「オレの愛しい王子様」第9話 積み重なる後悔

 ——今日からひとりで登校する。
 迷ったすえ、創真は必要最低限のことを記した端的なメッセージを翼に送った。
 かじかむ指先でアプリを閉じ、電源を落としてスマートフォンをスクールバッグに放り込む。そして白い息を吐きながら、チェック柄のマフラーをもぞりと口元まで引き上げると、寄りかかっていた自宅の塀から背中を離して歩き出した。

 きのう、フェンシング対決で負けてから翼と顔を合わせていない。
 ——今日は先に帰ってほしい。
 ——わかった。
 創真のひどく打ちのめされた気持ちを汲んでくれたのか、頭を冷やす時間が必要だと考えたのか、あるいは翼自身も顔を合わせる気になれなかったのか、不躾なメッセージひとつで了承してくれた。
 そして、頭が冷えて気がついた。
 フェンシング対決など持ちかけるべきではなかったと。あのときはそうするしかないと思いつめていたが、勝っても負けても元には戻れない。翼に想いを告げた時点でもう詰んでいたのだ——。

「おい、創真!」
 学校へ向かう途中、後ろから怒気をはらんだ声で名を呼ばれ、同時に痛いくらいの強さで肩をつかまれた。足は止めざるを得なかったが振り向きはしない。乱暴に肩を引かれて無理やり振り向かされても、顔だけはそむける。
「ひとりで登校するって何だ」
「…………」
 無視していると、両手で頬をはさまれてグイッと顔の向きを変えられた。目の前に翼の端整な顔が迫っている。ひどく険しい表情だが、それよりも近さにドキリとしてあわてて目をそらす。
「察しろよ。オレはおまえに惨めにふられて、惨めに負けたんだ」
 やけっぱちにそう言い放ったら、翼は無言のまま頬をはさんでいた手をゆっくりと下ろした。それでも射貫くような真剣なまなざしは変わらない。
「勉強には来るんだろうな?」
「もうおまえの隣にはいられない」
「は?」
 地を這うような声で聞き返された。
 思わずビクリとするが、それでも曖昧に目をそらしたまま何も答えない。呼吸さえためらうくらいに空気が張りつめていく。
「ずっと僕を支えてくれるんじゃなかったのか。そう約束しただろう」
「…………」
 できるならそうしたかった。
 告白も勝負もすべてなかったことにしてしまえば、表面的にはいままでどおりでいられるのかもしれない。翼はそのつもりのようだ。けれど、創真にとってそれはとてつもなく苦しくて惨めなことで——。
「見損なったぞ」
 いつまでも口をつぐんで目をそらしていれば、拒絶でしかない。
 翼はきつく睨みながらそう唾棄するように言い捨てると、怒りまかせに大きく身を翻して立ち去っていく。その後ろ姿はあっというまに遠ざかって小さくなり、やがて見えなくなった。

 その日から、翼は東條とふたりで行動するようになった。
 学校中さもありなんという空気だ。創真が何か逆鱗に触れるようなことをしでかしたので、フェンシング対決でこてんぱんにされたあげく捨てられた——そんなふうに見られているらしい。
 おかげでまわりからは腫れ物に触るような扱いをされている。無遠慮な視線を向けてひそひそとうわさ話をするくせに、誰も声はかけてこない。もっとも尋ねられたところで話せることはないのだが。
 それより翼と東條が親しくするさまを見るのがつらい。翼はまるで東條が唯一無二の親友であるかのように振る舞っているし、東條もいささか戸惑いながらも満更でもない感じだ。
 ただ、東條はときどき心配そうな目を創真に向けてくる。仲直りしなくていいのかと訴えるかのように。袂を分かつことになった原因や経緯については、おそらく知らされていないのだろう。
 もう仲直りとかいう段階ではないのだ。
 きっとあの朝が最後のチャンスだった。感情を殺してでも翼に従えばよかったのかもしれない。どれだけ苦しかろうが、惨めだろうが、翼と離れるよりはよほどましだったのではないか——。

「圭吾、今日これからうちに来られるか?」
 フェンシング対決から三日後。
 ひとり黙々と帰り支度をしていると、ふいに後ろの席からそんな声が聞こえてきて、創真は思わずドキリとしつつ耳をそばだてる。それを悟られないよう意識して手を動かしながら。
「え、まあ……いきなりどうしたんだ?」
「僕の勉強に同席するって言ってただろう」
「ああ、それか。こんな急だとは思わなかった」
「きのう親から許可をもらったんだよ」
「まだ何も準備してないけどいいのか?」
「身ひとつでくればいいさ」
 ふたりは席を立ち、なごやかに笑い合いながら教室をあとにした。
 いよいよ西園寺の後継者教育に東條が同席するようだ。当然のなりゆきだが、本当に現実になると思うとあらためてショックを受ける。自分にはもうそんな資格すらないというのに——。

 創真はひとりで帰路についた。
 空はどんよりとした鈍色で、吹きすさぶ風も今朝より一段と冷たくなっている気がする。ダッフルコートのポケットにかじかんだ手を突っ込み、ぐるぐる巻きのマフラーに顔半分うずめながら、赤信号を待つ。
「創真くん」
 ふいに凜とした声で呼びかけられた。
 振り向くと、腕が触れるか触れないかくらいのところに桔梗がいた。翼の姉だ。まわりに誰もいないところを見ると彼女もひとりらしい。創真はきまり悪さを感じながらおずおずと会釈をする。
「まだ翼と仲直りしていないのね」
 彼女はそう言い、うっすらと同情めいた笑みを浮かべた。
 同じ学校なのでフェンシング対決のことは知っているのだろう。だが、その原因や経緯までは知らないはずだ。創真はマフラーに顔半分うずめたまま曖昧に視線を落として、ぼそりと答える。
「もう愛想を尽かされたんです」
「それはどうかしら」
 桔梗は間髪を入れず疑問を呈した。
「あなたたちのあいだに何があったかは知らないけれど、あの子のことだからつまらない意地を張っているだけじゃないかしら。創真くんもご存知のとおり感情的なところがあるもの。きっとそのうち後悔すると思うわ」
「翼は、もう新しい補佐役を見つけてます……オレよりずっと優秀な……」
 自分は切り捨てられたのだ。
 翼の決めたことに私情で難癖をつけ、恋愛を持ち込み、あげく約束を反故にして逃げ出す——そんな面倒な人間をそばに置く理由はない。もともと目をつけていた東條に鞍替えするのは当然である。
「それなら私のところにおいでなさいな」
「えっ?」
 驚いて顔を上げると、桔梗はやわらかく創真を見つめて微笑んでいた。
「そろそろ将来に向けて信頼できるパートナーがほしいと思っていたところなの。創真くんのことは前々から買っていたからちょうどいいわ。私ならもっとあなたを大事にしてあげられるけど、どうかしら?」
 本気、じゃないよな——。
 創真のことを買っていたなど元気づけるための方便としか思えない。桔梗が将来どうするつもりで何のパートナーを求めているのかはわからないが、何の取り柄もない人間をほしがりはしないはずだ。
 しかし、これで創真が乗り気になったらどうするつもりなのだろう。もしかしたら末席くらいには置いてくれるのかもしれない。彼女は自分の言ったことには責任を持つタイプのように思う。ただ——。
「すみません……これ以上、翼に嫌われたくないので」
 それが創真のまぎれもない本心だった。
 桔梗のもとへ行けば、翼は間違いなく当てつけだと憤慨するだろうし、創真を嫌うどころか憎むようにもなりかねない。それだけは避けたかった。たとえもう二度と隣に立つことができないのだとしても。
「そう、残念ね」
 まるで本当にそう思っているかのような寂しげな表情で、桔梗は言う。
「気が変わったらいつでもいらっしゃい」
「はい……」
 社交辞令だろうと思いつつも、何となく申し訳なさと気まずさを感じてしまい、もぞりとマフラーにうずもれるようにしてうつむく。彼女も黙ったままである。寒風の吹きすさぶ乾いた音だけしか聞こえてこない。
 正面の信号は、どうしてだかなかなか青にならなかった。


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「オレの愛しい王子様」第8話 暴走のゆくえ

 東條の家をあとにして、創真と翼はいつものように並んで帰路につく。
 そのころにはもうすっかり夜の帳が降りていた。住宅街には家のあかりと街灯くらいしかないのでかなり暗く、ひっそりとしている。自分たちの足音だけがやけに響くような気がした。
 ふっ——ひそかについた小さな溜息は、白いもやになる。
 日中はそうでもなかったが、いまは厚手のダッフルコートを着ていてもぶるりと震えるくらいだ。きっと鼻も赤くなっている。けれど、それよりも心のほうがもっとずっと寒かったのかもしれない。

「すこし長居しすぎたかな」
 翼は夜空を仰ぎ、ふわりと白い息を吐きながら苦笑した。
 つられるように創真もちらりと見上げる。冬は空気がきれいで澄んでいるというが、星は見えず、月がどこにあるのかさえもわからない。ただ何もない闇が広がっているだけだった。
「そうだ、一応、家に連絡しておくか」
 赤信号で足を止めると、翼は思い立ったようにスマートフォンで電話をかけた。友人の家に行っていたからこれから帰る、あと二、三十分かかる、というようなことを使用人に伝えていた。
「創真は連絡しなくていいのか?」
「……別に大丈夫だろ」
 視線を向けられて、創真は思わず逃げるように顔をそむけてしまう。声音もひどく突き放したようなものになってしまった。
「…………」
 沈黙が落ち、すこし空気が変わったような気がした。
 下を向いているので翼がどんな顔をしているかはわからない。けれど、わずかに足を動かしてこちらに体を向けたのはわかった。ドクドクと痛いくらいに心臓が暴れるのを感じながら、創真は息を詰める。
「なあ、おまえどうしたんだよ」
「どうもしてない」
 ちょうどそのとき信号が青になり、とっさに逃げるように横断歩道へと足を踏み出したが、翼に手首を引かれてよろけながら戻るはめになった。それでも顔だけは頑なにそむける。
「こっち向けよ」
 苛立ち露わに、翼はギリッと力をこめて手首を握り込んだ。
 しかし創真が痛みに顔をゆがめたことに気付くとすぐに手を離し、代わりに両手で頬をはさんで自分のほうに向けさせた。そして息がふれあいそうなところまで顔を近づけて言葉を継ぐ。
「圭吾の家にいるときからおかしかったよな。ぶすくれたまま僕と目を合わせようとしない。話しかけてもろくに返事をしない。いったい何が気に入らないっていうんだ」
「……別に」
 創真は顔を固定されながらも必死に視線をそらした。あまりの近さにどきまぎする一方、心の奥底まで暴かれてしまいそうで恐ろしくもあった。だがこれくらいで逃がしてくれるほど翼は甘くない。
「こんな態度で別になんて言われて信じられるか。納得いく答えを聞くまで帰さない。今晩は雪も降るらしいし、このまま一晩中ここにいたら僕も創真も凍え死ぬかもな」
 そんなことを言い、挑みかけるように不敵に口元を上げる。
 こうなると翼はもう絶対に引かない。口先だけでなく本当にその覚悟でいるのだ。だからいつも創真のほうが折れるしかなく——目をそらしたまま、わずかに眉が寄るのを自覚しつつ口を開く。
「なんで……なんで、あいつを勉強に呼ぶんだよ」
「ん?」
 翼はきょとんとし、創真の頬から手を離して話し始める。
「構わないだろう。僕だって考えなしに呼んだわけじゃないぞ。圭吾は英語がネイティブレベルだし、英語以外の成績も悪くないし、なかなか将来有望だ。僕の補佐にすることも視野に入れている」
 補佐にする、だって——?
 確かに成績も悪くないというかむしろ良いほうだ。翼には及ばないものの創真よりはだいぶ上である。おまけに翼との相性もずいぶんといいようなので、考えてみれば当然のなりゆきかもしれない。
「でも、補佐はオレが……」
「もちろん創真には補佐として支えてもらうつもりでいるさ。お払い箱にするわけじゃないから心配するな。ただ、優秀で忠実な補佐がもうひとりふたりほしいんだ。わかるだろう?」
 わかりたくはなかったが、何となくわかってしまった。
 創真には補佐としての能力が足りないということだ。お払い箱にしないのは幼なじみゆえの温情かもしれない。その代わりに優秀な補佐を追加するというのなら、甘んじて受け入れべきだろうが——。
「まさかおまえ拗ねてるのか?」
「嫌なんだよ、翼の隣にオレじゃない誰かが立つのは!」
 鬱屈した本音がとうとう暴発した。
「翼の隣はオレだけに許された場所だと思ってた。翼がいろんなひとに愛想を振りまいても、翼の気持ちがオレになくても、翼の一番近くにいられるならそれでよかった。公私ともに唯一のパートナーになりたかった。なのに……!」
「…………」
 翼はしばらく考え込むような素振りを見せたあと、怪訝な面持ちで尋ねる。
「それは、僕と結婚したいってことか?」
「できればしたいさ! おまえは男と結婚する気なんかさらさらなさそうだし、無理だとは思ってるけど! 幼稚園のころからずっとおまえが好きだったんだ! おまえだけが好きだったんだ!」
 創真は半ばやけっぱちに思いの丈をぶつけた。
 やはりというか翼はまったく気付いていなかったらしい。驚愕しているような、信じがたそうな、困っているような、申し訳なさそうな、そんな複雑な表情を浮かべながら当惑を露わにする。
「すまない……気持ちはうれしいが、創真をそういう対象として見たことはなくて」
「やめろよ! そこらへんの女子の告白みたいに軽くあしらうなよ!」
 創真はいたたまれず叫んだ。
 傲慢かもしれないが、翼をアイドルか何かのように思っている女子とは違うのだ。断られるとわかっていながら思い出がほしくて告白する——そんな彼女たちと同じように扱われるのは我慢ならない。
「じゃあ、どうすればいいんだ!」
 翼は苛立って叫び返すが、どうすればいいかなんて創真にもわからなかった。言うつもりのなかった思いをうっかりぶちまけてしまっただけで、返事を望んでいたわけではないのだ。そもそもは——。
「オレとフェンシングで勝負しろ」
 創真は顔を上げ、緊張しながらも強気に翼を見据えてそう訴えた。翼は視線を絡めたままぴくりと眉だけを動かす。
「どういうことだ」
「オレが勝ったら東條を勉強に呼ぶのはやめてくれ」
 そもそもの望みはそれだった。
 将来的に東條を補佐にするのは仕方ないにしても、いまはまだ勉強に同席させてほしくない。せめて心の準備ができるまで待ってほしい。けれどわがままを言える立場でないことは重々承知していた。
「そんな勝負を受ける筋合いはないな」
「オレが負けたら二度と口をはさまない。勉強についても、補佐についても、結婚についても。好きだとか言って困らせたりもしない」
 それを聞いて、翼はゆっくりと目を伏せて静かに考え込んだ。やがて心を決めたように視線を上げると、ゆったりと尊大に腕を組みながら創真を見下ろす。
「いいだろう、その勝負を受けてやる」
 その挑発的な物言いに、創真はぞわりと総毛立つのを感じた。

 段取りは翼が整えた。
 実際に動いたのは翼に頼まれたフェンシング部の部長である。中学のときに同じフェンシング部でそれなりに親しくしていたからか、勝負のことを聞いて二つ返事で引き受けてくれたのだ。
 武器と防具は各自で用意し、放課後、フェンシング部の試合場と電気審判機を借りて行うことになった。審判などもフェンシング部から出してくれるという。顧問の許可もとってあるらしい。
「翼くーん、がんばってーー!!!」
「キャー、西園寺くーん!!!」
 誰が吹聴したのか二階のギャラリーは超満員だ。声援を送っているのは女子ばかりのようだが、なぜか男子もそこそこいる。教員までちらほらいる。まさかこんな見世物になるとは思いもしなかった。
 勝負の理由についても、ちょっとした諍いがあって決着をつけるために、と部長に話したらしいので、もしかしたら観衆にも知れ渡っているかもしれない。そうなると創真は完全アウェーである。
「種目はフルーレ。三分間三セット、十五ポイント先取で勝利。いいな?」
 試合のまえに、主審を務める部長がピストの傍らで確認する。
 創真も翼もいっそう真剣な顔つきになり首肯した。もうマスク以外は準備万端だ。互いに横目で視線をぶつけあい闘争心を露わにする。
「悪いが全力でいく」
「オレもだ」
 何ひとつ翼に及ばない自分が、唯一、互角に渡り合えるのがフェンシングだ。
 中学を卒業してからきのうまで一度も剣を握っていなかったが、感覚は忘れていなかった。体も思った以上に動く。翼も同じく卒業以来のはずなので互角かそれ以上に戦えるはずだ。
 絶対に、勝つ——。
 東條は何も知らず、ギャラリーのどこかでのんきに観戦しているのだろう。創真が勝てば勉強に参加できなくなるというのに。すこし同情するが、それこそが創真の望みなのだから勝つことに迷いはない。
 しっかりと背筋を伸ばして強い気持ちのままピストに入場し、準備を整える。そして主審の号令で対戦相手の翼に一礼すると、マスクを着用し、スタートラインに前足のつまさきをつけて構える。
 しかし、ここにきて異常なくらい鼓動が速くなってきた。汗がにじみ、喉が渇き、手足もかすかに震え出す。試合でもここまで緊張したことはないのに。正面の翼を見据えたままグッと剣を握る手に力をこめる。
「アレ!」
 緊迫して静まった場に、試合開始の号令が大きく響きわたった。

 クッ——。
 創真の突きはかわされ、直後、翼の素早い突きが肩に当たった。
 緑のランプがつき、ほどなくして電光掲示板の数字が十四から十五に変わる。
 二分三十二秒を残して試合は終了した。
 翼の勝ちだ。
 それもほぼダブルスコアで。
 創真は力なくマスクを取ってうなだれた。みっともないくらい息が上がり汗だくになっている。前半は気負いすぎて緊張したせいか体が思うように動かず、後半は焦りでミスが相次いだ。自爆といっていい。
 ギャラリーからは黄色い大歓声が沸き起こっていた。
 翼はすこし呼吸が荒いだけで試合前とあまり変わらないように見えた。栗色の髪もふわりとしたままだ。ただ、いつものように黄色い声に応えて笑顔を振りまくことはなく、創真だけを射貫くように見つめている。
 いたたまれず目をそらすが、選手として試合終了の挨拶をしないわけにはいかない。主審の号令で歩み寄り、わずかにうつむいたまま対戦相手の翼と握手を交わす。瞬間、その手をグッと痛いくらいに握り込まれた。
「約束は守れよ」
 ぞくりとする冷ややかな声。
 ぎこちなく頷くと、翼はすぐにひらりと身を翻して体育館をあとにする。最後まで振り返りもしないで。大勢のギャラリーのまんなかに取り残された創真は、ただ立ちつくすしかなかった。


