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瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」第61話・手荒い祝福

「はぁっ? パンツ男と結婚しただぁ?!」
「ちょっ、声大きい!」
 澪は血相を変え、顔をしかめつつ口の前に人差し指を立て見せた。
 声を上げた綾乃だけでなく、真子も、富田も、澪を見つめて呆然としている。落ち着いているのは事情を知っている遥だけだ。校門を出てすぐのところだったので、他にも何人か下校中と思われる生徒たちが近くを通っていたが、みんな怪訝な目を向けるくらいで立ち止まりはしなかった。澪はほっと胸を撫で下ろす。

 事の発端は、左手薬指にはめた指輪である。
 三年生になり、澪は理系に変更したので綾乃たちと別のクラスになったが、今までどおり都合がつけばみんなで帰ることにしていた。今日も特に予定がなかったので一緒に下校していると、綾乃が目ざとくも左手薬指の指輪に気付き、あれやこれやとからかうように詮索してきたのだ。
 別に隠しておくつもりはない。
 ただ、学校にはまだこのことを報告していないので、先に言うのはどうなのかと少し悩んでいた。正式な報告の前に噂になっては困る。しかし、友達なら信用して話すべきかもしれないと考え、内緒にしてねと前置きしてから簡単に事実を告げた。ずっと付き合っていた誠一と結婚した、と――。

「結婚なの? 婚約じゃなくて?」
「今朝、婚姻届を出してきたよ」
 半信半疑で尋ねてきた真子に、澪はにっこりと微笑みながら決定的な答えを返す。婚約だと思われたのはこの指輪のせいかもしれない。結婚指輪ではなく婚約指輪なのだ。誠一はあとで結婚指輪も用意すると言っていたが、一般的に婚約指輪よりシンプルで、日常生活でもさほど目立たず邪魔にならないものらしい。
 綾乃はじとりとした目を向けながら、腰に手を当てる。
「それさ、家族は知ってるわけ?」
「おじいさまも許してくれてるよ」
「……そう……だったらいいけど」
 それでも彼女のまなざしは疑わしげなままだった。疑っているというより腑に落ちないという感じだろうか。実際、婚姻届を提出したことはまだ報告していないので、彼女の勘はあながち間違っているともいえない。しかし、家族の問題であることを察したのか、彼女にしてはめずらしく踏み込んでこなかった。
 一方、真子は安堵したように表情を和らげていた。
「じゃあ、何も問題ないんだね」
「駆け落ちとかじゃないよ」
 あんな誤解をされるのはもう二度と御免である。武蔵と駆け落ちしたのではないかと世間に騒がれていたときは、学校でも好奇の目に晒され、遠慮のない物言いであれやこれやと尋ねられて大変だった。実はいまだに信じている人も多い。噂が一度でも広まってしまえば、事実無根であっても完全に誤解を解くすべはなく、ただ嵐が過ぎ去るのを待つしかないのだと思い知った。それでも、身近な人たちがわかってくれていただけ、澪の場合はまだ良かったのかもしれない。
「結婚式や披露宴の予定はないけど、高校卒業したら結婚パーティでもしようかって話をしてるところ。堅苦しくないガーデンパーティみたいな感じでやりたいなって。みんなも招待するから来てね」
「うん、楽しみにしてるね」
 真子はほんわりとした笑顔で答えた。しかし、綾乃は溜息を落として横目を流す。
「そんなに浮かれてて受験は大丈夫なわけ?」
「ん、そこはちゃんと真面目に頑張るから」
 さすがに浮かれていないと言えば嘘になるが、勉強を疎かにする余裕がないことくらいはわかっている。今になって理系に変更したのだから当然だ。自らの意志で研究者の道に進もうと決めた以上、これしきのことで泣き言を言うつもりはない。
「おーい、富田ぁ、息してる?」
 綾乃の声につられて顔を向けると、富田がだらしなく口を開いたまま呆然と立ち尽くしていた。綾乃がその眼前で手を振ってもまったくの無反応である。何もそこまで驚かなくていいのにと思いつつも、多少の申し訳なさは感じていた。
