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わちさんぺい著『空のよもやま物語』と松戸飛行場

2015年11月20日 | 折々の読書
 著者を知る人も少なくなった。私は漫画家として認識していたが、わちさんぺい氏は戦時中、軍属として陸軍の航空機の整備をしていたのだ。福生の飛行場(陸軍航空審査部偵察隊)でテストされる新鋭機の地上での整備や、各種試験飛行に機関士として、あるいは「人間重り」として乗り込んだ。愛機(整備担当の飛行機)は三式指揮連絡機(キ-76 )であったようだ。
 そんなことから、もしかしたら、現在、私が調査している松戸飛行場や日本航空機工業株式会社についての記述があるかも知れないと思い、読んでみたのである。

 松戸という地名が出てくるのは2箇所だった。
 一つ目は103ページで、「冬のある日の午後、製作工場を千葉県松戸飛行場へ移転した、日本国際航空への連絡飛行を終わって、格納庫に前に戻り(以下略)」とある。著者の愛機である三式連絡機が、(恐らく平塚の工場が爆撃で被害を受けたため)松戸に移転した日本国際航空工業の工場へ連絡飛行をしたという記録であろうと思われる。
 もう一つは166ページに、「午後の予定は、神奈川県の平塚から、千葉県の松戸飛行場へ工場をうつした日本国際航空へ、部品をうけとりに飛ぶのである。重い頭を体にのせて、炎天のぺトンを、キ76指揮連絡機に向かい、エンジンをかける」という文章がある。

 これらふたつの記述からは、陸軍の松戸飛行場(現在の松戸市松飛台辺り)には日本国際航空工業株式会社(略称は日国。キ-76等の陸軍機のメーカー)の工場があった(移転していた)ことが分る。そして、著者が福生・松戸間を連絡業務や部品の搬送業務に当たっていたことが分る。しかし、断片的な記述であり、具体的なことは何も分らないに等しい。ただし、日国が空襲の被害により、平塚工場を松戸に移転したことは別の文献から明らかである。
 しかし、実際、母が記憶しているのは「日本航空機工業株式会社松戸製作所」であり、国際という文字は入っていなかった。そうすると、可能性は次の三つになる。

 一つは、松戸飛行場には、爆撃を避けて一部移転した日国の工場が〔日本航空機工業松戸製作所とは別に〕あった。例えば、飛行場内に工場が建てられ、わち氏は機を降りてすぐに工場に寄れた。
 二つは、松戸飛行場隣接の日本航空機工業松戸製作所が部分的に日国の工場として機能していた(肩代わりをしていた、あるいは下請けをしていた)。わち氏は機を降りて、道路を横断して日本航空機に出向いた。
 三つは、日本航空機工業株式会社は日国に合併されていた。わち氏にとっては日本航空機=日国であり、日国のイメージの方が強かったので上述の記述になった。不幸なことに、両社とも社名が似ていて混同が起こりやすい。

 この辺の事情は、マイナー過ぎるし、戦時、戦後の混乱の最中のことだから、さすがにインターネットでは分らず、関連文献を探し、読んでみなくては解決しそうにない。まあ、ここまで絞られたことだけでも、この本を読んだ価値はあったと言えるかも知れない。これからは、文献資料を探して読んでみようと思う。

 こんな読み方をされたのでは、泉下の著者も苦笑いをしてしまうだろう。念のため、付け加えておけば、整備員として、太平洋戦争の時代に好きな飛行機の側で青春時代を過ごした若者の感受性がにじみ出たエッセイとして、興味深い読み物である。有名な戦闘機や華々しい空中戦は出てこないが、戦争や軍隊は、それだけで成っているわけではなく、戦争に関わる人々の広大な裾野をもっていたことが分る。著者の視点は、裾野から見た、つまり、巻き込まれた側からのものであり、軍隊の理不尽さや、命の尊さがにじみ出てくる。

わちさんぺい著『空のよもやま物語;空の男のアラカルト』(NF文庫)、光人社、2008年9月刊.★★★



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