◆目次:オレの愛しい王子様


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「オレの愛しい王子様」第7話 侵蝕

「なあ、よかったらこれからうちに本を見に来ないか?」
 ホームルームのあと、東條は帰り支度をしながら隣席の翼をそう誘った。
 今日の昼休み、東條がイギリスで現地の本を買っていたという話になり、翼が興味を示していたのだ。だからといってまさか自宅に呼ぼうとするとは思わず、創真は面食らって耳をそばだてる。
「いきなり行ったら迷惑じゃないか?」
「部屋は片付いてるから大丈夫だ」
「へぇ、じゃあ行かせてもらおうかな」
「たいしたおもてなしはできないけど」
「構わないよ」
 翼が軽く笑いながら応じると、東條ほっとしたように小さく息をついた。
 おそらく彼には下心があるはずだ。本を見せたいというのも嘘ではないだろうが、自宅に呼ぶことでもっと親密になろうとしているのではないか。それが悪いわけではないけれど——。
「創真、そういうことだから今日は先に帰ってくれ」
「オレも行く!」
 ぽんと背中を叩かれ、思わずはじかれたように振りかえってそう宣言する。翼は勢いに押されて若干のけぞりつつ目を瞬かせたものの、すぐに平静を取りもどした。
「おまえ興味なさそうにしてなかったか?」
「本はともかく、東條の家には行ってみたい」
「諫早くんも歓迎するよ」
 驚いて振り向くと、東條がこちらを見て含みのある笑みを浮かべていた。まるで何もかも見透かしているかのように——創真はギクリとしながらも素知らぬふりで前に向きなおり、スクールバッグのファスナーを閉めた。

「俺んちはこっちな」
 校門を出ると、東條は右手で指さしながら案内する。
 だが、いつも彼が帰るところを見ているので言われるまでもない。そうだろうなと翼は笑いまじりの声で応じて、あたりまえのように彼と並んだまま歩き出した。創真はひとりその後ろを歩く。
 まわりが騒がしいのは二人の王子様が一緒に帰っているからだ。興奮ぎみに行き先を尋ねる子もいれば、遠巻きにはしゃいでいる子もいる。そんな彼女たちに翼は例のごとく甘やかな笑みを振りまいた。
 それでも学校から離れるにつれてまわりの生徒が少なくなり、騒がしさは落ち着いていく。困惑ぎみだった東條もようやく安堵したような表情になった。それを目にして翼は申し訳なさそうに肩をすくめる。
「こんなに騒がれるとは思わなかったんだ」
「文化祭のときよりは全然マシだったけどな」
「ははっ、違いない」
 文化祭の執事喫茶では、東條も翼とともにかなり騒がれていた。
 もともと編入したときから人気は高かったのだ。翼のように黄色い声できゃあきゃあ言われるわけではないが、翼以上に告白されている。正真正銘の男性だからというのもあるのかもしれない。
 ただ、東條はいまのところすべて断っているようだ。好きなひとがいるのかと詰め寄った子もいるらしいが、肯定も否定もしなかったと聞く。それこそが翼をあきらめていないことの証左だろう。
「イギリスにはどのくらい住んでたんだ?」
「小学生からだから……だいたい九年くらいか」
「へぇ、けっこう長かったんだな」
 翼はそう相槌を打ち、ちらりと東條のほうに顔を向けて言葉を継ぐ。
「親御さんの仕事の都合って聞いたけど」
「商社だから何か海外赴任が多いみたいでさ」
「ああ、商社か」
 西園寺グループにも商社があるので、翼はそのあたりの事情をよくわかっているのかもしれない。しかし創真にも何となく海外赴任が多いというイメージはあった。
「さすがにもうついていく気はないけど」
「じゃあ、ひとり暮らしか?」
「また海外赴任ってことになったらな」
 東條は苦笑すると、ふと思い出したように後ろの創真に振り向いた。
「諫早くんのところは転勤とかないのか?」
「多分ないと思う」
 ぶっきらぼうに返事をすると、翼が面白がるように含み笑いをしながら補足する。
「創真の父君は創業社長だぞ」
「え、そうなのか?」
「ただのベンチャー企業だ」
「もう中堅企業だろう」
 面倒なので、父親が社長であることはあまり言わないようにしている。
 それゆえ翼もむやみに暴露はしないのだが、東條には友人だからという判断で話したのだろう。別に隠しているわけではないので構わないけれど、翼がそれだけ彼のことを認めているのだと思うと、すこし複雑な気持ちになった。

 東條の家は、白を基調としたモダンな一戸建てだった。
 校門を出てから二十五分ほどかかっただろうか。自転車通学がぎりぎりで認められないところで、電車もバスもちょうどいい路線がないため、毎日こうやって徒歩で通学しているのだという。
「さ、ふたりとも入って」
「おじゃまします」
 東條に促され、創真は軽く会釈をしてから翼とともに玄関に入った。何となく隅のほうに寄りながら東條が扉を閉めるのを眺めていると、奥からパタパタと軽快な音が近づいてきた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「あら、お友達?」
「うん」
 濃紺のエプロンを着けたまま玄関にやってきたのは、東條の母親のようだ。身長は普通くらいだが、頭が小さく全体的にすらりとしていて見栄えがいい。顔も若々しくて高校生の息子がいるようには見えなかった。
 東條は扉のつまみをまわして鍵をかけると、彼女に向きなおる。
「仲良くしてくれてるクラスメイトの西園寺翼くんと諫早創真くん。イギリスで買った本を見てもらおうと思って呼んだんだ」
「えっ……さ、い……」
 そう言ったきり、彼女は凍りついたように絶句してしまった。顔はひどくこわばり、青ざめ、わずかに震えてさえいる。いったいどうしたのか創真にはわからなかったが、それは東條も同じらしい。
「母さん?」
「あ……いえ、その、ゆっくりしていってね」
 息子の呼びかけでようやく彼女は我にかえり、ぎこちない笑みを浮かべてそれだけ告げると、そそくさと逃げるように奥へ引っ込んでいく。創真たちとは目を合わせようともしないで。
「悪い、いつもはこんなんじゃないんだけど……」
「気にするな。名前で驚かれることには慣れてる」
 東條は困惑した様子で謝罪するが、翼は何でもないかのように軽く肩をすくめて受け流す。だが、西園寺の名に驚いただけにしては様子が尋常ではなかった。おそらく翼もそう感じてはいるだろう。

「おまえ……本当にきれいにしてるんだな……」
 階段を上がって東條の部屋に案内されると、創真は唖然とした。
 急な来訪だったにもかかわらず、物が散らばっていることもなく、机の上もきれいに片付けられていて、ベッドまできちんと整えられている。いつもパジャマが脱ぎっぱなしの自分の部屋とは比べものにならない。
「母親が潔癖症ぎみでうるさいんだ」
 東條は苦笑して、なぜか弁明するかのように言う。
 ただ、さきほどの様子からも彼女が潔癖症というのは何となくわかる気がした。きっと繊細なところがあるのだろう。だから日本有数の旧家である西園寺の子が来たことにひどく動揺した——のかもしれない。
 そんなことを考えながら翼に振り向いたつもりだったが、姿がなかった。開いた扉から廊下を覗いてみると、翼は階段を上がりきる直前で足を止めて後ろのほうを見ていた。その表情はどことなく険しい。
「どうしたんだ?」
「いや……」
 そう答えると、気を取り直したように微笑んで部屋に入ってきた。
 何でもなくはないだろうが、何となく聞ける雰囲気ではなくなってしまった。翼はさっそく目当ての本棚に気付いてそちらへ足を進めている。もやもやとしながら創真もそのあとに続いた。
 本棚はスライド式のもので片側の壁面に備え付けられていた。扉で隠せるようになっており、東條が開けるまえはただの壁にしか見えなかったが、いまはそこに大きな本棚が現れている。
「いろいろあるんだな。見てもいいか?」
「ああ、まだクローゼットにもあるけど」
「とりあえずここだけでいいよ」
 翼に従い、創真もスクールバッグとコートを置いて背表紙を眺めていく。
 ざっと見たところ、小説、漫画、サッカー雑誌が多い。小説は海外の作家のものがほとんどで、逆に漫画は日本の作家のものばかりである。ただ、どれも日本語ではなく英語翻訳のようだ。
「こういうので英語を勉強してたのか?」
「あー、まあ結果的に勉強になってたとは思うけど、読みたかったから読んでただけなんだ。漫画は日本のだけど、英語翻訳のほうが手に入りやすかったからさ」
 東條はコートを脱いでハンガーに掛けながら答える。自分のだけでなく、創真たちのも同じようにハンガーに掛けてくれている。すぐに片付けることがもう身についているのだろう。
 コンコン——。
 ふいに控えめにノックする音が聞こえ、東條が扉を開ける。
 そこにはすこし気まずそうな笑みを浮かべる彼の母親がいた。ジュースとお菓子を載せたトレイを手に持っている。東條が招き入れると、彼女は中央のローテーブルにグラスとお菓子を置いた。
「さきほどはごめんなさいね」
 膝をついたまま、本棚の前にいる創真たちのほうに振り向いて言う。言葉のとおり申し訳なさそうな表情をしており、縋るようにトレイを胸に抱く姿もあいまって、ひどく儚げに見えた。
「いえ、気にしていませんから」
 翼がにっこりとよそいきの笑顔でそう応じると、彼女は淡く微笑む。
「まさか西園寺のお嬢様を連れてくるなんて思わなかったから、驚いちゃって。圭吾と同じ学校ってことさえ知らなかったんですもの」
 お嬢様——それを聞いた瞬間、創真は凍りついた。
 つまり彼女は翼が本当は女だということを知っていたのだ。だからといって、男の格好をしている本人をまえにしてお嬢様と呼ぶなんて。ただ単にうっかり口を滑らせただけなのか、それとも。
「母さん、あとは俺がやっとくから」
 東條も動揺して、あたふたと追い立てるように母親を下がらせる。
 それでも翼だけは何でもないかのように平然としていた。階段を降りていく軽い足音が遠ざかって聞こえなくなると、薄く苦笑して肩をすくめる。
「せっかくだ、いただこう」
 その言葉に、東條も創真もほっと緊張の糸が切れたように頷いた。

 三人はローテーブルを囲んでラグの上に座り、オレンジジュースを飲み、個包装になったバームクーヘンを食べ始めた。創真はあっというまに完食し、東條に勧められて二つ目に手を伸ばしながら口を開く。
「東條のお母さんはどこで翼のことを知ったんだろうな」
「顔は知らなかったようだから噂で聞いたと考えるのが妥当だな。一応、この学区のあたりではそこそこ知られているし、井戸端会議の話題にのぼったとしても不思議じゃない」
 翼が食べかけのバームクーヘンを手に持ったまま、理路整然と答えた。
 確かに旧家である西園寺の娘が男装しているとなれば、それも王子様と呼ばれるほど眉目秀麗であれば、学校とは無関係のところで話題になってもおかしくはない。
「でもあんなに動揺するのは普通じゃない気がするけど」
「もしかしたら仕事がらみでウチと何かあったのかもな」
「ああ……」
 西園寺グループはイギリスや北欧にも展開しているようだし、商社との取引もあるはずだ。逆にいえばそれくらいしか接点が思いつかない。仕事がらみとなると創真には何があったのか想像もつかないが。
「まあ、何の証拠もない勝手な憶測だ」
 翼はそう言って肩をすくめる。
「西園寺の名前に驚いただけという可能性のほうが高い。実際、あのくらいの反応ならいままでにも見たことがある。いずれにしても圭吾がそんな顔をすることはないんだ」
「ん、ああ……」
 創真は気付いていなかったが、隣の圭吾は戸惑ったように表情を曇らせていた。親どうしで何かあったかもしれないと聞けば、不安になるのも無理はない。翼はそのことを察してフォローしたのだろう。
「さあ、もうすこし本を見せてもらおうかな」
 今度は仕切り直すように明るくそう言って立ち上がると、軽く伸びをしてから本棚のほうへ向かう。創真も残りのバームクーヘンを口に放り込んであとを追った。

「じゃあ、この三冊を借りるよ」
 気になるものがあったら貸すという東條の言葉に甘えて、翼は三冊の本を選んだ。ミステリー小説とファンタジー小説とSF小説だ。東條の趣味らしく、本棚にある小説はこういったジャンルのものばかりだという。
「諫早くんはいいのか?」
「ああ」
 翼ほど英語が得意でないので小説は読むのに時間がかかるし、漫画はオリジナルの日本語で読みたいし、サッカーにはそもそも興味がないし、何より東條に何かを借りるというのは気が進まなかった。
 その隣で、翼はしゃがんで借りた本をスクールバッグにしまっている。どうにか三冊ともおさめてファスナーを閉じると、立ち上がって肩にかけた。厚い本もあったのでけっこうパンパンになっていて重そうだ。
 その様子を見て、東條はそっと控えめに表情をほころばせる。
「またいつでも来いよ。本とか関係なしに」
「ああ、圭吾もよかったら今度うちに来いよ」
「いいのか?」
 彼がそう聞き返すと同時に、創真は息をのんだ。
 翼が創真以外を家に呼ぶことなんて滅多にないのに。綾音でさえ数えるほどしか呼んだことがないのに。どうして会ってまだ数か月の彼を——しかし、当の翼はたいしたことではないかのように笑って頷く。
「もちろん。創真もしょっちゅう来てるしな」
「オレは遊びに行ってるわけじゃないけど」
「ん、じゃあ何しに行ってるんだ?」
「勉強だよ」
 翼がさらりと答えた。
「僕は家庭教師を呼んで後継者になるための勉強をしてるんだが、それに創真も同席してるんだ。経営学や、英会話、礼儀作法、マーケティングとか、あと護身術なんかもやってるぞ」
「へぇ、すごいな」
 東條は目を見張って感嘆の声をもらした。
 勉強もだが、何より創真も一緒にというのが意外だったのだろう。こちらに振り向いてまじまじと見つめてくる。そのまなざしにうらやむような色がにじんでいることに、翼も気付いたようだ。
「圭吾も一緒に勉強してみるか?」
「え、いいのか?」
「二人も三人も変わらないからな」
「それなら俺も同席させてほしい」
「わかった」
 前のめりになる東條に、翼はふっと笑みを浮かべて了承の返事をした。
 なんで——。
 これが社交辞令でないことくらい創真にもわかる。しかし同席を許されているだけの分際で反対などできるわけもなく、目のまえで話が進んでいくのをただ呆然と眺めるしかなかった。


◆目次:オレの愛しい王子様


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「オレの愛しい王子様」第6話 心に決めたひと

「おい、創真!」
 ふと額のまんなかに鋭い痛みが走り、創真は我にかえった。
 反射的にそこを押さえて顔を上げると、翼があきれたような面持ちで片手を掲げながら立っていた。その隣では東條が苦笑している。額の痛みはどうやら翼のデコピンだったらしい。
「ぼーっとしてないで帰り支度しろよ」
「あ……ああ……」
 いつのまにかホームルームは終わっていたようだ。教壇に担任の姿はなく、あたりは生徒たちのおしゃべりで楽しげにざわめいており、翼も東條もすでにスクールバッグを肩にかけてそこにいる。
 創真はようやく状況を把握して、あわてて帰り支度を始めた。

「おまえ、文化祭が終わってからちょっとおかしくないか?」
 校門前で東條と別れ、翼とふたりで帰路についているときにそう指摘された。
 この一週間、いつのまにかぼんやりと考えをめぐらせてしまい、学校のみならず西園寺での勉強も集中できずにいたのだ。自分でもどうにかしなければと思っているのだが、なかなか難しい。
「悪い、もうすこしだけ待ってくれ」
「悩みがあるなら相談にのるぞ」
「いや……個人的なことだし……」
 創真くんが好きだから——綾音にそんなことを言われたなんて話せるはずもなく、後ろめたさに目を泳がせながら言いよどんでしまった。
「僕を信頼できないか?」
「…………」
 まっすぐに真摯なまなざしを向けられて、ますます罪悪感が募る。
 それでも話すという選択肢はない。創真自身が話したくないというのもあるが、そもそも綾音に断りもなく話すわけにはいかないだろう。目をそらしたままどう答えようか悩んでいると、翼が溜息をついた。
「まあいいさ。無理強いするんじゃ意味がないしな。だけどいつまでもこんな調子じゃ困る。とりあえず明日の勉強は休んで気持ちを整えろ。いいな?」
「……わかった」
 休みたくなくても、そんなわがままを言える立場ではなかった。
 西園寺の厚意で勉強に同席させてもらっているのだから、翼の足手まといになることだけは許されない。いつまでもこんな状態が続いたら見捨てられてしまう。翼の隣にいられなくなるのだ——。

「あした、ふたりだけで会って話ができないかな」
 その日の夜、悩んだすえに電話で綾音にそう持ちかけた。
 このところ気もそぞろなのは、彼女がどういうつもりかまるでわからないからだ。こればかりはいくら考えたところで答えは出ない。本人に聞くしかないという結論に至ったのである。
「文化祭でのこと?」
「ん……まあ……」
 ふたりだけで、という時点でだいたい想像がつくだろうと思っていたが、それでもいきなり臆面もなく言及されるのは予想外で、若干動揺してしまった。
「あしたは午前中なら大丈夫だよ」
「あ……じゃあ、十時にいつもの喫茶店で……」
「うん」
 一方で、綾音は話しぶりも声も普段とまったく変わらない。それだけに思考が読めず、漠然とした不安がじわじわと胸に広がっていく。
「それじゃあね」
「ああ」
 返事をすると、余韻もなくすぐに通話が切られた。
 創真はスマートフォンを下ろして、腰掛けていたベッドにそのまま仰向けになり、白い天井を眺めながら小さく息をついた。