「何か、ごめんね?」
 とりあえず小首を傾げて謝罪する。が、不意に遥が割り込んできて、富田の上腕を掴んだ。
「富田、借りてくから」
 無表情でそう言うと、掴んだ腕を引きながら家とは反対方向に歩いていく。富田はどうにかよろよろと足を進めている状態だ。まるで魂が抜けてしまったかのように虚ろである。
 そんな二人を、綾乃はニヤニヤしながら見送っていた。
「遥! ちゃんと慰めてやれよー!」
「慰めるって……どういうこと??」
「まあまあ」
 尋ねた澪を煙に巻くように、彼女は白い歯を見せながら豪快に肩を抱いてきた。その勢いで少し前屈みになったまま、無遠慮にいたずらっぽい笑顔を寄せてくる。
「こっちは女子だけでお祝いしよ。特にめでたくもないけど」
「めでたいってば!」
 澪はすかさず言い返すが、もちろんいつもの辛辣な軽口であることはわかっている。これしきのことでいちいち腹を立てるようであれば、今まで彼女と友達ではいられなかっただろう。隣の真子も肩をすくめて小さく笑っていた。

「さぁて、何から聞こうかな」
 綾乃は頬杖をつき、獲物を狙う狩人のようなまなざしで澪を見据え、逃さないとばかりにニッと口の端を上げた。その隣では真子がニコニコと柔らかく微笑んでいる。二人の表情はまるで違うが、澪から話を聞き出したいという目的は一致しているのだろう。
 向かいの澪は、膝に手を置いたまま体をこわばらせた。
 澪たち三人の前にはそれぞれケーキと紅茶が置かれている。お祝いということで、澪の分については綾乃と真子がおごってくれるらしい。もちろん気持ちは素直に嬉しいが、それ以上の代償を求められることになりそうで少し怖い。
 綾乃はうっすらと湯気の立つ紅茶を口に運び、一息ついてから尋ねる。
「相手、本当にあのパンツ男?」
「うん……そうだけど……」
 すっかりパンツ男という呼称が定着してしまったようで、澪としては何ともいえない微妙な気持ちになる。
「ねえ、パンツとか言うのもうやめようよ」
「よりによってなんでパンツ男かねぇ」
 澪の話を聞いているのかいないのか、綾乃は見るからに不満げな面持ちで独りごちるように難癖をつける。パンツ男という呼称をあらためる気はまるでないようだ。紙ナプキンの上に置かれた小さめのフォークを手に取り、ケーキに突き刺しながら言う。
「名家の御曹司でもないんでしょ?」
「あ、全然そういうのじゃないよ」
「刑事だっけ?」
「……うん、まあ」
 今はもう刑事ではないが、警察には勤めているので似たようなものだろうと言葉を濁す。自分でもあまり違いがわからないので説明が難しく、また異動の経緯を追及されても答えに困るため、いっそ最初から言わない方が賢明だと思ったのだ。
 綾乃は口にケーキを放り込んで咀嚼しながら、フォークの先端を澪に向ける。
「刑事なんかとどこで知り合ったわけ?」
「そうそう、私もそれ気になってたの」
 ティーカップを持った真子もキラキラと目を輝かせて同調した。反発心を抱いている綾乃とは違い、何かドラマチックな馴れ初めを期待しているのだろう。澪は曖昧な笑みを浮かべる。
「中学生のときに刃物を振り回してる男を取り押さえた、って話はしたことあったよね?」
「ああ、卒業間際のころだっけ? 確かあれで感謝状もらったとか何とか……」
 綾乃が記憶を辿るようにぼんやりとそう言うと、隣の真子もそんなことあったねと相槌を打つ。二年以上前のことだが、二人ともおおまかには覚えていてくれたようだ。澪は小さく頷いて話を進める。
「あの事件の担当刑事が、誠一だったの」
「へぇ、それでパンツ男に言い寄られた?」
「違うよ、私の方が好きになったの」
 そう答えると、綾乃は愕然として大きく目を見張った。わざとらしく盛大に息を吐きながらうなだれ、テーブルに肘をついて頭を支える。
「あんたの趣味が本気でわからんわ……」
「綾乃ちゃん、顔だけじゃないんだよ」
 真子がにこやかに微笑みながらフォローする。しかし、その内容は誠一に対して微妙に失礼であり、澪は思わず乾いた笑いを浮かべてしまう。確かに顔で好きになったわけではないが、顔もそれほど悪くないはずだ。男前や美形ではないものの、あくまで普通だと思っている。
