『事実は小説よりも奇なり』は、英国の詩人 バイロンが語った有名な言葉であり「世の実際の出来事は、作り事の小説より ずっと不思議なものだ」といった意味になります。では そもそも事実って一体何なのでしょう? “事実“を辞書で引きますと【実際に起こった事柄・現実に存在する事柄】と出てきます。つまり これって、もうすでに“起こった。もしくは存在する事柄”なので「事実とはすべて過去系」ということになるのですね。要するに事実とは・・何もかもが「過去の出来事や起こってしまった事象の範囲内」にあるわけで・・もちろん、過去は変えられるはずもありませんので、事実とは、一度過去に定義されたものであると同時に、その後も一切変わらず未来永劫に受け継がれるであろう 過去の遺物ばかりになるのも当然に思われるのです。
上記の「変えられない事実」という認識体系は、現実生活を営む上では、いかにもおかしな受け取り方と言わざるを得ませんが、世間を見回してみれば、法律から生活そのもの、仕事に関する動機に至るまで、すべてが過去に一度“こうだ”と定義とされたものが、今もなお踏襲され続けている現実がつぶさに見て取れることでしょう。ここでの問題の根はひとつ。それは『物事の意味が一般解釈でしか把握されていない』点にあります。言葉の意味には、つねに“一般解釈とは別“の哲学的側面もあるのですよ。
しかるに“哲学における事実“とは【ある時、ある所に経験的所与として見いだされる存在。または出来事で、それは論理的必然性をもたず、他のあり方にも成りうるもの】と規定されています。つまり、事実とは「ある時・ある所に限定されるもの」であり、地球と宇宙空間では物理法則が異なるように、イタリアのファッションセンスと米国のそれは別物。アングロサクソンのビジネス的な事実と、ラテン系のそれとは違う!ということですね。つまり「そこでの事実とあそこでの事実は まるで異なる」よって、それらを一緒にして、漠然と捉えるのは間違いというわけです。もちろん、アフリカのそれと、中東のあれと、日本のこれに・・論理的必然性などあるはずもありません。したがって、同じ物事はいつだって“他のあり方にも成りえる”のです。
たとえば、上記の「所与」の意味についても【他から与えられる事や物。解決されるべき問題の前提として与えられたもの】という一般解釈における認識だけでなく、この“所与”には、他にも・・哲学上の【思考の働きに先立ち、意識へ直接与えられている内容】そして心理学上の【感覚に直接与えられたもの】といった複数の意味があるのです。つまり「思考する前に直接的に感覚として存在する~所与」とは、まさしく過去の既成事実そのものとなるわけですが、事実とは 他や社会から与えられるものではありません。既成事実としての所与を『経験的所与』にして、自らの手で作ってゆくものでしょう。そして、それらは同時に、いつだって他のあり方にも成りえるものなんです。