 翌日、約束した時間の三十分前から喫茶店で待っていた。
 注文したコーヒーをちびちびと飲みながら、暇つぶしにスマートフォンでニュースを読むが、ほとんど頭に入ってこない。ただ文字を目で追いかけているだけである。
「創真くん、おはよう」
「ああ……おはよう」
 綾音は約束した時間の五分前に来た。
 いつもと変わらないほんわかとした笑顔を見せている。今日は私服で、ざっくりとしたオフホワイトのニットに、グリーンチェックのミニフレアスカート、小さめのリュックサックという出で立ちだ。
 創真がスマートフォンをポケットにしまいながら向かいのソファ席を示すと、綾音はリュックサックを下ろしてそこに座り、水とおしぼりを持ってきた店員にオレンジジュースを注文する。
「ごめんね、なんか言い逃げみたいになっちゃって」
 店員が戻っていくと、彼女は気まずげに肩をすくめてそう言った。
 創真はあわててふるふると首を振る。本人の口からきちんと真意を聞こうと思っただけで、謝ってもらいたかったわけではないし、そもそも言い逃げだなんて考えたこともなかった。
「あのあとすぐに翼が戻ってきたから仕方ないよ。オレも聞き返せなかったし。でもこの一週間ずっと気になっててさ」
「うん……」
 綾音が緊張したように表情を硬くするのを見て、創真もつられて緊張する。けれどここまで来たらもう引き下がれないし、引き下がるつもりもない。
「オレのことが好きって」
「うん」
「どういう意味で?」
「……わかってるくせに」
 綾音はぎこちない笑みを浮かべた。
 しかし、わかっていなかったからこんなに悩んでいたのだ。もちろんそういう意味だと考えなかったわけではないし、客観的にはそう考えるのが普通だということはわかっていたが——。
「なんでオレなんだ?」
 ちんちくりんだし、地味だし、根暗だし、勉強もスポーツも普通だし、どうしても男として好かれる要素があるとは思えない。訝しむ創真に、綾音はふっと表情をやわらかくして答え始める。
「気がついたらいつのまにかって感じだから、よくわからないけど」
「ああ……」
 そういえば創真もそんな感じだった。一緒にいるうちにいつのまにか翼を好きになっていたのだ。それも幼稚園のときに。どうして翼なのかと問われても正確には答えられそうにない。
「でも好きなところなら言えるよ。目立たないけど黙々と頑張るところとか、誰に対してもさりげなく優しいところとか、そういうのをアピールしない控えめなところとか、律儀で真面目な性格とか」
「…………」
 まっすぐな答えを返されて、自分で尋ねておきながら気恥ずかしくなってしまった。顔がじわりと熱を帯びていくのを感じる。良く言われることにも好意を示されることにも慣れていないのだ。
 しかし、ここまで言ってもらってもまだ納得しきれずにいた。頑張るといっても与えられた役割をこなしているだけだし、それほど優しくもない。もっといいひとがほかにいくらでもいるだろう。
 それでも綾音がこんなことで嘘をつくとは思えないので、いっときの勘違いでしかないのかもしれないが、少なくとも今現在において、創真のことが好きだという気持ちは信じるしかない。
「ありがとう」
 そう応じると、小さく吐息を落としてからゆっくりと顔を上げた。鼓動が次第に激しくなっていくのを感じながら、真剣なまなざしで彼女を見据える。
「でも、オレ、心に決めたひとがいるから」
「それって翼くん?」
 あっさりと言い当てられて息をのんだ。
 ただの当てずっぽうだったのか、ほかに思い当たるひとがいなかったのか、何か確証があったのかはわからないが、いまさらごまかす気はないのでこくりと頷く。
「やっぱりそうなんだね」
「オレの片思いだけどな」
「うん……」
 創真はあらためて表情を引きしめて、背筋を伸ばす。
「だからごめん。綾音ちゃんの気持ちはありがたいけど、つきあうとかそういうことはできない。でも綾音ちゃんさえよければ、いままでどおり幼なじみとして仲良くしたい」
「もちろん、私もそうしてくれるとうれしいよ」
 綾音はふわりと応えた。ふられたことなど微塵も感じさせない柔らかな笑顔で。無理をしているようには見えないが、本当のところはわからない。だからといって創真に詮索する資格はないだろう。
 会話が途切れたちょうどそのとき、注文していたオレンジジュースが運ばれてきた。彼女はストローで氷をつついてから飲み始める。つられるように、創真もだいぶぬるくなったコーヒーを口に運んだ。
「何だかままならないよね、私たち」
「ああ」
「完全一方通行の三角関係なんて」
「……えっ?」
 顔を上げると、彼女はストローをつまんだまま薄く苦笑していた。
 綾音は創真が好きで、創真は翼が好きで、翼は綾音が好きで——言われてみれば確かに完全一方通行の三角関係だが、綾音がそう認識しているということは、つまり。
「翼の気持ちを知ってたのか?」
「そうなんだろうなって思ってるだけ」
「ああ……」
 知らないあいだに翼が告白していたのかと思って驚いたが、どうやら言動から察しただけのようだ。それなら納得である。あれだけあからさまに好意を示していたのだから無理もない。
「創真くんは翼くんから聞いてたの?」
「いや、オレもただの推測なんだけど」
「やっぱり態度でわかっちゃうよね」
 そう言って肩をすくめる綾音につられて、創真も笑った。
 しかし、そのまま沈黙が落ちた。彼女は何か考え込むような面持ちでそっと目を伏せると、あらためてストローをつまみ、カランカランと音を立てながらオレンジジュースをかき混ぜる。
「でも、翼くんは告白とかするつもりはないんだと思う。私を困らせたくないっていうのもあるかもしれないけど、西園寺家の跡取りだし……翼くんならそこまで考えてるんじゃないかな」
「ああ……」
 言われてみればそうかもしれない。翼は小さいころからいつだって将来のことを考えてきたし、無責任な行動はしない気がする。ただ、それは自分のためというより綾音のためではないだろうか。
「だからね、どうせなら創真くんと翼くんが上手くいけばいいなぁって」
「えっ?」
 創真は思わずはじかれたように顔を上げる。
 正面の綾音はうっすらと曖昧な笑みを浮かべていた。突拍子もない発言のように思えたが、その表情を見て何となく気持ちがわかった気がした。同じ立場だったら創真もそう思っていたかもしれない。けれど——。
「そこまで夢は見られない」
 静かな声にはあきらめがにじんでいた。
 一瞬、綾音は何ともいえない微妙な顔つきになるが、すぐに気を取り直したようにさらりと話題を変える。その配慮に、創真は自分でも驚くくらいほっとしてしまった。


◆目次:オレの愛しい王子様


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「オレの愛しい王子様」第5話 文化祭

「翼、それ三番テーブルな」
 創真が作業の手を止めることなく、用意したシフォンケーキセットを目線で示してそう言うと、燕尾服を着こなした翼は了解と答えてホールへ運んでいく。疲れなど微塵も感じさせない美しい所作で——。

 今日は、創真たちの通う桐山学園高等学校の文化祭である。
 創真たちのクラスは学食の一角で執事喫茶なるものをやっている。燕尾服などを着用した見目麗しい執事たちが、お嬢様やお坊ちゃまを屋敷内のティーサロンでおもてなしするというのがコンセプトだ。
 きっかけは、とある女子の提案だった。
 せっかく見目麗しい王子様がふたりもいるのだから活用しない手はない、絶対に執事喫茶をやるべき、私だけじゃなくみんな見たいはず、と鼻息荒く主張して、これがクラス内で過半数の支持を得たのだ。
 ただ、ティーサロンをどうするかが問題だった。教室や屋台では雰囲気が出ない。それなら学食を借りられないかという話になり、駄目元で学校側と交渉してみたところ許可が下りたのである。
 さすがに本物の執事喫茶のような豪奢な英国調ではないが、天井が高く、全面ガラス張りの窓からは庭が見渡せて、テーブルや椅子もシンプルながら洒落ていて、これはこれで悪くない雰囲気だろう。
 メニューはシフォンケーキと紅茶のみにした。シフォンケーキは洋菓子店からできあがりを仕入れたので、切って生クリームとミントの葉を添えるだけ、紅茶もティーバッグなのでお湯を注ぐだけである。
 創真は裏方で、シフォンの皿にミントの葉を添える担当だった。
 見目のいい男子は執事として接客を任されている。もちろん翼も東條もそちら側だ。ふたりがそろうのは十二時から十三時までということで、十二時すぎの今、かなりの待ち行列ができていた。

「わたくしの執事を呼んでちょうだい」
 どこか愉快そうな響きをはらんだ声が聞こえて入口に目を向けると、桔梗が堂々とした佇まいでそこに立っていた。その後ろには、不安そうな表情でチラチラとまわりを気にする綾音がいる。
 お待ちくださいとドアマンは恭しく一礼して呼びに行こうとするが、桔梗の声が聞こえていたのか、当の執事はすでに彼女たちに向かって颯爽と歩みを進めていた。そして正面ですっと足を止める。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
 その執事——翼は、どこか艶めいた笑みを浮かべて恭しく頭を下げた。

 そのまま、美しい庭の臨める窓際の席にふたりを案内する。
 そこは翼の要望により特別に予約席として空けられていた。綾音のためだが、表向きは姉の桔梗を招くためということになっている。綾音にいらぬ面倒が降りかからないよう配慮したのだ。
 桔梗が協力してくれたのは、彼女も幼なじみとして綾音のことをかわいがっているからだろう。さきほどの振る舞いからすると、翼をかしずかせてみたいという気持ちもあったのかもしれない。
「どうぞ」
 翼は流れるような所作ですっと椅子を引いて綾音を座らせ、続いて同じように桔梗も座らせる。そわそわした綾音とは対照的に、桔梗はさすが由緒正しい旧家のお嬢様だけあって堂に入っていた。
「お茶をご用意しますのでお待ちください」
「ええ」
「シフォンケーキはいかがいたしましょう?」
「いただくわ。綾音ちゃんも食べるわよね?」
「はい、お願いします」
 綾音が答えると、翼はふっとかすかに表情をゆるめる。できることならいつまでもそこにいたかったのだろうが、丁寧に一礼して下がり、裏方に注文を伝えてから他のお嬢様方の接客にまわった。
 それでも桔梗たちに向けられる視線がやむことはなかった。特別扱いされているからというより、桔梗の存在が原因のような気がするが、綾音は居たたまれないとばかりに身を縮こまらせる。
「みんな並んでるのに本当に良かったんでしょうか」
「翼が勝手にしたことなんだから気にする必要はないわ」
「でも断ったほうがよかったのかなって」
「私は午後公演の準備があるからそんなに待てないの」
「あ……それで翼くんはわざわざ席を……」
 そう誤解しても仕方のない流れだろう。もしかすると桔梗があえて誘導したのかもしれない。彼女は肯定も否定もせず、ただにっこりと華やかな笑みを浮かべて言う。
「そんなことよりせっかく来たんだから楽しみましょう」
「……そうですよね」
 綾音は表情をゆるめ、気を取り直したように明るい声でそう応じた。

「これ綾音ちゃんたちのところ」
 他のテーブルから戻ってきた翼に、二人分のシフォンケーキセットを差し出しながら言うと、翼はほんのりと頬をゆるませて了解と返事をした。すぐに表情を作り、それまでよりもいっそう流麗な所作で運んでいく。
「お待たせしました」
 涼やかに一礼すると、綾音と桔梗のまえにそれぞれシフォンケーキを置き、ポットの紅茶をティーカップに注いでその右側に並べた。
「ありがとう」
「ごゆっくりお過ごしくださいませ」
 翼が丁寧にお辞儀をして下がると、綾音はそれを見届けてからティーカップに手を伸ばし、向かいで姿勢よく紅茶を飲んでいた桔梗と会話をはずませる。
「これ渋みが少なくて飲みやすいですね」
「ええ、おそらくニルギリね」
「ニルギリって紅茶の種類ですか?」
「そうよ。産地の名前で呼ばれているの」
「初めて聞きました」
「まあアッサムほど有名ではないわね」
「翼くんが選んだのかな」
「くやしいけれどいい選択だわ」
 桔梗が肩をすくめてみせると、綾音もつられるようにくすくすと笑った。それからふたりで示し合わせたようにフォークを手に取り、シフォンケーキにすこし生クリームをのせて口に運ぶ。
「このシフォンケーキすごくおいしい」
「母がひいきにしている店の看板商品だわ」
「じゃあ、これも翼くんが選んだのかな」
「お店に無理を言っていないか心配ね」
「ふふっ」
 綾音は冗談だと思っているのだろう。
 しかし実際は桔梗の懸念どおりで、洋菓子店に無理を言ってシフォンケーキを作ってもらっていた。本来は店頭分しか作らないのだが、お得意様である西園寺の頼みなので特別にということらしい。
 そのうえ、価格もこちらの予算内に収まるように抑えてもらったという話だ。翼は交渉の結果だとあたりまえのように言っていたが、どのような交渉をしたのかは何となく怖くて聞けないでいる。

「綾音ちゃん、お待たせ」
 翼と創真は制服に着替えて、学食前の庭で待っている彼女のもとへ向かった。
 ふたりとも十時から十三時までの担当だったので、そのあと綾音と一緒にまわる約束をしていたのだ。彼女はこちらに気付くとふんわりと笑った。ちなみに桔梗は演劇の午後公演があるので準備に戻ったはずだ。
「お疲れさま。執事があんなにサマになるなんてさすが翼くんだね」
「ありがとう」
 翼はすこし照れたようにはにかんだ。綾音に見せるために引き受けたわけではないと思うが、綾音に見せるからこそここまで熱心に取り組んだのだろう。彼女の言葉で報われたに違いない。
「創真くんもギャルソンみたいな衣装すごく似合ってた」
「ああ……」
 壁で隔てられているわけではないので客からもキッチンは見える。それゆえ裏方も雰囲気を合わせるためにカマーベストを着用していたのだ。特に創真はカウンターにいたので見えやすかったのかもしれない。
 ただ、あまり似合っていないことは自分でわかっているので、無理して褒めてくれなくてもいいのにとすこし微妙な気持ちになった。もちろん他意があったとは思っていないけれど。

 三人はいろいろな食べ物の模擬店を見てまわる。
 翼が見たことのない女子をつれているからか、その子が有名女子校の制服を着ているからか、周囲からチラチラと好奇の目を向けられていた。だが、ふたりとも気にしている様子はない。
 綾音はただ単に気付いていないだけかもしれないが、翼が気付かないわけがない。いつもはファンサービスとばかりに笑顔を振りまいているのに、いまは綾音しか見る気がないのだろう。
「綾音ちゃん、何か食べたいものがあったら言ってね」
「んー、さっきのカラフルなお団子がちょっと気になるなぁ」
「じゃあ食べに行こう」
 翼は声をはずませ、綾音をエスコートしながら団子の模擬店へ向かう。創真はふたりの後ろをついて歩いた。ときどき綾音が振り返って微笑みかけてくれるが、翼には放置されている感じだ。
「ねえねえ、西園寺くんといるあの子、誰?」
 どこからかすすっと寄ってきた同じクラスの女子が、声をひそめて耳打ちするように尋ねてきた。その浮き立った声音から、嫉妬ではなく興味本位で詮索していることが窺える。
「オレと翼の幼なじみだ。つきあってるとかそういうことはない」
「そ、そうなんだ」
 知りたいであろうことを先回りして答えてやると、彼女はうろたえ、ごまかし笑いを浮かべながらそそくさと離れていく。向こうで友人たちと「幼なじみなんだって」と話している声が聞こえてきた。
 中学のときも目撃されて尋ねられたことがあったので、すでに知っているひともいると思うが、やはり知らないひとのほうが圧倒的に多いのだろう。これが広まって落ち着いてくれればと思う。
「いらっしゃいませ!」
 団子の模擬店につくと、三人がそれぞれ購入して窓際の席に座った。
 綾音が買ったのは、白い串団子に色とりどりの餡をかわいらしく盛り付けたものだ。いかにも女の子が好みそうな見映えで、彼女も例にもれずスマートフォンで写真を撮ってから食べ始めた。
「ん……これ、味もなかなかおいしいよ」
 気を遣っているわけではなく本当にそう思っているのだろう。彼女は団子を頬張ったまま幸せそうに顔をほころばせている。その姿を見つめながら翼は満足したように微笑んだ。
「気に入ってもらえてよかった」
「翼くんも創真くんも食べないの?」
「そうだね」
 ふたりして綾音の食べるさまを眺めていたが、彼女に促されてようやく自分たちも食べ始める。翼は綾音と同じカラフルな団子で、創真は五平餅だ。綾音は五平餅が気になるのかチラチラとこちらを見ていた。
「よかったら一口食べるか?」
「えっ?!」
 尋ねてみると、彼女はぶわりと顔を真っ赤にしてうろたえた。
 同時に翼がバッとすさまじい勢いで振り向いた。その一瞬、驚愕と憤怒の入り混じったような表情をしていたが、どうにか押し隠して、若干ぎこちないながらも平然とした顔を取り繕う。
「女の子に食べかけのものをあげるなんて失礼だぞ」
「口をつけていないところなら別に構わないだろう」
「ダメだ」
 その声には、あからさまに苛立ちがにじんでいた。
 どうせ綾音と親しくするのが面白くないだけだろう。もちろん本人が嫌なら無理強いするつもりはないが、翼に命令される筋合いはない。そんな反発心から思わずむすっとしてしまう。
「あ、あのね……!」
 自分をめぐる剣呑な雰囲気に困惑したように、綾音が声を上げた。
「創真くんが食べてるのは何だろうってちょっと気になっただけで、別に食べたかったわけじゃないから。黙ってじろじろ見ていたせいで誤解させちゃったんだよね。なんか、ごめんね?」
「あ、いや……こっちこそごめん……」
 創真は我にかえると急に申し訳なさを感じた。翼も気まずげに目を伏せる。
 そんなふたりを見て、綾音は心から安堵したようにほっと息をついた。そして、せっかくだから喧嘩しないで楽しく過ごそうよ、といつものように明るくほんわかと笑って言った。

