来なくなる” つまり 一度自らの認識を喪失すると、それが合理的かどうか? 現実に機能するかどうか? の判断さえ出来なくなってしまうという次第です。

このように考察してみますと、あきらめて自分を見失ってしまったら 才能も実力も身につかないどころか、経験さえ積めないこともわかってきますが、これを逆にとらえてみますと『才能や実力・経験があるからといって 自分事を生きられるわけではない。あきらめずにしつこく自分事を生きるからこそ 才能や実力・経験が身につく』そんな自然科学的な経過も見えてくるのではないでしょうか。


ダーウィンの進化論

2014年03月17日 | 日記

『進化論』で有名な英国の生物学者といえば チャールズ・ロバート・ダーウィン(1809~1882年)ですね。彼は「全ての生物は 長い時間をかけて共通の祖先から “自然選択のプロセス“ を経て進化してきた」とする “形成理論“ を唱えた人物として有名ですが、その他のことについてはあまり知られていないのも また事実ではないでしょうか。そこで今回は、少し その語録や生涯などもご紹介してみようと思います。

彼が提唱した 進化論の骨子は おもに下記の二点に集約されます。●最も強い者や最も賢い者が生き延びるのではない。 唯一生き残るのは 変化できる者のみである。●自然淘汰とは いかにそれが小さな事であろうとも、本来 有用でありさえすれば 後々までこれらが保存されていくという原理である。つまり 進化とは・・変化と有用性であって 現在考えられているような たんなる環境適合能力や弱肉強食ではないという事ですが・・このような考えへ至った経緯には、本来 地質学者であった彼が、なにゆえ生物学者になったのか? にも深い訳がありそうですね。

彼が生まれたのは19世紀初頭。当時は まさしく自由放任主義の弱肉強食や偏った資本主義が横行していて、人種差別や戦争・植民地主義・帝国主義など様々なイデオロギーが盛んな時代でした。また 信仰に対する強制や弾圧も日常茶飯事であり、科学者などの無神論者は 一般的には既存宗教と対立するとみなされていたために不遇な時期を送っていたのです。しかも まわりの人たちは他国を滅ぼして略奪する事だけに躍起となったわけで、そんな世で人間観察をしてても 自然な人としてのあり方・・つまり自然科学なんてつかめるはずがないと考えたのでしょう。よって、そういった人間の有様から離れて、世界中を航海したり 絶海の孤島に立ち寄りながら研究に没頭したい! と感じたのも自然な事だった気がします。

ようするに彼は、本来の人間とは何か? が知りたかっただけ。これはダーウィンが残した「1時間を無駄に過ごすような人間は まだ人生の貴重さを発見していない」や「真実を知るには勇気がいる」といった言葉からも窺い知れますが、彼が伝えたかった真実とは、きっと「皆は何も見えていない。だから人生をすべて無駄にしている。しかし そういった狂った社会で過ごす人たちにとって、本当のことを知るのはたいへん勇気がいる事かもしれない。」というような事ではなかったかと思います。

現状維持ばかり望んでいる現代でも、このような ダーウインのあり方は「変化を好む人生をおくれるか? その行いに有用性はあるか?」といった事を 私たちに語りかけてくるようでもあります。


教育基本法の誠実な実施を

2014年03月10日 | 日記

日本国憲法で定められた教育のあり方。教育基本法の目的と目標・理念を列挙しますと・・

(教育の目的)教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として、必要な資質を備えた 心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

(教育の目標)幅広い知識と教養、真理を求める態度・豊かな情操と道徳心・健やかな身体・個人の価値・創造性・自主と自律の精神・職業と生活と勤労の確保・正義と責任・男女の平等・自他の敬愛と協力・公共の精神・主体的な社会の形成への参画、発展に寄与する態度・生命を尊んで自然を大切にする・環境の保全に寄与する・伝統と文化の尊重・国と郷土を愛する・他国の尊重・国際社会の平和と発展に寄与する人物を育成する。 

(理念)国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送る。

となっています。お気づきのように、我が国の教育に関する法律で 一番初めにきているのは『人格形成』なんです。そして、この人格形成は理念のところでも再度はっきりと明示されています。つまり 日本の法律では公に【人格形成こそが なにをさておき日本人として最も重要な国民の義務】とされてるわけですが・・この事実をどれだけの方が認識されてるのでしょう?

申し上げたいことはひとつ。それは『法律で決められた教育基本法のとおりに教育を行いましょう』ということです。何も特別な事を新しく作るのではなく、はじめから明示されているものに沿って、それぞれが素晴らしい日本の原点に立ち返る。それだけできっと すべては変わってしまう! そんな気さえするのです。