「それで、澪ちゃんから告白したの?」
 彼女は前のめりになって尋ねてきた。口調こそ穏やかだが、過剰な期待はまるで隠せていない。
「ん……でも最初は断られちゃった。年齢的にまずいとか言われて」
「はぁっ?!」
 素っ頓狂な声を上げたのは、尋ねた真子ではなく隣の綾乃だった。
「澪の告白を断るなんてパンツ男のくせに生意気っ!!」
 ダンッ、と勢いよくテーブルに両手をついて身を乗り出す。澪はびくりとして上体を引いた。ソーサにのせたティーカップはガチャリと音を立て、中の紅茶がこぼれんばかりに大きく波打っている。まわりの客や店員たちは、何事かと心配するような目をこちらに向けていた。
 それでも、真子は笑顔を崩さなかった。
「常識のある大人なら、そうするんじゃないかな」
 刺激を与えない控えめな物言いに、綾乃は納得のいかない様子ながらも冷静さは取り戻したようだ。元の長ソファにどさりと腰を下ろしてもたれかかり、腕を組んで口をとがらせる。
「でも、結局付き合ったんでしょう?」
「半年くらいあとでね」
 そう答えて、澪は懐かしさに目を細める。
「16歳になっても気持ちが変わらなかったら考えるよって言われたから、それまで半年くらい警視庁に通いつめて差し入れとかして、16歳の誕生日にもう一度あらためて告白してようやく、って感じ」
 あのころは若かったな、とほんの二年ほど前のことなのに、遠い出来事のように感じてしまう。馬鹿みたいに無邪気で、無鉄砲で、自分の気持ちにまっすぐで、相手のことも考えずに飛び込んでいく。一歩間違えればストーカーである。しかし、あのときの自分があったからこそ、こうやって好きな人と結婚できたのだ。反省はしても後悔はしたくない。
 だが、綾乃は忌々しげに顔をしかめていた。
「あのパンツ男いったい何様のつもり? 澪のためを思ってきっぱり断るならまだしも、16歳になったらとか偉そうに……ま、こんな美少女を逃すのは惜しいと思ったんだろうね。あの冴えない男にはありえないくらいの奇跡だし。最初ちょっと格好つけて断ってみたけど、欲望には勝てませんでしたってところか……くそっ、エロパンツ男め」
「そんなんじゃないよ」
 澪は上目遣いでむうっと口をとがらせる。反論したいがうまく言葉が出てこない。見つめかえす綾乃のまなざしは冷ややかだった。
「男なんてだいたいエロいことしか考えてないんだよ」
「でも、誠一は付き合って半年は何もしなかったもん」
「半年で手を出したんじゃん。16歳に」
「あっ……でも、それは私の方が……」
 そう言いかけて我にかえり、あたふたしながら口をつぐんでうつむいた。変に思われていないだろうか。そろりと前の二人を窺うと、綾乃も真子もぽかんとして顔を見合わせている。そして――。
「澪の方から誘ったわけ?」
 綾乃に指をさされ、ズバリ言い当てられてしまった。
 さすがに嘘をつくことはできず、顔から火が出そうになりながらも正直にこくりと頷いた。今まで綾乃たちとは恋愛の話などほとんどしていなかったのに、どうしてこんなことまで暴露させられているのだろう。もう、このくらいで勘弁してほしい――。
「大胆なことしたね、初めてなのに」
「っ……?!」
 あからさまに動揺したあと、鎌を掛けられたということにようやく気が付いた。どうやらまんまと引っ掛かってしまったようだ。したり顔の綾乃を恨めしげに睨んで口をとがらせる。それでも彼女の暴走は止まらなかった。ゆっくりと頬杖をつき、意味ありげにニヤニヤしながら問いかけてくる。
「それで、そっちの方はどうなの?」
「そっちって……え……?」
「下手そうだよね、何となく」
「別に、下手じゃないよ」
「比べる相手もいないのに?」
「…………」
 比べる相手がいないわけではない。が、そんなことは口が裂けても言えないし、そもそも絶対に比べるべきではない。無意識に比較しそうになる思考を振り払うかのように、乱れる髪も構うことなくぶんぶんと頭を振る。いつのまにか顔はひどく熱を帯びていた。
「もう、綾乃ちゃんやめようよ、澪ちゃんのお祝いだよ?」