「わ、もういっぱいだね」
 模擬店をまわったあと、三人は桔梗の演劇を見るために講堂へやってきた。
 開演まで十五分近くあるのに観客席はもう八割方埋まっており、熱気に満ちていた。そうこうしているあいだにも続々と席が埋まっていく。翼はざっとあたりを見渡すと、目標を定めたかのように迷いなく早足で歩き出した。
「すみません」
 翼はすこし屈んで、席に着いている女子生徒二人ににこやかに声をかける。相手はそれが翼だとわかるとひどく驚いていたが、翼は構わず話を進める。
「僕たち三人で座りたいので、よろしければひとつずつそちらに詰めてもらえませんか?」
「あ……はい!」
 女子生徒二人はそそくさとひとつずつ隣に移動した。
 己を最大限に利用したさすがとしか言いようのない手際に、創真は半ばあきれつつも感心する。とにかく三つ並んだ席が確保できたのだからありがたい。それも前方の中央寄りという見やすそうなところだ。女子生徒の隣に創真が、中央に翼が、その向こうに綾音が座った。
「綾音ちゃん、よかったら飲み物を買ってくるけど」
「私は大丈夫だよ」
 席に着いてからも、翼はかいがいしく世話を焼こうとしていた。というよりただ浮かれて構っているだけだろう。創真のほうには顔を向けようともしないで、綾音にばかり話しかけている。
 ようやく寂しい十五分が過ぎて、幕が上がった。
 物語は、中世ヨーロッパを思わせる架空の国を舞台とした恋愛活劇だった。主役ふたりの演技がとても上手く、剣術を中心としたアクションもあり、ドレスや騎士の衣装もなかなか立派で、エンターテイメントとして見応えがあった。観客の反応も上々で拍手がなかなか鳴り止まなかったくらいだ。
「面白かったね!」
 綾音も満足したらしく、講堂をあとにしながら興奮ぎみに声をはずませる。
「テンポがよくてドラマチックだったし、桔梗さんはすごく演技が上手だったし、ドレスのまま剣で戦うところとか、敵を前にして一歩も引かないところとか、気高くて格好良かったなぁ」
「桔梗姉さんのことだから、自分のやりたいこと見せたいことを詰め込んだだけだろう」
 翼は毒づくが、あながち言いがかりでもないかもしれない。
 なにせヒロインの令嬢がやたらめったら男前なのだ。特にドレスでのアクション、華麗な剣さばきは、桔梗でなければここまで魅力的に演じられなかった。自信があったからこそ入れ込んだのだろう。 
「肝心要のストーリーは薄っぺらで安直だったけど」
「そうかなぁ。わかりやすくてよかったと思うよ」
「まあ文化祭ならあのくらいでちょうどいいのかもな」
 確かに文化祭の観客はあまり演劇を見ない層がほとんどだろうし、重厚な物語だったらここまで盛り上がっていなかった気がする。エンターテイメントに振り切っていたからこそ満足度が高かったのだ。
「でも、あの桔梗姉さんがこんな話を書くとは思わなかったよ。純文学やミステリみたいな小難しい話が好きなひとなのに、まさかロミジュリもどきの恋愛活劇だなんて」
「ふふっ、確かに」
 綾音は笑いながら同意するが、ふいに小首を傾げると何か考える素振りを見せる。
「もしかして桔梗さん好きなひとがいるのかなぁ」
「さあ、恋愛にうつつを抜かすタイプではないと思うけど」
「そういうところを翼くんに見せてないだけかもよ?」
「想像もつかないな」
 翼は苦笑して肩をすくめた。
 別に桔梗に好きなひとがいてもおかしくないと思うが、そういう恋愛絡みの話はまったく聞いたことがないし、確かにあまり想像はつかない。
「恋愛かぁ」
 ふと綾音が思いを馳せるようにぽつりとつぶやく。
 まずいな——翼のまえで好きなひとについて尋ねられたら困る。そっと翼を窺うと、緊張した面持ちでチラチラと綾音を盗み見ていた。その綾音もどこか硬い表情で目を泳がせている。
 なんとなく気まずいような探り合うような空気ではあるが、藪蛇になりそうで触れることができない。ほかのふたりも同じだろう。創真は息を詰めてただ黙々と足を進めていたが——。
「飲み物を買ってくるよ。綾音ちゃんたちはこの辺で待ってて」
 翼は沈黙を破り、うっすらと微笑んでから校舎のほうへ駆けていった。
 創真は内心ほっとしつつ、通行の邪魔にならないよう綾音とともに端に寄った。木陰に並んで立ち、秋めいた風がゆるく頬を撫でるのを感じながら、行き来する人たちをぼんやりと眺める。
 そういえば綾音とふたりきりになるのはめずらしいな、と何気なく隣を見ると、たまたまなのかこちらを向いていた彼女と目が合った。彼女はすこし驚いたように瞬きをしたあと、くすりと笑う。
「せっかく一緒にいるのにあんまり話せてなかったね」
「まあな……でも、翼とはたくさん話せたから良かっただろう」
「うん、だけど創真くんともたくさん話したかったなって」
「そんなことを言うのは綾音ちゃんくらいだ」
 軽くそう応じると、彼女は当惑したように曖昧な笑みを浮かべて目を伏せる。
「私は本当にそう思ってるよ?」
「あ、別に疑ってるとかじゃなくて」
「だって創真くんが好きなんだもん」
「えっ?」
 思わず聞き返すが、彼女は下を向いたままこちらを見ようとしなかった。横髪に覆い隠されていて表情はよくわからない。戸惑っているうちに、ペットボトルを抱えた翼が軽やかに走りながら戻ってきた。
「綾音ちゃん、はい」
「ありがとう」
「創真もついでだ」
「ああ……」
 綾音に続いて、創真も差し出されたペットボトルを受け取る。
 翼は何事もなかったかのように笑顔を見せている。離れているあいだに気持ちを切り替えてきたようだ。綾音も普段と変わらない様子である。もうさきほどのようなぎこちない空気はない。
 けれど、創真だけは落ち着きを取り戻せずにいた。
 その原因である綾音をこっそりと横目で窺っていると、彼女は視線に気付いたように振り向いてふわりと微笑んだ。その心情も、その意図も、あの言葉も——創真は何ひとつわからず混乱するばかりだった。


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「オレの愛しい王子様」第4話 もうひとりの王子様

 十月に入って衣替えもすみ、もうすっかり秋だ。
 この一か月で東條は十分すぎるほどクラスに馴染んでしまった。自身のスペックの高さなどまるで意識していない様子で、誰とでも気さくに嫌味なく話をするので、男女問わずに好かれている。
 それでいて品の良さも感じられるため、女子のあいだではひそかに「もうひとりの王子様」と呼ばれ始めていた。もちろん元祖王子様は翼だ。ふたりが一緒だと目の保養になると騒がれていたりする。
 実際、このふたりは友人として行動をともにすることが多い。厳密には創真もいるので三人だ。席が近いこともあって休み時間にはよく話をしているし、昼には一緒に学食にも行っている。
 まさか、こうなるとは思わなかった。
 とっとと翼に想いを告げてふられてしまえばいい、そして距離を置くようになればいいと願っていたが、いまのところそうした素振りはない。ごく普通に男友達として接しているように見える。
 女扱いしないよう頼んだから律儀に守っているのだろうか。それともまずは友人として距離を縮めようとしているのだろうか。もしかしたら男として生きる翼を尊重してのことかもしれない。
 いずれにしても、翼とふたりの時間を奪われて続けているのが現実である。ただ、創真のこともきちんと友人として扱ってくれるので、意外と居心地は悪くない。それがすこしくやしくもあった。

「行けっ、翼!!」
 誰かがそう叫ぶより早く、翼は東條からのパスを受けるべく前に飛び出し、その勢いのままサッカーボールを蹴り抜いた。ボールはゴールポストの右上隅に突き刺さり、ネットを揺らす。
「やったな!」
「ああ」
 翼は東條やまわりのチームメイトとハイタッチをして、喜びを分かち合った。
 体育館から扉を開けてその様子を見ていた上級生の女子たちは、ふたりの王子様の連係プレーとハイタッチに黄色い声を上げている。制服のままなので体育の授業をしているわけではないようだ。
 創真も同じチームだったが、ディフェンダーとして自陣にいたので遠巻きに見るだけである。わざわざそのために駆け寄っていくほどのものではないだろう。体育の授業にすぎないのだから。
 あれは、オレの役目だったのにな——。
 東條が来るまでは創真がミッドフィルダーとして翼をアシストしていたが、そのポジションを彼に譲るはめになった。サッカースクールでミッドフィルダーだったと聞けばそうせざるを得ない。
 実際、創真よりはるかに上手いので文句も言えない。九才から十二才までサッカースクールに入っていたらしく、高校でもサッカー部に入ろうかどうしようか悩んでいたが、結局やめたと言っていた。

「え、サッカーやってなかったのか?」
 翼のゴールのあとまもなくチャイムが鳴り、授業が終わった。
 これで今日は終業となるので、みんなのんびりとサッカーボールやビブスなどを片付けている。そんな中、東條は翼がサッカーを学んだことがないと聞いて目を見張った。
「ああ、体育の授業でしかやってないな」
「それであんなシュートが打てるのか」
「シュートを打つことしかできないんだ」
「いやいやいや、十分すぎるだろう」
 翼がサッカーに詳しくないのは事実だが、さすがにシュートしか打てないということはない。ただ、やはり最も得意なのがそれということで、いつもストライカーを希望しているのだ。
「諫早くんは?」
「オレも体育の授業でしかやってない」
「サッカーには興味なかったのか?」
「テレビで代表戦を観るくらいだな」
「そうかぁ」
 創真が用具室でビブスを所定の場所にしまっている後ろで、東條は残念そうな声を上げた。その隣でサッカーボールの籠を片付けていた翼が愉快そうに笑う。
「僕らはすこしフェンシングをやってたんだ」
「あ、諫早くんには聞いてたけど、翼もだったのか」
「ああ」
 翼は頷き、ちょうど用具室の奥から戻った創真を目にして口元を上げる。
「創真はこう見えてなかなか強いぞ」
「こう見えてって何だよ……」
 思わず言い返したが、フェンシングが強そうに見えないという自覚はある。手足が長いほうが有利だと思われがちだし、高貴なイメージもあるので、小柄で地味な創真がフェンシングというだけで驚かれることが多い。
 現に、東條もあからさまに意外だという顔をしている。
「翼とだったらどっちが強いんだ?」
「互角だな。勝負は五分五分だったよ」
「へえ、それは見てみたいな」
「ははっ、もうなまってるだろうな」
 三人で並んで更衣室のほうに向かいながら、翼は笑い飛ばす。
 創真も、中三の夏に部を引退してから丸一年あまり剣を握っていないので、もう昔のように動ける自信はない。体力作りの運動、筋トレ、護身術の練習なんかは軽く行っているが、フェンシングの動きはまた別なのだ。
 今後、もうやることはないだろうな——。
 もともとフェンシングに思い入れはない。勉強も運動も容姿も何もかも翼に遠く及ばない中、唯一互角に渡り合えるものなので惜しい気はするが、だからこそ翼が続けないのであれば意味がないのだ。

「本当にあなたはやることなすこと派手ね」
 若干あきれたような声音が聞こえて振り向くと、翼の姉の桔梗が段ボール箱を抱えて渡り廊下で立ち止まり、こちらを見ていた。同様に段ボール箱を抱える数名の男女を付き従えて。
 すぐに翼はにっこりと王子様の笑みを全開にして、歩み寄っていく。
「体育館から見ていたのは桔梗姉さんたちでしたか」
「クラスの一部の女子よ」
 桔梗はそっけなく訂正すると、翼のあとをついてきた創真と東條を見やって微笑む。翼が警戒心を露わにしたことに気付いたが、目が合ったのに無視するわけにもいかず、創真は軽く会釈する。隣の東條もつられて会釈した。
「あなたは編入生の東條くんかしら?」
「あ、はい……はじめまして」
「二年の西園寺桔梗よ。よろしくね」
「先輩のことは翼から聞いてました」
「あら、悪口でなければいいのだけれど」
「あ、いや……」
 才色兼備だが女王様気質で策士、というのが悪口かどうかは微妙なところだろう。東條は気まずげに口ごもりつつ目を泳がせていたが、隣で翼が笑いを噛み殺していることに気付くと、あわてて話題を変える。
「あ、えっと、先輩たちは体育館で何をやってたんですか?」
「文化祭の準備よ。クラスで演劇をやるの」
 文化祭ではクラスで何かひとつ出し物をしなければならない。人気があるのはやはり模擬店で、創真たちのクラスもそれである。逆に演劇は準備が大変なので敬遠されがちだと聞いていた。
 桔梗のクラスの出し物については翼も初耳だったらしい。折り合いの悪いきょうだいなのであまり話をしないのだろう。一瞬、驚いたような興味をひかれたような表情を見せたが、すぐさま挑発的な目つきになる。
「もちろん主役は桔梗姉さんなんですよね?」
「ええ、もちろんというわけではないけれど」
「脇役をやる気なんてさらさらないでしょう」
「そうかもしれないわね」
 少々棘のある言葉を、桔梗はたいしたことではないかのように受け流す。その余裕のある姿からは女王様の貫禄が感じられた。
「脚本も私が書いたの。衣装や装置はみんなのおかげでいいものになりそうだし、演技も日々頑張っているところよ。午前午後の二回公演で各五十分の予定だから、都合のいいときに見に来てちょうだい」
「ぜひ行かせてもらいます」
 間髪を入れずに返事をしたのは東條だ。
 単なる社交辞令なのか、本当に興味をもったのか——もしかしたら翼がつっかかるのを阻止したかったのかもしれない。桔梗もそう思ったのか、東條を見つめたまま艶然と目を細めて得心したように言う。
「なるほど、もうひとりの王子様ってわけね」
「あ、いや……そんな柄じゃ……」
「翼よりあなたを好むひとは少なくないのよ」
「そんなことないと思いますけど」
「そういう謙虚なところがいいって聞くわ」
「別に謙虚ってわけでも……」
「ふふっ、思ったよりもかわいらしいのね」
「え、あの……」
 東條はしどろもどろで視線を泳がせる。
 彼のこんな姿は初めて見たかもしれない。いつもは言い寄られてもそれなりにうまくかわしているのに、相手が女王様だからか、翼の姉だからか、どうにも普段の調子が出せずにいるようだ。
「圭吾をからかうのはやめてもらえませんか」
「あら、思ったことを伝えたまでよ」
 冷ややかに睨む翼に、桔梗は素知らぬ顔でとぼけたようにそう返した。しかしすぐに華やかな笑みを浮かべてこちらに目を向ける。
「東條くんや創真くんともっとお話ししたかったけれど、今日のところはこれで失礼するわ。ごきげんよう。またいつかゆっくりと翼のいないところでお話ししましょう」
「あ……えっと……」
 東條は翼のほうを気にしながら戸惑っていたが、創真は黙って目礼した。
 そんなふたりに、桔梗は段ボール箱を抱えたまま優雅に会釈をすると、黒髪をなびかせながら颯爽と渡り廊下を進んでいく。後ろのクラスメイトたちも軽く会釈をして歩き出した。

「ったく……」
 翼があきれたような溜息まじりの声を落としたあと、三人は更衣室へと向かう。急ぐ必要がないことは翼もわかっているだろうが、それでも足早になりながら苦々しげに言葉を吐く。
「僕のものとなるとすぐにちょっかいを出してくるな、あのひとは」
「えっ?」
「僕を孤立させるために、おまえたちを自分の側に引き入れようとしてるんだろう。創真はもうずいぶん前から狙われているんだが、圭吾にも目をつけたみたいだな」
 前を向いたまま冷静にそう説明すると、再び溜息をついた。
 一方で東條はにやけるのをこらえきれないような顔をしていた。僕のもの——その言葉に深い意味がないことくらいわかっていると思うが、それでもうれしいのだろう。
「だから姉さんに何を言われても真に受けないでくれ」
「わかった」
 翼に頼まれるとあわてて表情を引きしめて頷く。
 しかし創真としては桔梗がそこまでするとは思えなかった。本気で引き入れるつもりはなく、翼へのちょっとした嫌がらせで声をかけたのではないだろうか。それも憶測でしかないけれど。
 いずれにしても自分が桔梗の側につくことなどありえない。桔梗とも良好な関係を築ければとは思っているが、あくまで翼の味方である。必要とされるかぎり翼のそばにいるつもりだ。きっと東條も——。
「俺はどんなことがあっても絶対に翼を裏切ったりしない」
「それならよかった」
 真摯な訴えに、翼は安堵したようにほっと表情をやわらげた。つられるように東條も照れくさそうにはにかむ。そんなふたりの隣で、創真はひとり気配を消したままそっと静かに目を伏せた。


◆目次:オレの愛しい王子様


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「オレの愛しい王子様」第3話 王子様の想いびと

「じゃあな、諫早くん」
「ああ」
 校内の案内を終えると、創真は帰る方向の違う東條と校門前で別れた。
 信号を待ちながら、スクールバッグにしまってあったスマートフォンを手にとる。そこには先に帰ってもらった翼からメッセージが来ていた。
 ——綾音ちゃんといつもの喫茶店にいる。
 ——おまえも来い。
 綾音というのは、創真と翼のもうひとりの幼なじみだ。同じ幼稚園でよく一緒に遊んでいた女の子で、小学校からは別々になったが、いまでも顔を合わせば普通に話をする間柄である。
 ただ、行事や用事といった必然性のある理由がないかぎり、わざわざ連絡を取って会うようなことはない。おそらく帰り際にばったり会って喫茶店に誘ったのだろう。そういうことはこれまでにもあった。
 いまから行く、と返信して行きつけの喫茶店に急ぐ。
 綾音とは高校生になったばかりのころに会ったきりなので、久しぶりに顔を見られるのはうれしい。しかし同時に、彼女自身にはまったく何の非もないのだが、ほんのすこしだけ気鬱に感じたのもまた事実だった。

「創真くん!」
 喫茶店に入るなり、奥のほうから透き通った声で名前を呼ばれた。
 そちらを見やると、翼と向かい合わせに座っている子がひらひらと手を振っていた。綾音である。幼いころから変わらず小柄で丸顔でほわんとした雰囲気だ。形のいい小さな頭にショートボブがよく似合っている。
「久しぶり」
「春以来?」
「だな」
 短い言葉を交わし、肩からスクールバッグを下ろして翼の隣に座る。
 綾音の前にはサンドイッチとオレンジジュースが、翼の前にはボロネーゼとサラダとアイスティーが置かれていた。まだほとんど減ってないので出されたばかりのようだ。確かにちょうど昼食どきではあるが——。
「おまえらここでメシ食ってんのかよ」
「せっかくだしいいだろう?」
「家に用意してあるんじゃないのか?」
「連絡はしてあるから心配するな」
「まあ、別にいいけど……」
 家族でもない自分がとやかく言うことではない。
 綾音にしても都合が悪ければ一緒に食べていないだろう。おとなしそうな見た目に反してきちんと意思表示をする子なので、断り切れなくて言われるがままということはないはずだ。
「創真も何か食べろよ」
「……ああ」
 軽く溜息をつき、メニューを眺めながら自宅に電話をかける。
 言われるがままなのは自分のほうだ。あいかわらず横暴だなとあきれたような気持ちになりながらも従ってしまう。ただ、翼がそんな物言いをするのは自分に対してだけだとわかっているので、ほんのすこし優越感も感じていた。

「綾音ちゃんのところはどう?」
 翼はたびたび食事の手を止めつつ綾音と話をしていた。意識はしていないのかもしれないが、すこしでもこの時間を引き延ばしたい気持ちの表れだろう。もうボロネーゼはだいぶ冷めているはずだ。
 そのペースに合わせているのか綾音もまだ食べ終わっていない。もっともこちらはサンドイッチなので冷める心配はない。それもあってか、時間を気にする様子もなく楽しそうに話を弾ませている。
「うちも中学のときとあんまり雰囲気は変わらないよ」
「中高一貫校はどこもそんな感じなんだろうな」
「でもやっぱり勉強は大変になるね。試験も多くて」
「確かに試験は増えたな」
 翼にとっては学校の勉強などたいして苦にならないはずだが、さすがにそうは言えないだろう。試験が多いという事実にのみ同意する。綾音はうんうんと頷いてから思い出したように言葉を継ぐ。
「そういえば六月の全統で翼くん十二位だったよね」
「ああ……あれ、綾音ちゃんも受けてたのか……」
「不本意そうだね」
 そう指摘されて翼は苦笑する。
 その模試は翼が高校生になってから最も順位の悪かったものだ。よりによってそれを綾音に見られたのだから無理もない。創真からすれば全国上位というだけでうらやましい限りだが。
「どうせなら一位のを見てもらいたかったよ」
「まだこれからたくさん機会はあるんじゃない?」
「綾音ちゃんにそう言われたら頑張るしかないな」
「うん、楽しみにしてる」
 ふたりの会話を聞きながらひとり黙々と食べていた創真は、あとから注文したにもかかわらず先に平らげてしまった。カトラリーを置いてアイスカフェオレを飲んでいると、ふいに綾音がこちらを向いてニコッと笑う。
「創真くんは勉強どう?」
「まあまあだな。翼には全然追いつけないけど」
「頑張っても全国上位は難しいよね」
「頭の出来が違うからな」
 学校が違うので彼女の成績は知らないが、創真と同じ凡人だということは見ていればわかる。翼のようにざっと目を通しただけで記憶する、瞬時に答えを導き出す、といった天才的な頭脳はふたりとも持ち合わせていない。だからこそ相通ずるものがあるのだ。
「私もそれは身にしみてるよ」
 そう肩をすくめてはにかむ彼女を見て、創真も思わずつられるようにふっと表情をゆるめた。その直後——。
「ねえ、綾音ちゃん。それなら僕が家庭教師になろうか?」
 振り向くと、翼がほんのりと微笑を浮かべて綾音を見つめていた。同じ学年の家庭教師など冗談みたいな話ではあるが、たぶん本気だろう。実際、それができるくらいの能力は持ち合わせている。
 さすがに綾音も驚いたらしく目を丸くしていたが、すぐにふわりと笑った。
「翼くんなら教えるのも上手そうだし家庭教師もいいかも。でも、いまは他のひとに週二で家庭教師に来てもらってるから……ごめんね」
「いや、それならいいんだ」
 翼は何でもないかのように返事をして微笑んだ。しかし、綾音は気付いていないかもしれないが、目だけは真剣ですこしも笑っていなかった。
「その家庭教師ってどんなひと?」
「東大生でね、メイクとか全然してなくて服も地味なんだけど、勉強はすごくわかりやすく教えてくれるんだ。解くコツや暗記の方法なんかもためになるし。お母さんも誠実でしっかりした人ねって気に入ってるみたい」
 その家庭教師に取って代われたらと考えていたようだが、思った以上に付け入る隙がなかったのだろう。そうなんだ、と柔らかく応じながら、その目にうっすらと落胆をにじませていた。

 翼は、おそらく幼稚園のころからずっと綾音が好きなのだ。
 もっともその思いを伝えたことはないようだ。伝えるつもりがないのか、その勇気がないのか、機会を窺っているのかはわからない。ただ、もしかしたら綾音もすでに気付いているかもしれない。
 きっかけは、幼稚園でのとある出来事だろう。
 当時、翼は一部の男子にいじめられていた。女なのに男のふりをしているなんておかしいとからかわれて。創真は友人として必死に翼を守ろうとしていたが、それだけでは駄目だったのだ。
 男の子でも、女の子でも、翼くんは翼くんだよ——。
 きっと、必要だったのはアイデンティティを認める明確な言葉。
 それをほわんとした笑顔で言ってのけたのが綾音である。なぐさめなどではなく、おそらくただ無邪気に思ったことを口にしただけ。だからこそ響いたのだろう。翼はもう誰にからかわれても気にしなくなったのだ。
 そしてこのことで綾音を好きになったに違いない。それまで創真とばかりいたのに、何かにつけて綾音のところへ話しに行くようになり、そうこうしているうちに三人でいることがあたりまえになっていた。
 小学生になると、学校が分かれたので会うことも少なくなってしまったが、それでも翼の気持ちは一途なまま変わらなかったようだ。十年前から、高校生となったいまに至るまでずっと——。

「ありがとう、お話しできて楽しかった」
 喫茶店から出ると、綾音は両手で鞄を持って笑顔でそう言った。
 夏用の白いセーラー服と膝丈のスカートがよく似合っている。小柄なうえ幼げな顔立ちなので、中学生、下手をすれば小学生にも見えかねない。そんな彼女を、翼は愛おしげなまなざしで見つめている。
「僕も綾音ちゃんと話せてうれしかったよ」
「うん、創真くんも来てくれてありがとう」
「ああ……」
 急に笑顔を向けられて、創真は思わず当惑して目を泳がせてしまった。社交辞令だろうが、だからこそどう反応すればいいのかわからない。
「そういえば」
 ふいに翼が切り出した。
「来月下旬にうちの高校で文化祭があるんだ。一般の来校も歓迎してるから綾音ちゃんもよかったら来てよ。多分うちのクラスでも何かやることになると思うし。日程とか決まったら連絡するから」
「うん、都合がついたら行くね」
 中学のときは学校内の行事でしかなかった文化祭だが、高校では一般公開する。
 そのときには綾音を誘おうと翼は前々から考えていたのかもしれない。そして待ちわびていたのかもしれない。そうでなければ、まだ何も準備が始まっていないこの段階で声をかけたりしないだろう。

 綾音と別れて、創真と翼は並んで帰路につく。
 降りそそぐ昼下がりの日差しはかなりきつい。空調の効いた喫茶店との温度差で体が若干だるく感じる。じわじわと汗をにじませながら、あいかわらず涼しげな顔をしている隣の翼をちらりと窺う。
「なあ……」
「ん?」
 翼はすこしだけ振り向いて先を促すように相槌を打った。めずらしくどこか気の抜けた様子で。綾音と過ごした時間の余韻にひたっていたのだろうか。
 創真はそっと目を伏せて、肩からずれかかったスクールバッグを掛けなおす。
「家庭教師なんてどういうつもりだったんだよ」
「綾音ちゃんの力になりたいと思っただけさ」
「いくらおまえでもそんな余裕はないはずだぜ」
「勉強は週四日だし無理じゃないよ」
 ここでいう勉強というのは、学校の授業や試験に関する勉強のことではない。将来のために必要な勉強のことだ。経営学、英会話、礼儀作法、心理学、マーケティング、護身術など幅広く学んでいる。
 基本的に西園寺の後継者となる翼のための教育で、西園寺の邸宅に教師を呼んで行われており、創真は補佐役になる人間として同席させてもらっている。だからとやかく言える立場ではないのだが。
「でも、おまえ父親のようになりたいんだろう」
「……そうだな」
 一瞬、その王子様のような端整な顔にふっと自嘲めいた笑みが浮かんだ。けれどすぐに気を取り直したように青い空を見上げて、大きく呼吸をする。
「確かにまだ足りないところばかりだしな」
「オレも一緒に頑張るから」
「そうだぞ、創真こそもっと頑張れよ」
 ここぞとばかりにからかいまじりに言い返されて、創真は苦笑した。
 すぐに理解して自分のものにしてしまう翼とは違い、ついていくのがやっとで身についているとまでは言いがたい。だからといって、学校のほうを疎かにしてまで励むのは本末転倒である。
 なかなか苦しい状況だが、どうにか食らいついていくしかないだろう。
 ずっと翼のそばで支える——その約束が、きっと翼のそばにいることを許される唯一の理由になる。だからそれを遂行できるだけの能力を身につけなければならない。この場所を誰かに奪われることのないように。
「オレ、絶対に翼の隣に立てる人間になるから」
「期待してるぞ」
 そう応じて、翼は挑発するような笑みを見せる。
 綾音のように愛おしげな目を向けられることは決してないけれど、この表情は自分だけのものだ。それだけで十分だ。胸のうちで自分自身にそう強く言い聞かせながら、創真は静かに頷いた。


◆目次:オレの愛しい王子様


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「オレの愛しい王子様」第2話 帰国子女の編入生

「おー、そこ席に着けー」
 創真たちの担任がガラガラと扉を開けて教室に入ってきた。
 後ろのほうに集まっていた男子生徒たちを注意しつつ教壇に立つが、教室は静かになるどころかいっそうざわめいていく。その視線は、担任が連れてきた見知らぬ男子生徒に注がれていた。
 顔はきりりと端整で、背が高く、適度に筋肉がついており、全体的にしっかりと男らしさを感じられる。それでいてさっぱりと清潔感があり暑苦しくない。老若男女に好かれそうな見目だ。
「えー、今日からこのクラスの生徒になる編入生を紹介する。東條圭吾くんだ。親御さんの仕事の都合で幼いころからずっと海外にいたそうだ。日本語は普通に話せるから安心していいぞ」
 そう言って、英語教師である担任はいたずらっぽくニヤリと笑う。英語ができない生徒のことを揶揄しているのだろう。情けないことに創真も英会話は苦手なほうなので、苦笑するしかなかった。
「じゃあ、東條、何かひとこと」
「はい……東條圭吾です。十年ほど日本を離れて、イギリス、フィンランド、ノルウェーに住んでました。学校のことも日本のこともあまりわからないと思うので、いろいろと教えてください。よろしくお願いします」
 帰国子女の編入生は違和感のない発音で挨拶すると、お辞儀をする。
 そんな彼にクラスはあたたかい拍手で歓迎の意を示した。一部の女子はかっこいいなどと興奮ぎみにささやき合ったり、熱いまなざしを送ったりしている。それでも彼は真面目な表情を崩さない。
「おまえの席はこの一番後ろだ」
「はい」
 担任が示したのは翼の隣だ。
 夏休み前までは何もなかったそこには机と椅子が置かれていた。登校してそれを見た時点でどういうことなのかみんな察しがついたし、一部では男子か女子か予想して盛り上がったりもしていた。
 編入生は背筋を伸ばして机と机のあいだを歩いていく。自分に向けられたまなざしやひそひそ話には気付いているだろうが、どことなく居心地の悪そうな顔になるだけで目を向けることはなかった。
「よろしく」
 彼が席に着こうとしたとき、翼は隣からそう声をかけてにっこりと微笑んだ。彼はすこし驚いて、こちらこそと戸惑いがちに返事をしながら座り、そのままじっと探るように翼を見つめる。
「君、どこかで会ったことないか?」
「え、どうかな。僕には覚えがないけど」
「……悪い、変なこと言って」
「いや」
 まるで下手なナンパだが、気恥ずかしげに黙り込んでしまったところを見ると、おそらく本当に既視感を覚えただけなのだろう。その様子を目にして翼はひそかにくすりと笑っていた。

「東條、もしよかったらこれから学校の中を案内するけど」
 終礼後すぐ、翼は帰り支度を始めようとした隣の編入生にそう申し出た。
 小中学生のときもよくこうして転校生の面倒を見ていたので、翼からすればさして特別なことではないが、それを知らない当の編入生は驚いて目を瞬かせていた。
「いいのか?」
「もちろん」
「じゃあ頼む」
 フレンドリーな翼につられるように、彼も笑顔になった。
 創真は横向きで頬杖をついてふたりの様子を眺めていたが、会話が一段落すると席を立ち、スクールバッグを肩にかけながらあらためて翼に向きなおる。
「案内するところは絞れよ」
「わかってるって」
 いつもあちらこちらと案内しすぎて時間が長くなるのだ。しかしながら翼は心配いらないとばかりに軽く笑い飛ばすと、スクールバッグを肩にかけて創真の隣に立ち、まだ座っている編入生に声をかける。
「行こうか」
「え……ああ」
 彼は小さく頷き、あわてて帰り支度を整えて立ち上がった。
 おそらく翼とふたりきりだと思い込んでいたのだろう。そしてそれを望んでいたのだろう。平静を装っているものの、一瞬、そこに落胆の色が浮かんだのを創真は見逃さなかった。

「そういえば自己紹介がまだだったな」
 教室を出ると、翼はそう切り出して隣の編入生に振り向く。その表情はいつもよりも華やかなよそいきのものだった。
「僕は西園寺翼。西園寺でも翼でも好きなように呼んでくれて構わない」
「ああ……じゃあ翼って呼ばせてもらおうかな。俺のことも圭吾でいい」
「わかった」
 眉目秀麗で男性的な体格の編入生と、凜々しくも中性的な容姿の翼が並んでいると、それだけで絵になる。桔梗と翼のきらびやかさとはまた違った雰囲気だ。放課後の廊下で談笑していた女子たちも目を奪われていたし、やたらざわついてもいた。
「創真も自己紹介しろよ」
「うわっ」
 ふたりのすぐ後ろを歩きながら物思いに耽っていた創真は、いきなり翼にグイッと上腕を引かれて声を上げた。蹴躓いてよろけながら翼と編入生のあいだにおさまる。
「ったく……」
 翼が強引なのはいまに始まったことではない。軽く溜息をつくと、自分より頭ひとつ大きい編入生にちらりと目を向ける。
「オレは諫早創真。翼以外にはだいたい名字のほうで呼ばれてる」
「諫早くんだな」
 編入生はにっこりと確認するように復唱した。
 ただ——翼のことは迷わず呼び捨てにしていたのに、なぜか創真は君付けである。小柄で童顔なので無意識に付けてしまったのだろうか。面白くはないが、わざわざ指摘するのも癪なので黙ってこくりと頷いた。

「ここが図書館だ。なかなか立派だろう」
 図書館はガラスを多用した透明性の高い近代的なデザインだ。エントランスは吹き抜けになっていて、それ以外のところも天井が高く、閲覧スペースも広々としており、全体的に開放的で明るい印象となっている。
「これが学校の図書館とはなぁ」
「おととし建て替えられたばかりなんだ。閲覧スペースで勉強することもできるけど、定期試験前はすぐに席が埋まる。よほど頑張らないと取るのは難しいだろうな。本を借りるときは——」
 唖然とする東條に、翼は実用的なことを中心によどみなく案内していく。翼自身、高校に入ってからまだ半年も経ってないし、案内するのも初めてだが、堂に入っていてとてもそんなふうには見えない。
「ここは学食だ」
 続いて隣の学食にやってきた。
 学食というよりも広大なカフェといった雰囲気で、天井が高く、窓側は上まで全面ガラス張りになっており、その向こうのテラスにも客席がある。図書館よりもさらに開放的で明るい印象だ。
「ランチタイムにはカフェテリア方式でメニューが用意される。そこからトレイに好きなものをのせていって最後にレジで支払うんだ。支払いは現金でもいいけど電子マネーが便利だぞ。ここで買わずに弁当を持ち込むことも許可されている」
 まだ準備中だが、始業式のみだった今日もランチの提供はあるようだ。奥で忙しく準備をしているのが見える。部活動などで必要とする人がそれなりにいるからだろう。
「翼はどうしてるんだ?」
「だいたいここで買って創真と食べてるな」
「じゃあ、俺も一緒に食べていいか?」
「構わないよ」
 翼は当然のように勝手に了承した。
 あいかわらず横暴だが、たとえ意見を求められたとしても嫌だなんて言えなかった。いずれにしろ創真は苦々しい顔をすることしかできないのだ。もちろん翼に気付かれないようにこっそりと。
「ランチタイムは食事のみだけど、それ以外の時間は自由に席を利用していいことになっている。雑音が気にならないならここで勉強するのも悪くないかもな。図書館と違って飲食自由だから何か飲みながら勉強できる。自販機もそこにあるし」
 指さしたほうにはカップ式の自動販売機が設置されている。そして、そのカップを手元に置いて勉強する生徒もちらほらといた。
「へぇ、日本の高校ってどこもこんな立派なのか?」
「さすがにここまではあまりないだろうな」
「それじゃあ俺はいいところに編入したんだな」
「そういうことだ」
 翼はすこし得意げにふっと笑う。
 図書館や学食などの設備の良さはこの高校の売りのひとつだ。パンフレットやウェブサイトで大々的に宣伝している。ここしか知らなくても、恵まれた環境だということはそれなりに自覚していた。

「次のところまでしばらく歩くぞ」
 翼はそう宣言し、教室のある校舎に戻って反対側へと進んでいく。そのころにはもう人影もまばらでだいぶ静かになっていた。これで騒がれずにすみそうだと創真はほっとしていたが——。
「あの、西園寺くん……!」
 昇降口の前を通りかかったとき、おさげ髪の女子生徒が緊張ぎみに声をかけてきた。彼女には見覚えがないのでクラスが違うのだろう。どうやら翼の靴箱のまえでずっと待っていたようだ。
「何かな?」
 翼も彼女のことを知らないのではないかと思うが、その待ち伏せを不審がりもせず、それどころかよそいきの笑みを向けて問いかける。その一瞬で、彼女の顔はぶわりと真っ赤になった。
「あ……その、できれば二人きりで……」
「ああ、それなら前庭で構わないか?」
「はい」
 熱が引かないまま頷く彼女に、翼は追い打ちをかけるように甘やかに微笑みかけた。そして彼女が惚けている隙にちらりと振り返り、こそっと小声でささやく。
「悪いけどちょっと行ってくる。すぐ戻るから待っててくれ」
「いや、今日はもうそのまま帰れよ。あとはオレが案内しとく」
「……そうだな、頼む」
 創真の提案を聞いてすこし考える素振りを見せたものの、すぐにふっと息をついて応じた。じゃあな、と軽く片手を上げてから女子生徒のほうに向かうと、彼女をエスコートしつつ革靴に履き替えて昇降口を出ていく。
「東條、こっちだ」
「ああ……」
 わけのわからないまま翼に置き去りにされて、東條は唖然としていたが、それでも創真が呼びかけると素直についてきた。並んで廊下を歩きながら、釈然としないような訝るような表情で首をひねる。
「翼、あの女の子と何かあったのか?」
「いや、告白されるだけだろう」
「告白?」
「好きです、つきあってくださいって」
「ああ、あれか……漫画で見た……」
 そういえば国によってはそういう告白はしないと聞いたことがある。彼のいたところもそうだったのかもしれない。けれど、これからは否応なく日本の文化に直面することになるはずだ。
「おまえもすぐに告白されると思うぜ。覚悟しとけよ」
 中性的な翼より、男性的な東條を好きになる女子も少なくないだろう。そしてそういう女子ほど恋愛に貪欲な肉食系だったりする。先手必勝とばかりに行動に移してくるような気がした。
「諫早くんもされたことあるのか?」
「……オレは一回もねぇよ」
 思わずムッとすると、東條はきまり悪そうにごまかし笑いを浮かべた。別に告白されたいと思っているわけではないのでどうでもいいのだが、ただほんのすこし惨めに感じて溜息がこぼれた。
「なあ」
 ふたりともしばらく無言で歩き続けていたが、東條がその沈黙を破った。ちらりと隣の創真に視線を流し、何か言いづらそうな顔をしながら言葉を継ぐ。
「翼はさっきの子とつきあうと思うか?」
「いや、そういうのはみんな断ってるから」
「そうか……」
 彼は安堵したように吐息まじりの声でそう答えた。表情もすこし緩んだが、すぐさま我にかえったのかしれっと素知らぬ顔になる。それを視界の端で認識しつつ、創真は気付かないふりをして黙ったまま歩き続けた。