「だって、聞けば聞くほど心配になってくるんだもん」
 ようやく真子が窘めてくれたが、綾乃はしれっと言い返すばかりで反省の色は見えない。
「澪ならいい男を捕まえ放題なのにねぇ」
「私にとっては誠一がいちばんだもん」
「何でこんな欲のない子に育ったんだろう」
 いや、欲があるからわがままを言って誠一と結婚させてもらったんだけど――そう思うものの、綾乃には理解してもらえない気がして言い返せなかった。きっと何ひとつ良いところのない粗末な男に見えているのだろう。人それぞれ好みや基準があるのだから仕方ないかもしれないが、せめて自分の基準が絶対でないことくらいはわかってほしい。けれど――。
「私は素敵だと思うな」
 真子は柔らかい声でそう言い、ニコッと笑う。
「澪ちゃんはちゃんと自分に合う人を見つけたんだよね。結婚を認めてもらうの大変だったんじゃない? 澪ちゃんのところは大きな財閥だし、年齢のこともあるし……でも、相手の人が澪ちゃんのことを本当に好きだから、逃げずに認めてもらおうと頑張ったんだよね。お互いに心から想い合っているんだろうなって、何となくわかるよ」
「真子……」
 澪は感極まって両手で口を押さえ、目を潤ませた。これほど純粋に認めてもらえたのは初めてかもしれない。話してもないのにここまで察してくれたのも驚きだった。今まで反対ばかりされてきたのでなおさら心に染みる。ニコニコと微笑んでいる真子を見つめて、泣きそうになりながらこくりと頷いた。
 綾乃はふうと細く息を吐き、片目をつむって頭を掻く。
「ま、澪が幸せならいいんだけどさ」
「私、すごく幸せだよ」
「そりゃ、今はそうでしょうよ」
 とろけた笑みを浮かべる澪に、彼女は溜息まじりで呆れたようにそう返した。確かに、相手のことが好きで結婚したのだから、結婚したその日が幸せなのは当然である。大事なのはこれからだ。澪はあらためて彼女に強いまなざしを向けると、すっと背筋を伸ばす。
「十年後も、二十年後も……ずっとずっと幸せでいる」
「本当そうなってよ? 不幸な澪なんて見たくないんだから」
「綾乃にもうらやましがってもらえるような夫婦になるよ」
 臆することなくそう言うと、むすっとしていた綾乃の表情が少しだけ緩んだ。もしかすると、容赦のない言葉で根掘り葉掘り尋ねてきたのは、澪を案じるがゆえだったのかもしれない。絶対に幸せになるから――今すぐに認めてもらうのはさすがに難しいだろうが、これから何年も何十年もかけて証明していけばいい。そして、いつかは綾乃にも良かったねと言ってもらいたい。
「ケーキ食べようよ。紅茶も冷めちゃうし」
 真子が朗らかにそう言うと、澪も綾乃も我にかえったように笑顔を見せて同調した。互いに言いたいことは言ったので、二人ともすっきりした顔をしている。ここからは美味しいケーキと普通のお喋りを楽しもう――澪は少しぬるくなった紅茶を口に運び、ほっと息をついた。

「今朝、婚姻届を提出してきました」
 その日の夜遅く、剛三と悠人が仕事から帰ってくると、澪は書斎に足を運んでそう報告した。
 剛三は表情を動かさなかった。執務机の上で両手を組み合わせたまま、威圧的とも思えるまなざしで、射抜くようにじっと澪を見つめている。
「随分、早かったな」
「頑張りましたから」
 そう返すと、彼の表情がふっと和らいだ。
「おまえの勝ちだ」
「……ありがとうございます」
 勝ち、とあっさり認めてもらえるとは思わず、一瞬きょとんとして反応が遅れてしまった。しかしながら剛三のそばに控えている悠人も、祝福するように優しく微笑んでくれている。それを見て、ようやく本当の決着がついたのだと実感することができた。
「南野君には話したが、結婚についての条件は聞いたか?」
「はい、高校卒業まではこの家に住めって話ですよね?」
 これが澪を思っての措置だということは理解していた。誠一のアパートからでは通学に時間がかかりすぎる。新居を探すにしても、どうせなら大学生になってからの方がいいはずだ。あと、高校生のうちは三者面談などで保護者が必要になるため、悠人と同居していた方が都合がいいというのもあるだろう。