「ここが第一体育館。オレらのクラスはよくここで体育の授業をしてる」
 手前では男子バスケ部がドリブルとディフェンスの練習を、奥では男子バレー部がサーブの練習をしており、上のギャラリーではどこかの部がランニングをしていた。ボールがはずむ音、シューズの摩擦音、かけ声などがそこかしこに響いている。
「そういや、おまえ部活はどうするんだ?」
「ああ……どうしようかな……」
 何となく尋ねてみると、東條は困ったように眉をひそめて曖昧な返事をする。いくつかの候補で迷っているというより、そもそもあまり気が進まないように見える。
「諫早くんは何をやってるんだ?」
「オレは何もやってない」
「中学のときも?」
「中学はフェンシング部だったけど」
「へぇ、なんで続けなかったんだ?」
「勉強を優先したかったから」
「なるほど」
 中学では必ずどこかの部に所属しなければならなかったので、翼に誘われて一緒にフェンシング部に入った。しかし高校の部活は任意である。それならば将来のための勉強を優先しようと翼と決めたのだ。
「まあ急がずゆっくり考えろよ。見学もできるし」
「ありがとうな」
 東條はさわやかな笑顔で応じた。
 彼を見ていると悪い人ではないというのは何となくわかる。他人を見下すような鼻持ちならない感じもない。それでもあまり彼と親しくする気にはなれなかった。
「男子更衣室も案内しとく」
 そっけなく言って背を向けると、体育館脇の通路を進んで男子更衣室の扉を開いた。中には誰もいないようで物音ひとつしない。
「体育の授業のときはここで着替えるんだ。ロッカーは空いているところならどこを使ってもいい。向こうには個室があるから見られたくなければそこで着替えろ。三つしかないけど、使うヤツはほとんどいないからだいたいどこかは空いてるな。奥のシャワールームは基本的に授業のときは使わないことになってる」
 ざっと中をまわり、ついでにシャワールームのほうも一通り見せていく。創真自身も中に入るのは初めてだ。各ブースには扉がついていて、そう広くはないがきちんとした個室になっていた。
「ほとんどフィットネスジムだな」
 東條が感嘆したような呆れたような口調で言う。創真もここまでとは思っていなかったので、表情には出さなかったもののひそかに驚いていた。
「あとはグラウンドか」
 今日のところはこれで最後にしようと決めて、内履きのまま外に出る。
 視界が開けたところで、白い日差しに眉をひそめつつ正面のグラウンドを見渡すと、陸上競技部、サッカー部、ソフトボール部などが場所を分け合って練習していた。蝉の鳴き声にまじって水しぶきの音もかすかに聞こえてくる。
「まあ、特に説明するまでもないただのグラウンドだな。あっちのほうには第二体育館と武道場、そっちのほうにはテニスコートとプール、すこし離れたところには第二グラウンドもあるが、オレも行ったことはない」
「へぇ」
 東條は柱に手をついて身を乗り出し、創真の説明をなぞるようにあたりを見まわしていく。ここからだと第二グラウンドや武道場は見えないと思うが、それでも興味深そうに何か覗き込んでいた。
 その隣で、創真は気持ちを鎮めるようにゆっくりと息をついた。
「東條、ひとつ話しておきたいことがある」
 そう切り出すと、彼は身を乗り出した姿勢のまま振り向いた。創真の顔を目にして不思議そうな面持ちになり、ゆるりと上体を起こす。
「急にあらたまって何だ?」
「翼のことだけど、あいつ、実は女だ」
「……は?」
 瞬間、男性的な眉がひそめられた。
 表情からはひどく混乱しているであろうことが見てとれる。それでも彼は思考を放棄しなかった。わずかに目を伏せたまま真顔でじっと考え込んだあと、挑むように創真を見据えて口を開く。
「それが事実だとして、編入生の俺にいきなり話す理由がわからない」
「公然の秘密だからだ。先生も生徒も翼が女だと知ったうえで男として扱ってるから、おまえもそのつもりでいてくれっていう話。ちなみにこの学校の理事長は翼の大叔父にあたるひとだ」
 この話をするために、翼にはあえて先に帰ってもらったのである。中学生のころもクラスに転校生が来るたびにそうしてきたので、何も言ってはいないがおおよそ察しているはずだ。
 だが、理事長のことを匂わせて牽制しているとは思ってもいないだろう。翼の大叔父というのは事実なので嘘は言っていない。あとはそれを聞いた側がどう受け取るかというだけである。
「なるほど、了解」
 東條は素直に承服してくれたようだ。
 その反応にひとまず安堵して昇降口に向かおうとしたが、彼はなぜか立ちつくしたまま動こうとしない。こころなしか緊張したような顔をして創真を見据え、なあ、と低めの声で切り出す。
「諫早くんと翼はどういう関係なんだ?」
「幼稚園のころからの幼なじみだ」
「幼なじみで恋人、ってわけじゃないのか?」
「全然そんなんじゃねぇよ」
「そうか……」
 ほっと息をつき、ほんのりとうれしそうな顔になった。
 もはや隠そうという気はあまりないのかもしれない。そのことを咎めるつもりもなければ権利もないけれど、最低限守ってもらいたいことはある。創真は冷ややかに見つめながら釘を刺す。
「さっき言ったことを忘れてないだろうな」
「そういえば、なんで男のふりなんかしてるんだ?」
「ああ……西園寺グループって知ってるか?」
「いや?」
 日本に住んでいるひとならたいてい名前くらいは聞いたことがあるという、とても有名な企業グループなのだが、東條はずっと海外にいたので知らなくても仕方がないのかもしれない。
「まあ大きな会社だと思ってくれればいい。翼が生まれたのはその西園寺グループの創業家なんだけど、男しか跡取りになれないのに子供四人がみんな女だったから、末っ子の翼を男として育てることにしたらしい」
 要するに家の事情である。いまでこそ後継者という運命を積極的に受け入れているものの、翼自身の意思で始めたことでははないのだ。
 それを聞いて、東條はよくわからないとばかりに首を傾げる。
「それって何の意味があるんだ?」
「えっ?」
「女ってことをひた隠しにするならわかるけど、みんな知ってるんだろう? 男のふりをしても、結局は女だから跡取りになれないんじゃないのか? それとも男のふりさえしていれば跡取りになれるのか?」
 そう問われ、思わずついと眉を寄せる。
 話を聞いたのが幼少のころだったこともあり、そういうものだとあたりまえのように受け入れていたので、深く考えたことはなかった。言われてみれば確かに判然としない部分はあるが——。
「多分、何かしら決まりがあってのことなんだろう。旧家だからいろんなしきたりとかありそうだし。オレは外部の人間だから詳しいことはわからないけど」
「そうだよな。諫早くんを問いつめても仕方ないのに」
 東條は苦笑して肩をすくめた。そんな彼を、創真はじとりと横目で睨む。
「だからって翼を問いつめるなよ。さっきも言ったけど、翼が女だってことは公然の秘密だからな。翼のまえでも知らないふりをしてくれないと困る」
「わかってる」
「いい意味だろうと悪い意味だろうと女扱いはするな。女だってことを身勝手に押しつけるな。たとえ翼をそういう意味で好きになったとしても」
 瞬間、彼は虚を突かれたように大きく目を見開いた。しばらくそのまま凍りついたように動きを止めていたが、やがてふっと息をつき、微笑を浮かべて意味ありげなまなざしを創真に向ける。
 やはり、と推測は確信に変わった。
 彼はきっとあのとき翼に一目惚れしたのだ。同性だと思いつつも好きになってしまったのか、同性だと思ったから好きになったのかはわからないが、異性だと知っても気持ちは変わらないように見える。
 さっそく昼飯を一緒に食べる約束を取り付けたことから考えると、かなり積極性はあるのだろう。これからも何かにつけて翼につきまとってくるかもしれない。今日のように創真の居場所を奪いつつ。
 いっそ、とっとと想いを告げてふられてしまえ——。
 うっとうしい蝉の鳴き声がやまない。夏の日差しがじりじりと照りつけるグラウンドはさらに熱を帯びる。創真はじわりと汗をにじませて、無表情でスクールバッグを掛けなおしながら校舎のほうへ身を翻した。


◆目次:オレの愛しい王子様


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「オレの愛しい王子様」第1話 オレの愛しい王子様

「僕を待たせるとはいい度胸だな」
 夏休みが終わり、二学期が始まるその日の朝。
 諫早創真(いさはやそうま)がいつものように西園寺の邸宅へ迎えに行くと、すっかり準備を整えて待ち構えていた西園寺翼(さいおんじつばさ)が、うっすらと笑みを浮かべてそんなことを言った。
 迎えの時間は決めてあるもののそう厳密なものではない。腕時計を見てみると、確かに二分ほど過ぎているがおおよそ時間どおりである。このくらいの遅れならいままでにもときどきあった。
「おまえといれば度胸もつくさ」
 どうせ気まぐれでからかっているだけだろうと思い、軽くそう返したが、予想に反して翼の反応は怖いくらい真面目なものだった。
「なら罰を受ける覚悟もできてるな?」
「え、マジで言ってんのか?」
「何かしらのペナルティは必要だ」
「ペナルティって……」
 困惑する創真のまえで、翼は目を伏せてじっと思案するような素振りを見せる。やがてふいとわずかに視線だけを上げたかと思うと、ニッといたずらっぽく笑った。
「冗談に決まってるだろう。度胸がついたというわりにはビビりすぎだぞ」
「おまえなぁ」
 創真は大きく安堵の息を吐きながらそう言って、じとりと睨んだ。

「あまりからかっていると創真くんに愛想を尽かされるぞ」
 笑いを含んだ声が、天井の高い広々とした玄関ホールに響く。
 振り向くと、仕立てのいいチャコールグレーのスーツを身につけ、悠然とした足取りで階段を降りてくる壮年の男性がそこにいた。翼の父親で、由緒正しい西園寺家の次期当主に指名されている征也(せいや)である。
 ただ立っているだけでカリスマ性を感じさせる美丈夫でありながら、身のこなしも洗練されており、また仕事ぶりも素晴らしく、後継者として非の打ちどころがないと評価されているようだ。
 そんな彼に、翼は幼いころからずっと憧憬と尊敬の念を抱いていた。創真は本人から飽きるくらい何度もそのことを聞かされてきたし、実際、父親といるときの表情を見れば一目瞭然である。
「父上、創真とは仲良くやってますから大丈夫です」
「幼なじみというのは得難いものだ。大切になさい」
「はい」
 いまも尊敬のまなざしを隠さない。
 こんな目を向けられてはくすぐったくなりそうなものだが、征也はいつもながら照れた様子もなく鷹揚に受け止めて、再び足を進める。
「あ、おはようございます」
「おはよう創真くん」
 目が合って思い出したようにあたふたと挨拶をした創真にも、やわらかく微笑み返してくれた。用意された革靴を履き、後ろに控えていた妻の瞳子(とうこ)からビジネスバッグを受け取る。
「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
「父上、お気をつけて」
 瞳子と翼がそれぞれ声をかけるが、創真は何と言えばいいかわからず無言のまま頭を下げた。普段、征也はもっと早い時間に家を出ているので、こんなふうに見送ることになったのは初めてなのだ。
 しかしながら彼は気にする素振りもなく軽く頷き、颯爽と玄関をあとにした。
「さあ、翼もそろそろ行かないと遅刻しますよ。あなたは西園寺の後継者になるのですからね。常にその名に恥じないように行動しなさい」
「はい、母上」
 西園寺の後継者になるのだから——瞳子のその言葉は、創真でさえいいかげん耳にタコができそうなくらい聞いているが、翼はうんざりする様子もなくいつも真面目に受け止めている。むしろ期待されていることをうれしく思っているようだ。
「行くぞ、創真」
「ああ」
 翼は颯爽と足を進め、そのあとを創真は小走りで追いかけていった。

 九月一日は、まだ真夏のような気がする。
 午前の早い時間だというのに、すでに刺すような強い日差しが容赦なく降りそそいでいる。日が高くなればさらにきつくなるだろう。秋らしい気候になるにはもうしばらくかかりそうだ。
 創真はじわりと汗がにじむのを感じてネクタイを緩め、そっと隣に目を向ける。
 自分と違って、翼は暑さなど感じていないかのように涼しげな顔をしていた。汗をかきにくい体質なのでそう見えるというのもあるだろうし、表情に出さないようにもしているのだろう。いつだってだらしなく見えないよう努力しているのだ。
「翼くん、おはよう」
「おはよう」
 明るく声をかけてきたクラスメイトの女子に、翼は甘い微笑を返す。
 すっと通った鼻筋、形のいい薄い唇、甘さを感じさせる目元、白くなめらかな肌、栗色のゆるふわショート、すらりと姿勢のいい長身——その凜々しくも中性的な容姿から翼は王子様と言われていたりする。
 半袖シャツにネクタイ、スラックスというありきたりな夏の制服も、手足の長さもあってずるいくらいさまになっていた。とても創真と同じデザインのものとは思えない。見比べると絶望的な気持ちになる。
 幼稚園に通っていたころは創真のほうがだいぶ大きかった。けれど小学四年生のときに抜かれて、高校一年生のいまは翼のほうが十二センチも高くなってしまったのだ。こんなはずではなかったのに。
 さらには成績も遠く及ばない。私立の進学校として名高い桐山学園高等学校の中で、翼は常に学年トップの成績だが、創真はかろうじて半分より上というあたりである。このままでは同じ大学に進学するのも難しい。
 こんな自分が翼の隣に立つことなど許されるのだろうか、翼を支えていくことなどできるのだろうか、翼のためにいったい何ができるというのだろうか。ときどきふとそんな思いにとらわれてしまう。それでも——。
「ん、どうした?」
「いや……」
 不躾な視線に気付かれたことに内心であわてつつ、曖昧に目をそらす。それが不自然に映ったのだろう。翼は不思議そうな顔をしながらわずかに小首を傾げる。
「悩みがあるなら相談にのるぞ?」
「ん、まあ……」
 創真は言葉を濁して黙り込んだ。悩んでいるといえばそうだが、自分の中では決着のついていることなので相談する必要性は感じていないし、そもそも当事者である翼には話したくも知られたくもなかった。
 その心情を察したのか、翼はあきらめたようにうっすらと苦笑した。
「おまえ、意外と秘密主義だよな」
「は?」
 いくらなんでも秘密主義と言われるほど秘密にした覚えはない。創真はムッとしてすこしぶっきらぼうに言い返す。
「おまえにも言えないことくらいあるだろう」
「創真になら言えないことなんてないけどな」
「…………」
 胡乱な目を向けると、翼はそれを受けてふっと口元に笑みを浮かべた。
「じゃあ、聞きたいことがあるなら聞いてくれ」
「何でも正直に答えられるとでもいうのかよ」
「ああ」
 だったら、翼の——。
 喉元まで出かかった質問を創真はグッと飲み込んだ。その答えは聞くまでもなくほぼ確信しているが、こんな形で問い詰めるべきことではないと思うし、何より同じ質問を返されてしまう可能性もあるのだ。
「……考えとく」
 そう受け流して、この話題を曖昧に打ち切った。

「おはよう、西園寺くん」
 校門をくぐると、翼はあちらこちらから女子生徒に声をかけられる。
 彼女たちに愛想よく返事をするのはもちろんのこと、遠巻きに見つめている子たちにも甘やかな笑みを振りまくので、黄色い声が絶えない。それはもうすっかり日常の光景と化していた。
「ごきげんよう。相変わらずあなたのまわりは騒がしいわね」
「桔梗姉さん」
 すっと翼の隣に並んで声をかけてきたのは、姉の桔梗(ききょう)だった。
 彼女はこの桐山学園高等学校の二年生である。翼と同じくらいの身長でやはりモデルのようなスタイルをしており、容姿端麗で頭脳明晰、さらに自然と人を従わせる雰囲気があるため女王様の異名を持っていた。
 ふたりが並んでいると、相乗効果でいっそうまわりの目を惹きつけてしまう。
 ただ、隠しているわけではないので知っているひとも少なくないし、むしろそれを面白がっているひともいたりするのだが——実のところ、とてもじゃないが仲がいいとは言いがたい。
「調子に乗ってアイドルにでもなるつもり?」
「姉さんのようにお高くとまってないだけです」
「あなたは軽薄で品性に欠けるのよ」
「そういう姉さんも大概だと思いますけどね」
 きらびやかな笑顔を見せたままの応酬は、なかなか怖い。
 もっとも今に始まったことではなく、幼いころからずっとこんな感じで反発しあってきた。創真も何度となくその現場を目にしている。翼は認めないが、いわゆる同族嫌悪というやつではないかと思っている。
 それでも桔梗には年上だという自覚があるのだろう。だいたい先に引き下がるのは彼女のほうなのだ。今回もそれ以上は言い返さず、ただあきれたとばかりに溜息をついて冷ややかな視線を流す。
「西園寺の名にふさわしい振る舞いをなさい」
 それだけ言い置くと、腰近くまである艶やかな黒髪をなびかせながら、反対側にいた創真の隣に軽やかにまわりこんできた。
「ごきげんよう、創真くん」
「おはようございます」
 さきほどまでとは別人のようにやわらかく微笑む桔梗に、創真は軽く会釈した。
 彼女とは幼なじみといえるほど親しくないが、幼稚園や小学生のころは一緒に遊んだこともあるし、いまでも顔を合わせば挨拶くらいはしている。そのたびに翼は面白くなさそうにしていたけれど——。
「桔梗姉さん、創真に絡むのはやめてください」
「あら、挨拶しただけじゃない」
「姉さんの魂胆はわかっています」
「あなたにとやかく言われる筋合いはないわ」
「創真に話しかけることは僕が許さない」
 ここまで強硬な態度を示したのは初めてだった。
 自分の頭ごしに言い合うふたりを交互に見ながら創真はおろおろする。魂胆がどうとかいう話からすると、ふたりのあいだで何かあったのかもしれないし、それもわからないまま下手に仲裁するわけにもいかない。
 しかし、そう思ったときにはもうすでに口論が途切れていた。先に引き下がったのはやはり桔梗のようだ。言葉の代わりにいかにもうんざりしたように深く溜息をつき、そっと創真に目を向ける。
「創真くん、こんな狭量な人間に仕えるのは考え直したほうがいいわよ」
「いや、オレは……別に……」
 返答に窮していると、彼女はどこか同情めいた笑みを残して昇降口へ向かった。そのあとを何人かの生徒があわてて追いかけていく。友人というより信奉者か野次馬かといったところだろう。
 そして、こちらにもクラスメイトの女子三人組が駆け寄ってきた。
「朝からお姉さんとのバトル大変だったね」
「バトルってほどじゃないよ」
「私たちは翼くんの味方だから!」
 きゃいきゃいと目を輝かせてはしゃぐ彼女たちに、翼はにこやかに応じる。しかし桔梗と言い争ったことで疲れていたのだろう。そこにほんのすこし苦笑のようなものが混じっていたのを、創真は見逃さなかった。

 教室に入ると、ふたりはそれぞれ自席に着いた。
 翼は窓際のいちばん後ろで、創真はそのひとつ前だ。席はくじで決めているものの、ふたりが前後になったのは偶然などではなく、翼がその席を引いた男子に替わってもらったからである。
 私語でざわつく中、創真はスクールバッグから筆記具や教科書を出していたが、ふいに後ろからグイッと強く肩を引かれた。振り返ると、翼がひどく思いつめた顔をしてこちらを見ていた。
「さっきのことだけどな」
「ああ……」
 近い、近すぎ——。
 他のひとには聞かれたくないのだろう。常にはないほど顔を近づけて声をひそめる翼に、そのときかすかに感じたほんのりとあたたかい吐息に、創真は内心どぎまぎした。頬もすこし赤くなっているかもしれない。
 しかし、翼はそれに気付いた様子もなく真顔のまま話を続ける。
「桔梗姉さんは創真のことを欲しがっている」
「は……?」
 一瞬、頭が真っ白になった。
 あまりに突拍子もなくてわけがわからず唖然としてしまい、もはや胸を高鳴らせるどころではなかった。ひどく混乱する頭を必死にめぐらせながら言葉を紡ぐ。
「欲しがってって……え、どういうことだ?」
「自分のそばに置いておきたいみたいだな」
「桔梗さんがそう言ったのか?」
「最近、よく思わせぶりなことを言っている」
 おかしな意味ではなかったようですこしほっとしたものの、そばに置いておきたいというのはやはり信じがたい。桔梗ならどういう意図にしろ選び放題のはずなのに。
「オレなんかを欲しがるとは思えないけど」
「僕から大事なものを奪いたいだけなんだろう」
「……大事なものって、オレか?」
「それ以外に何がある」
 まあ、話の流れからするとそれ以外にはないのだが。
 思わずにやけそうになるが、それを見られるわけにはいかなくて必死にこらえた。翼は怪訝そうにほんのすこし眉をひそめたものの、すぐに気持ちを切り替えたのか真剣な面持ちになり、まっすぐ創真を見つめる。
「いいか、くれぐれも姉さんの甘言に惑わされるなよ。おまえを気に入ってるとか言ってくるかもしれないが、そういうわけじゃない。あとで知って惨めな思いをするのはおまえだからな」
「オレは、翼から離れるつもりはないよ」
 そう答えると、翼はようやく安堵したように表情を緩めた。
 ただ、創真としては桔梗がそこまでするとは思えなかった。ちょっとした嫌がらせとして思わせぶりなことを言ってみただけで、行動には移さない気がする。とはいえどちらにしても創真の答えは変わらない。
 ずっと翼のそばにいて、翼を支える——。
 幼いころにそう約束を交わした。自分に支えられるのか悩むことはあっても、誰かに何かを言われたからといって離れるつもりはない。翼にいらないと言われるまではそばにいようと決めている。
 ただ、それは決して義務感や責任感からではない。創真自身がそうしたいと心から望んでいるからである。そもそも約束を持ちかけたのは創真なのだ。そしてその気持ちは当時よりもずっと強くなっている。なぜなら——。
 始業開始のチャイムが鳴った。
 肩を掴んでいたほっそりとした白い手が離れて、創真は前に向きなおる。それでも後ろに翼がいることを意識すると、自分の背中を見ているのではないかと思うと、すこしだけ鼓動が騒がしくなる。
 そう、胸に秘めたまま誰にも打ち明けるつもりはないけれど、創真は幼なじみで親友の翼を、幼なじみとして親友として以上に愛しいと思ってしまっているのだ。それを翼が知ることは、きっと、永遠にない。


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「オレの愛しい王子様」第0話 プロローグ

「まだそんなズボンはいて僕とか言ってんのかよ」
 創真がなかよしの翼をさそって園庭のすべり台に向かっていたところ、やんちゃな男子三人組がとおせんぼをするように立ちふさがり、いじわるな言葉をぶつけてきた。創真ではなくその後ろにいる翼に。
 彼らはいつもそうやって翼をいじめるのだ。
 しかしながら翼は何を言われても決して言い返そうとしない。いまも困ったような顔をしてただじっと下を向くだけである。代わりにというわけではないけれど創真がカッとして啖呵を切る。
「おまえらにはカンケーないだろっ!」
「気持ちわりーんだから関係あるぜ」
「なにぃ?!」
 思わずこぶしを握りしめて突っかかろうとしたが、翼に後ろから腕を掴まれた。その手は非力だったものの無理には振りほどけない。なすがまま園庭のすみっこのほうに連れていかれてしまう。
「逃げんのかよ、よわむしー!」
「タマついてねーもんな」
 背後からはそんな嘲笑の声が聞こえてきた。
 創真は耐えきれずに振り返ったものの、そのときには三人ともこちらのことなど見てもおらず、何事もなかったかのようにジャングルジムへ駆けていく。
「なんだよ……」
 消化不良のまま、創真は微妙な面持ちで翼に向きなおった。
「なあ、おまえもイヤならちゃんと言い返せよな」
 どんなに嫌なことを言われてもただじっと我慢しているだけなのが、創真にはもどかしい。しかしながら翼はまるで当然だとばかりにさらりと答える。
「ケンカは悪いことだからやっちゃダメなんだ」
「だけど、あいつらがさきに言ってきたんだぞ」
「それでもぼくは西園寺の後継者だから……」
「コウケイシャ?」
 聞き慣れない言葉に創真が首を傾げると、翼はふわっと笑う。
「うん、おとなになったら会社のいちばんえらいひとになるんだって。だからいい子でいないといけないんだ。勉強もいっぱいして、かしこい立派なおとなになれって母上にいつも言われてる」
「ふーん……」
 いじわるされても我慢するのがいい子だなんてなんだか納得できない。えらいひとになるためにいい子でいるというのも窮屈に感じる。それでも翼自身ががんばろうとしているのなら——。
「じゃあ、オレがそばについててやるよ」
「ついて……?」
 きょとんとした翼を見つめて、力強くうなずく。
「うん、さっきみたいにいじめられてたら助けるし、えらい人になれるように手伝う。勉強もいっしょにしよう。おとなになってもずっと翼のそばにいる」
 自分で言いながらとてもいい考えだと思った。
 翼といっしょにいられたらうれしいし、翼の力になれたらもっとうれしい。きっと翼もとなりで笑顔を見せてくれるはずだ。
「約束する、ほら」
 創真のよりもひとまわり小さな手を取り、小指と小指を絡める。
 大事な約束はこうやって指切りするのだと聞いた。ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたーら——軽く手を振りながらそう歌うと、翼はだんだんと顔をほころばせて幸せそうに笑ってくれた。


◆目次:オレの愛しい王子様

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「機械仕掛けのカンパネラ」番外編・いつか来るそのときまでは

 その日、七海は期末テストの初日だった。
 それゆえ普段より下校が早く、昼下がりの強烈な白い日差しを浴びながらの帰宅となった。屋敷に足を踏み入れるなり適度な涼しさにほっと息をつき、軽快に階段を駆け上がって自室へ向かう。
 その途中、廊下の向こうから知らない年配の女性と青年が歩いてくるのが見えた。客だろうかと思うものの橘の使用人はついていないようだし、そもそもここは基本的に身内しか通らないはずだ。
 怪訝に思いながらも軽く会釈をして通り過ぎようとしたところ、その女性に呼び止められた。
「ねえ、あなたもしかして七海さん?」
「え、はい」
「あらやっぱり! よかったわぁ、前々から一度ぜひ会いたいと思っていたのよ。剛三に言ってもそのうちそのうちってごまかされてばかりでね。剛三の里子なら私にとっても家族のようなものなのに。ほんと秘密主義で嫌になるわ」
 通りのいい声で矢継ぎ早にしゃべる女性に圧倒されて、七海は引きぎみになる。
「あの……」
「ああ、そうだわ自己紹介がまだだったわね。私は剛三の姉の四ノ宮一花よ。一応、あなたの伯母ということになるかしら」
 そういえば、剛三に姉がいるような話をチラッと聞いたことがある。他家に嫁いでいて滅多に帰ってこないらしい。事実、七海がここで暮らすようになって四年半になるが、一度も顔を合わせたことがなかった。
 学生鞄を両手で前に持ち直して「はじめまして」とお辞儀をし、階段のほうを示す。
「お話があるのでしたら応接室にご案内しますけど」
「嫌よ、応接室なんて話が筒抜けになるじゃない」
 一花はツンと言い返した。
 応接室だと使用人の誰かが近くに控えているので、何かあれば剛三に報告がいくのは確かだが、聞かれて困るような話でもするつもりだろうか。困惑して押し黙っていると、一花は上から下まで舐めるように七海を見分し始めた。
「気品には欠けるけど、なかなか可愛い顔をしているわね。それに……」
「ひゃっ!」
 制服のシャツの上からいきなりむんずと胸をつかまれて、七海は反射的に変な声を上げた。それでも一花はまったく気にとめることなく、腕、腹、背中、脚などを確認するようにしっかりと触っていく。
「カラダもいいわ。若々しいハリのある豊かな胸、引き締まっていながら女性らしい柔らかさのある肉体、背筋はまっすぐで歪みがなくて姿勢もいい。肌もみずみずしくてなめらかできれいで。さすが遥が寵愛するだけのことはあるわ」
「えっ」
 もしかして遥とつきあってたことがバレてる——?
 七海はひどく動揺して、とっさに否定することもできずに目を泳がせてしまう。
「あら、隠さなくてもいいのよ知ってるんだから。あなたを責めようという気はないから安心してちょうだい。よそでおかしな女に手をつけるより、内々で性欲処理するほうがよっぽど面倒がなくていいわ。なんたって橘の後継者ですからね。そのあたりきちんとわかっているんだから遥は賢いわ」
 一花はどこか得意げに口元を上げて言うと、七海を見つめる。
「あなたはこれからも遠慮なく遥の相手を務めてあげなさいな。ああでも避妊だけは怠ってはダメよ。傷つくのはあなたのほうなんだから。わかっているでしょうけれど、くれぐれも夢は見ないように。遥はしかるべき家のお嬢さんと結婚するんですからね」
 えっ——。
 驚きを顔に出さないようにするのが精一杯だった。そんな話は知らなかったが、冷静に考えれば橘にふさわしい令嬢をというのは当然の話だ。むしろその可能性に思い至らなかった自分が抜けているのだろう。
「そうだ、あなたにも結婚相手を紹介してあげるわ」
 一花は両手を合わせ、いいことを思いついたとばかりに顔を輝かせる。
「それだけの器量があって橘と繋がりがあるとなれば引く手あまたよ。かなり条件のいい相手を紹介できるわ。さすがに遥ほどの男は無理ですけどね。あなたにお似合いの有望株を見繕ってくるから待っててちょうだい」
 まさかそんな展開になるとは思わず、七海は当惑した。
「あの、私、まだ結婚とか考えられなくて……」
 うきうきと楽しそうな本人の手前、紹介なんかしてほしくないとは言えなくて言葉を選ぶ。ただ、言ったことも決して嘘ではない。考えられないし、考えないようにしていた部分もあったのではないかと思う。
 しかし、一花は引き下がるどころかむしろ前のめりになる。
「あなた高校生でしょう? そろそろきちんと将来のことを考えなければダメよ。そんなことを言ってるとあっというまに行き遅れるわ。いまのうちに婚約して卒業後に結婚すればいいじゃない。ね?」
 強引に価値観を押しつけてくるが、彼女なりに七海のためを思ってのことだというのはわかる。悪い人ではないのだろう。けれども七海としてはよけいなお世話というより他にない。
「いえ、大学に進学するつもりなので……さすがに早すぎかなと……」
「そうねぇ、まあ、あなた自身の意思も尊重しないといけないわね。ではハタチになるころに持っていくことにしましょう。そのころには遥も結婚して、あなたもお役御免になってるでしょうからちょうどいいわ」
 七海の微妙な表情には気付いていないのか、一花は満足げに微笑む。
「もし早く結婚したくなったら遠慮なく言ってちょうだい」
「あ、はい……」
「ではごきげんよう」
 優雅に挨拶をして、スーツを身につけた長身の青年を従えて立ち去っていく。彼が誰かは紹介がなかったのでわからないが、そのときの様子から察するに、おそらく彼女に仕える使用人といったところだろう。
 七海はその場で深々と一礼して見送った。

 自室に入ると、学生鞄を机に置いて着替えもせずふらりとベッドに倒れ込んだ。
「性欲処理……」
 思わずそんな言葉がこぼれ落ちる。
 一花の勢いに圧倒されて言いそびれてしまったが、遥とは一年前に別れていた。しかしながら彼のほうはよりを戻したがっていて、好きだ、つきあってほしいと何度となく言われている。
 それは決して性欲処理のためではないだろう。つきあっているときも別れてからも変わらず大切にしてくれるし、彼が七海を好きなことは確かだと思う。そこに関してはいっさい疑っていない。
 ただ、彼はあと数年でしかるべき家の令嬢と結婚する。そのことを隠したまま、時がきたら捨てる前提でつきあうというのはずるい。アンフェアだ。そう考えるとふつふつと怒りが湧き上がってきた。
「……関係ないや。どうせもうつきあわないんだし」
 自らに言い聞かせるようにつぶやく。
 それは以前から決めていたことだった。武蔵と別れて半年、彼への気持ちにはもう区切りがついている。だからといって遥と復縁などと恥知らずなことはできない。誰よりも七海自身が許せないのだ。
 思えば、遥よりもよほどひどいことをしてきた。
 武蔵のことが好きなまま遥とつきあい続けたあげく、武蔵が戻るなり遥を捨て、武蔵とつきあいながらも遥を忘れられないなんて。遥のみならず武蔵にもずいぶん失礼なことをしたし、傷つけてしまった。
 一方で、遥はどれだけ七海を一途に想ってくれたか、どれだけ愛情をこめて慈しんでくれたか、どれだけ幸せな時間を過ごさせてくれたか。結婚について黙っていたことを差し引いても余りあるくらいに。
 そして体を重ねるときはいつも心から求めてくれた。優しくも焦りのにじむ手つき、情をはらんだ瞳、余裕をなくしていく表情、熱い息づかい。思い返すだけで胸がじわりと締めつけられて、体が熱くなる。
 十六歳のあのとき、遥と結婚してしまえばよかったのかな……。
 そんなことを考えてしまったものの、すぐさま正気を取り戻してふるふると首を横に振る。あのプロポーズは遥の暴走だったのだろう。本当に結婚していたら大変な騒動になっていたに違いない。
 溜息をつき、ベッドの上でもぞもぞと丸まっていく。
 どうにもならないことに頭を悩ませても意味がない。いまの自分にできるのはまっすぐ前を向いて進むことだけ。真面目に勉強して、大学に行って、就職して、自分ひとりの力で生きていけるように——。

「七海……七海、いないの?」
 遥の声と、それに続くノックの音にぼんやりと意識が浮上する。
 七海は制服を着たままベッドの上で緩く丸まっていた。窓に目を向けると、日が沈みかかっているのがレースのカーテン越しにわかる。瞬間、ハッと我にかえりあわててベッドから飛び降りて扉を開けた。
「ごめん、遥、すぐに出られなくて」
「もしかして寝てた?」
「あー……うん……きのう遅くまで勉強してたからさ」
 七海は苦笑を浮かべつつ偽りの釈明を口にする。
 ただ、今日の期末テストのために遅くまで勉強したのは事実だった。そのことは遥も知っていたし、実際に睡眠不足の影響も少なからずあったのかもしれない。だからこそ簡単に信じてもらえたのだろう。
「テストも大事だけど無理はしないようにね」
「ちょっと眠かっただけだから平気だよ」
「なら、いまから一緒に夜ごはん食べない?」
「食べる!」
 つい過剰に声がはずんでしまった七海を目にして、遥はくすりと笑う。
「じゃあ、着替えておいでよ。待ってるから」
 その表情から愛おしさがあふれているように感じるのは、自惚れではないだろう。いつものことなのでもう見慣れているはずなのに、一花にあんな話を聞かされたせいかつい見入ってしまった。
「何? どうかした?」
「何でもないよっ」
 明るく答え、不思議そうにしている彼にひらりと手を振って扉を閉めると、音を立てないようそっとそこに手をついてもたれかかる。
 いつまでもこのままではいられないけれど、いつか来るそのときまでは——。
 それがいかに傲慢な願いかはわかっているつもりだ。淡い自嘲を浮かべるが、すぐに慌ただしく私服に着替えて遥のもとへ駆けていく。胸が締めつけられるような苦しさを笑顔の下に押し隠して。


◆目次:機械仕掛けのカンパネラ


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「自殺志願少女と誘拐犯」番外編 Can you celebrate?