 うむ、と剛三は首肯する。
「休日前であれば南野君のところに泊まりにいっても良いが、連絡は入れるように。南野君に泊まりに来てもらっても構わない。ただ、勉学とは別のことに励みすぎぬよう気をつけるのだぞ」
「わ、わかってますよ……」
 真顔で注意され、澪は居たたまれなさに身を小さくしてうつむいた。いつのまにか耳まで紅潮していたが、変に意識しているようで余計に恥ずかしい。しかし、剛三はそんなことなど少しも気にする様子はなく、まっすぐに澪を見つめたまま畳みかける。
「美咲の研究を継ぐと言ったのはおまえ自身だ。浮かれている余裕はないぞ」
「はい」
 彼の真剣な声音に、澪の気持ちも顔つきも自然と引き締まった。浮かれていても忘れたことはない。誰のためでもなく自分自身の未来のために、やるべきことをきっちりとやるだけである。
「学校には悠人から連絡を入れておく」
「よろしくお願いします」
「あちらのご家族には挨拶したのか?」
「それが……」
 困惑ぎみにそう言いながら、顔を曇らせる。
「私としては婚姻届を出す前に挨拶したかったんですけど、誠一があとにしようって。先に挨拶すると面倒なことになるとかどうとか……」
 澪としては悪い印象を持たれないようきちんとしたかったのだが、誠一が譲らなかった。面倒なことになる前にとりあえず先に出してしまおう、あとで自分がちょっと怒られれば済む話だから、などと言うのだ。今から納得してもらおうとすると期限に間に合わないかもしれない――とまで言われてしまえば、不本意ではあるが従うしかなかった。
「まあ、それが賢明かもしれんな」
「……急だったからですか?」
 澪がそう尋ねると、剛三は思いきり呆れたような顔になった。
「おまえは自分が橘財閥の娘だという自覚はあるのか? しかもまだ高校生だ。そんな相手と結婚などと聞かされれば、卒倒してもおかしくないだろう」
「そうでしょうか?」
 澪は口をとがらせて小首を傾げた。しかし、当然ながら彼の意見は翻らない。
「あちらは一般家庭で、しかも家族はごく普通の方々なのだぞ」
「そうだとしても……あれ? 誠一の家族を知ってるんですか?」
「面識はないが身上調査はした」
 えっ、と小さく声を上げて目をぱちくりさせる。それって探偵に依頼してこっそり調べてもらうものじゃ――まさかそこまでやっていたとは夢にも思わず、その場に立ち尽くしたまま声もなく狼狽する。それでも、剛三には少しも悪びれた様子はなかった。
「当然だろう、下手な相手と結婚させるわけにはいかんからな」
「下手な相手って……」
「本人や家族に問題があるのはもちろん、良からぬ下心がある場合も該当する。おまえには自覚など微塵もないようだが、橘財閥の娘というだけでいくらでも利用価値があるのだ。そういうことをやりかねない相手であれば、慎重にならざるを得ない」
 利用価値云々はともかく、問題の有無を調べたいという親心はわからないでもない。
「誠一はどうだったんですか?」
「本人にも家族にも問題はない。父親は中小企業の課長、母親は主婦、いたって普通の家族だ。我々にとっては毒にも薬にもならんし、澪を利用することも出来ぬだろうから、おまえたちの好きにさせてやったのだよ」
 問題がなかったことは良かった。
 ただ、好きにさせてやったなどという恩着せがましい物言いについては、あのような勝負まで仕掛けておきながらよく言えたものだと腹立たしく思う。それでも、剛三が本気で妨害していたらひとたまりもなかったはずだ。誠一と結婚させても構わないと考えていたのは確かだろう。一応ではあるが、彼の方にはあらかじめ結婚の許可を与えていたのだから。
「おかげで、橘財閥は終わりかもしれんが」
「えっ?」
「後継者問題を解決する目処が立たんのだ。このままでは、関連会社を含めて何十万という従業員と家族が路頭に迷うことになる。澪が協力してくれることに最後の望みをかけていたのだが、仕方あるまい」
 うそ――。
 澪の顔からすうっと血の気が引いた。悠人と結婚させようとしたのは後継者問題のためだと聞いていたが、それを拒否すればどういう結果になるかなど考えもしなかった。ただ自分が幸せになることしか頭になかった。まさかここまで深刻な事態になるだなんて――縋るように悠人を見るが、彼はこちらには目も向けず硬い表情でうつむいていた。
「しゃんとせい!」
 剛三に一喝され、澪はビクリと体を竦ませる。
「我々の懇願をつっぱねてまで自らの意志を貫いたのだ。ふらふらせず最後まで貫き通せ。たとえ誰にも祝福されることのない結婚だとしてもな」
「そのつもりでした……でも……」
 何十万もの人たちの生活を犠牲にしてまで幸せになることが、正しい選択とは思えない。だからといってようやく掴んだこの幸せを手放したくはない。でも――結論の出ないまま、堂々巡りで同じことばかり考えてしまう。
 剛三は表情を険しくし、静かに口を開く。
「おまえにひとつ忠告しておく。決断はあらゆる可能性を吟味して慎重に下し、その結果はいかなるものでも冷静に受け止めろ。そうでなければ対処を考えることもままならんからな。澪、おまえはいつも逆だろう。思うがまま考えなしに突っ走り、結果におろおろする……それでは科学者としてやっていくのは難しいぞ?」
 痛いところを突かれた。
 今回のことも考えが足りなかったのかもしれない。だからといって今さらどうすればいいのだろう。痛いくらいに胸がつまり、息もできず、じわりと涙が滲んできた。冷静に受け止めろと忠告されたばかりなのに――。
「このくらいにしてやるか」
「…………?」
 顔を上げ、濡れた睫毛できょとんと目を瞬かせる。視線の先の剛三はフンと鼻から息を抜いた。
「後継者問題などたいしたことではないわ。まあ、おまえと悠人が結婚してくれれば話が早かったが、そうでなくても対処方法はいくらでも考えられる。これしきのことで橘財閥が潰れるわけなかろう」
「…………!」
 驚きのあまり声が出なかった。つまり、終わりだの何だのと言っていたのは、すべて虚言ということになる。安堵して全身の力が抜けていくのを感じたが、同時にあまりにも悪趣味な嘘にカチンときた。
「どうして騙したんです?」
「半分は意趣返し、半分は忠告だよ」
「……ご忠告、心に留めておきます」
 意趣返しなど大人げなさすぎるが、忠告は澪を思ってのことだろう。腹立たしさを抑えて神妙に答える。
 ふと、剛三が後ろに控えていた悠人に目配せした。彼はその場にしゃがむと、がさごそと派手な音を立てて何かを始めたが、執務机に阻まれているためほとんど見えない。やがて立ち上がった彼の腕にあったのは、抱えきれないほどの大きな花束だった。
「え……」
「僕と剛三さんから」
 悠人はにっこり微笑んでそう言うと、大きな花束を抱えたまま颯爽と歩き出し、澪のすぐ向かいまできて足を止めた。そのまま身を屈めながら手渡してきた花束を、澪は両腕いっぱいに抱えて受け取る。予想していなかった重みを腕に感じ、落とさないようしっかりと力を込めた。
 こんなに花束が重いなんて、知らなかった――。
 顔半分ほど埋もれたようになりながら目の前のそれを眺める。ピンク系のバラやカーネーションなどを基調として、いくつかの白いガーベラがアクセントになっている、とても華やかで可愛らしい印象のものだ。ほんのりと甘くて生っぽい匂いが鼻をくすぐる。
 これは結婚祝いと受け取ってもいいのだろうか、結婚したことをあらかじめ知っていたのだろうか、いつのまに花束なんて用意していたのだろうか、本当に祝福してくれているのだろうか――おずおずと視線を上げて正面の悠人を見やる。そこにあったのは、澪の大好きな優しくて穏やかな笑顔だった。
「おめでとう、澪」
 柔らかい声が、じわりと心にしみいった。
 開いた目からあたたかい涙があふれ、頬を伝い、淡いピンク色の花弁に雫となって落ちる。声にならない感謝の気持ちを、喜びを、幸せを、あふれそうなほど顔いっぱいに広げると、全身で大きく弾むように頷いてみせた。


…これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

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