 ハルナと再会したその日の夕方——。
 空が薄暗くなりそろそろ夜の帳が降りようかというころ、千尋はナビに彼女の住所を入れてレンタカーを走らせていた。彼女は助手席でおとなしく座っているものの、ひどく不満そうな顔をしている。
「本当にあのひとたちと会うつもりですか?」
「一応、挨拶くらいはしておかないとな」
 それは千尋なりの筋の通し方だった。彼女から聞いたところ話が通じる相手とは思えないが、直接会って報告だけはしておきたい。足元をすくわれないためにも必要なことだと思っている。
 彼女は納得いかないとばかりに口をとがらせたが、それ以上は何も言わなかった。

 そもそもは彼女の荷物を取りに行くのが目的である。
 千尋のマンションは大学からもバイト先からもそう遠くなく、むしろ実家より通いやすいと聞いて、さっそくこちらに越してきてもらうことにしたのだ。彼女は急なことに驚きつつも了承してくれた。
 荷物はひとり暮らしをするためにまとめていたところだという。段ボール箱が四つくらいで家具類はないらしい。これなら業者に頼むまでもないが、自家用車は手放していたのでミニバンをレンタルした。
 夜にしたのは彼女の父親が帰宅する時間に合わせてのことだ。ついでに挨拶をしようと考えて。彼女は書き置きを残してくれば十分だというが、それでは後々面倒になるのが目に見えている。
 自宅に行くまえに管轄の役所に行き、彼女の戸籍謄本を取り、転出の手続きを済ませ、新しい婚姻届をもらっておいた。
 おまもりとして渡していたものはかなりくたびれているし、何より職業が記入したものとは変わってしまったので、新たに書き直すことにしたのだ。以前のものはハルナが大事に持っておくという。
 あとは証人だけである。すでに頼めそうなひとに電話で連絡を取っており、あした会う手筈になっている。断られてもまだ他に心当たりがあるし、彼女のほうでも頼めそうなひとがいると言っていた。
 準備は万端だ。
 もう何があっても引き返すつもりはない。どれだけ反対されても、怒鳴られても、殴られても、妨害されても——千尋は決意を新たにして、ハンドルを握る手にそっとひそかに力をこめた。

「ここか……」
 ナビが示した目的地は、閑静な住宅街にあるシンプルモダンな一軒家だった。表札には「榛名」と出ている。一家四人が住むには十分すぎるくらいの広さがありそうだ。外玄関にも一階にも二階にも明かりがついている。
「すこし先にコインパーキングがあります」
「わかった」
 玄関脇に駐めようかとも考えたが、すぐに終わるとは限らないので路上駐車は避けたほうがいいだろう。教えてもらった数百メートル先のコインパーキングに駐めて、一緒に徒歩で戻った。
 玄関前に着くと、ハルナは緊張ぎみに鍵を開けてそろりと中に入り、千尋も促されるまま足を踏み入れて丁寧に扉を閉めた。それでもガチャリと結構な音がしてしまったが、誰かが出てくる気配はない。
「すこし待っててくださいね」
 彼女は声をひそめてそう言い置き、靴を脱いで一階のリビングと思われる部屋に入っていった。
 まもなく女性のヒステリックな怒号が聞こえてきた。ハルナの声ではないのでおそらく母親だろう。彼女が話していたとおりの人物像だなと考えていると、バンと叩きつけるように扉が開いた。
 出てきたのは、黒縁眼鏡をかけているがっちりとした体格の中年男性だった。こちらは父親に違いない。眉をひそめつつ探るようなまなざしで千尋を見たかと思うと、ハッと息をのむ。
「おまえは……」
「誘拐犯の遠野千尋です」
 千尋は表情を変えることなく冷静にそう応じて、頭を下げる。
 父親はすさまじい形相でこぶしを振り上げかけたものの、奥歯を食いしばってどうにかこらえた。そして気持ちを落ち着けるようにゆっくりと呼吸をして、挑発的に口の端をつり上げる。
「いいだろう、何の話か知らんが上がりたまえ」
 そう告げると、ついてこいとばかりに視線を流しながら身を翻して、リビングへ戻っていく。いつのまにか不安そうに廊下に佇んでいたハルナを、すれ違いざまに冷たく一瞥して。

 二人掛けのソファに千尋とハルナが並んで座り、ローテーブルを挟んだ向かいに彼女の両親が座っている。一応、全員にお茶が出されているが、誰ひとりとして手をつけようとしない。
 母親は汚らわしいものでも見るかのように眉をひそめて、嫌悪感を露わにしていた。常識的にいって娘に向ける顔ではない。一方、父親はゆったりと腕を組んで不躾に千尋を眺めまわした。
「謝罪に来たわけではなさそうだな」
 そう言うと、うっすらと嗜虐的な笑みを浮かべて言葉を継ぐ。
「いまごろになって会社を辞めさせられた恨み言をぶつけに来たのかね。それともいまだに凝りもせず希の味方を気取っておいでか。この子に人生をめちゃくちゃにされたにもかかわらず」
 ハルナはみるみるうちに顔色をなくしていく。
 しかしながら千尋の気持ちはすこしも揺らがない。何も心配する必要はないんだ、大丈夫だ——精一杯の気持ちをこめて小さな背中にそっと手を置き、そしてまっすぐに父親を見据えて言う。
「私と希さんは結婚します。そのことをお伝えするために来ました」
「…………?!」
 向かいの二人はともに大きく目を見開いて動きを止めた。暫しの沈黙のあと、父親が我にかえったように激しい憤怒を露わにして、ローテーブルをバンと叩きつける。
「誘拐犯と結婚など許すと思っているのか!!」
 その瞬間、ハルナがビクリとして体をこわばらせたのが、背中に置いたままの手から伝わってきた。その手に優しくじわりと力をこめながら、千尋はあらためて父親のほうに向き直る。
「成人の婚姻に親の許可は必要ありません」
「制度ではなく常識の問題だ!!」
「娘を殴ったあなたが常識を語りますか」
 返答に窮したのか、父親はグッと歯を食いしばり忌々しげに顔をゆがめる。外面がいいらしいが千尋に取り繕うつもりはないようだ。すでにハルナの絶対的な味方であることを知っているからだろう。
「あんたいいかげんにしぃよ!」
 ふいに、それまで黙っていた母親がヒステリックに責め立てた。千尋ではなくハルナのほうを向いて。視線を落としたまま再びビクリと体を揺らすハルナに、なおも容赦なく畳みかける。
「あんたみたいなろくでもない子を二十年も育ててやったのに結婚やと?! いままでどれだけあんたに金かかったかわかっとるんか! 恩返しもせんと逃げるやなんて絶対に許さへんで!! あんたにはこれから私らの面倒を見てもらうんやからな!!」
 ひどく身勝手な論理である。
 これまでさんざん暴力と暴言で虐待してきた子供に向かって、育てた恩返しをしろなどとよく恥ずかしげもなく言えたものだ。ハルナが書き置きだけで出て行こうとした気持ちもよくわかった。
「……一年につき百万」
 ゆっくりと呼吸をして静かに言葉を落とすと、正面の両親も、隣のハルナも、一様に怪訝な顔をしてこちらに振り向いた。千尋は臆することなく前を向いて話を続ける。
「希さんを育てていただいたことに対して、一年につき百万、二十年分として二千万円お支払いします。これで金輪際、希さんと関わらないでいただきたい」
「金の問題と違うわ!!」
 母親は顔を真っ赤にして憤慨した。
 だが、最初に金の話を持ち出したのは母親のほうである。その矛盾には気付いていないのかもしれない。千尋としてはそれで納得してくれるならと提案しただけで、どちらにしろハルナと関わらせるつもりはない。
「失礼しました。確かに金の問題ではありませんね。金を支払わなくても、希さんは成人として自身の意思で結婚も住所も職業も決められる。きのうまでのようにあなた方のエゴイズムを押しつけることはできない」
「貴様っ!!」
 ガシャガシャン——。
 父親はローテーブル上の湯飲みを蹴散らして千尋の胸ぐらをひっつかみ、こぶしを振り上げた。しかしそこで動きが止まる。理性と激情の狭間で揺れているのが表情から見てとれた。
「殴りますか?」
 そう問いかけると、彼は怒りに顔をゆがめながら乱暴に胸ぐらを突き放し、自身もどさりとソファに腰を落とした。顎を引いたまま憤怒の燃えたぎる目で千尋を睨めつけ、ギリと奥歯をかみしめる。
「行こう」
 それでも千尋は意に介さず、狼狽えていた隣のハルナを促して一緒に立ち上がる。飛び散った緑茶がだいぶズボンにかかっていたが、黒なのでさほど目立たない。ハルナのほうにはかかっていないようでほっとした。
「やっぱり、あのときからそういう関係やったんやな」
 振り向くと、母親がソファに座ったまま顔をしかめていた。
「あんた、体で籠絡してその男を思いどおりにしたんやろう。あんたみたいな不細工でも若いってだけで価値あるもんな。そうでもないとあんたなんかに誰も味方せぇへんわ。この淫売が。ああ、ほんま嫌やわ、いやらしい、汚らわしい。すぐに捨てられて泣きついてきたって知らんからな!」
 ハルナを睨みながら唾棄するように言い捨てる。
 関係を疑われることは覚悟していたものの想像以上だった。まさにハルナを傷つけるための暴言だ。不細工と言っているがまったくそんなことはないし、まして体で籠絡など事実無根もいいところである。
 だからといってすこしも傷つかないわけはないだろう。それでもハルナはすっと背筋を伸ばして母親に向き直り、きっぱりと告げる。
「そうなっても、あなたたちには絶対に泣きつきません」
 その声はこころなしか震えているようだった。
 千尋は優しく包み込むように彼女の手を握り、リビングをあとにする。ヒステリックに悪態をつく声や、テーブルをひっくり返すような音が聞こえたが、もう振り返ることはなかった。

「さて、と……帰るまえに荷物を運び出さないとな」
 千尋は玄関ホールで緩やかに足を止めると、そう切り出した。
 ハルナも忘れていたわけではなかったらしく、冷静に頷いて、気を取り直したように千尋を二階に案内する。そこに彼女の部屋があるという。
「急いで荷造りを済ませますね」
 そう言いながら、階段を上がってすぐの扉を開けた。
 中はすでにがらんとしていた。学習机にはノートパソコンと参考書数冊が置かれているが、本棚は空で、あとは部屋の隅に段ボール箱が四つ積んであるくらいである。上の箱二つはまだ閉じられていない。
「そんなに時間はかからなさそうだな」
「あと十分もあればできると思います」
「じゃあ、オレは車をまわしてくる」
「わかりました」
 ハルナをこの家に残していくのはいささか不安ではあるが、あの両親もさすがにこの状況で実力行使には出ないだろう。千尋はコインパーキングに走ってレンタカーを取ってくると、玄関前につけた。
「荷造りは済んだか?」
 勝手に二階に上がり、半分ほど開いていた扉から部屋を覗いて声をかけると、ハルナは待ち構えていたようにこちらを向いていた。はい、とほっとしたように表情を緩ませて答える。
 荷物は彼女の横にまとめられていた。横長の大きな段ボール箱が二つ、それより小さい段ボール箱が二つ、ハンガーに掛かったコートとスーツが数着、バッグが大小あわせて三つだ。あとは玄関に靴が二足あるという。
 このくらいなら余裕でレンタカーに載せられる。まずは荷物をすべて玄関に下ろしてから車に積み込むことにした。彼女に衣類とバッグを持たせ、千尋は大きな段ボール箱を抱えて部屋を出る。
「希」
 ふいに奥の扉がカチャリと開いて若い男性が姿を現した。千尋よりもやや背が高く、細いなりに鍛えられたような体格をしている。ハルナが困惑ぎみに顔を曇らせても動じる様子はない。
「結婚するの?」
「うん」
「……お幸せに」
「ありがとう」
 二人は淡々と短い言葉を交わした。それが途切れると、ハルナは背を向けて立ち去ろうとするが、そのとき彼がわずかに目を伏せたかと思うと——。
「いままでごめん」
 ぼそりとそれだけ言い置いて部屋に戻った。
 ハルナは驚いたように振り向き、パタンと閉まった扉をしばらく見つめていたが、やがて千尋の脇をすり抜けて先に階段を降りていく。
「いまの弟さん?」
「はい」
「もういいのか?」
「いいんです」
 あとを追うように階段を降りながら尋ねる千尋に、ハルナは振り返らずに答える。その声はどこか寂しげで、儚げで、けれども拒絶めいた色は感じられなかった。

 荷物をレンタカーに積み込むのに時間はかからなかった。
 ハルナは最後に忘れ物がないかを確認してくると、キーホルダーから鍵を外してそっと玄関マットの隣に置いた。そして、すっかり静かになったリビングのほうを無表情で一瞥する。
「行きましょう」
「ああ」
 すぐに身を翻し、千尋に声をかけながら迷いのない足取りで玄関をあとにする。助手席に乗っても、車が走り出しても、これまで暮らしてきた家にもう目を向けようとはしなかった。

「弟とは仲が悪かったのか?」
 住宅街を抜けると、千尋はハンドルを握ったまま何気なくそう尋ねてみた。弟についてはあまり聞いていなかったので気になったのだ。先刻の様子からするとそう仲がいいわけではないだろう。
 ハルナはすこし難しい顔をしながら答える。
「仲が悪いというか……両親があの子のことをすごく可愛がっているんです。あの子を褒めるために私を貶すこともしょっちゅうで。あの子のやったことを私のせいにされて殴られたこともよくありました。だから私としてはあまり関わりたくなかったし、弟としても気まずかったんだと思います」
「ああ、それで謝ってたのか」
「そうですね……自分のせいで私が殴られているのに、ただ見ているだけで何もしなかったことを悔いているのかもしれません。私も小さいころはそんな弟のことを妬んだり恨んだりしましたが、いまでは仕方がなかったと思っています。あの子もある意味で両親の被害者だったといえるでしょうね」
 遠い目をして語ると、小さく息をついて千尋に横目を流した。
「それより二千万、本当に払うつもりだったんですか?」
「ああ、それで両親との縁が切れるなら安いものだろう」
「安い……でしょうか……」
 図りかねたように眉をひそめて悩むハルナを見て、千尋はひっそりと笑う。
 金銭感覚は人それぞれだ。まして社会人と学生なら隔たりがあるのも無理はない。千尋にしても決して二千万円が端金というわけではないが、それで心穏やかに暮らせるのなら安いものだと思う。
「結局、受け取らなかったけどな」
「いまごろきっと後悔してると思いますよ」
「やっぱり払えって言ってきたら払うよ」
 そう軽く応じたが、ハルナはますます顔を曇らせてうつむいていく。千尋に二千万という大金を使わせたくはないが、このままだと両親が何をしでかすかわからない、とでも考えているのだろう。
「心配するな、何があってもオレが対処するから」
「面倒なことになってしまってすみません……」
「家族になるんだから遠慮するなよ」
 そう告げると、彼女はうつむいたまま気恥ずかしげに頷いた。
 そのまま車内に沈黙が落ち、赤信号で止まったときに何気なく隣に目を向けると、彼女はシートにもたれて静かに眠っていた。今日一日、いろいろなことがありすぎて疲れたのだろう。千尋はハンドルに手をかけたまま柔らかく目を細めた。

 翌日——。
 かつて勤務していた会社からほど近い喫茶店に、ハルナを連れて来ていた。
 元上司と元後輩に婚姻届の証人になってもらうためだ。二人とはいまも仕事を通してつきあいがある。電話で頼むと、まずは会って話を聞かせてほしいと言われたが、千尋としても当然そうするつもりだった。
「おう、会うのは久しぶりだな」
「おはようございます」
 隙なくスーツを着こなしている元上司と、人好きのする笑顔を見せている元後輩に、千尋とハルナはそろって立ち上がり一礼する。元上司は軽く片手を上げて応じると、元後輩とともに向かいに腰を下ろした。
「へぇ、この子が遠野さんの婚約者ですか」
 元後輩が無邪気な好奇のまなざしをハルナに向けて言う。彼女は顔をこわばらせたが、千尋はなだめるようにその小さな背中に手を置き、あらためて姿勢を正して向かいの二人に紹介する。
「榛名希さん、大学生で二十歳です」
「二十歳?!」
 そこまで驚かなくてもと思うが、千尋より十六歳も下なのだから仕方がないかもしれない。さすが遠野さんです、うらやましい、などと元後輩は興奮ぎみに目をキラキラと輝かせている。
「年齢はともかく……」
 元上司は騒々しい部下をじとりと横目で睨んでそう言うと、真顔で千尋に向き直り、いかにも意味ありげにハルナを一瞥してから言葉を継ぐ。
「彼女、おまえの過去を知ってるのか?」
 過去というのは、親に捨てられて児童養護施設で育ったことではなく、女子中学生を誘拐した容疑で逮捕されたことだろう。意地悪で言ったわけでないことは表情を見ればわかる。だからこそ決まりが悪くて千尋はうっすらと苦笑した。
「私が七年前に誘拐した少女の名前は、榛名希です」
「えっ……?!」
 元上司も、元後輩も、大きく目を見開いたきり固まった。まるで息をすることさえ忘れたかのように。それは千尋が言ったことを正しく理解している証左だろう。
 先に我にかえったのは元上司のほうだった。
「あ……あ、じゃあ、当時からそういう仲だったということか?」
「いえ、当時は何もなかったです」
 当時どころかいまだに何もないのだが、証拠が提示できないので千尋には否定することしかできない。しかしながら間髪を入れず隣からハルナが援護してくれた。
「誘拐といっても行くあてのなかった私を置いてくれただけです。そのあいだ、十三歳の子供としてひとりの人間として誠実に扱ってくれました。そんな彼だからこそ私は心から信じることができたんです」
「まあ、それならいいんだが……」
 そう言いつつも、元上司はあまり納得していないようで、ハルナを見つめたまま難しい顔をしている。
「君のご両親はこのことを承知しているのか?」
「……親はいないものと思っています」
 正直な答えだが、これだけでは事情を知らないひとに認めてもらえない。千尋はハルナの許可を得てから、彼女と両親の関係、七年前の誘拐の経緯、結婚報告時の反応などを簡潔に説明した。
「なるほどな……おまえが誘拐なんて、よほどの理由があるんだろうとは思っていたが」
 これまでは誰に真相を訊かれても言葉を濁してきた。それを話すにはハルナの事情に触れざるを得ないが、公開捜査で氏名が公表されていたこともあり、控えるべきだと判断したのだ。
 元上司は顔を上げ、真剣なまなざしでハルナを見据える。
「希さん、本当にいま遠野と結婚してしまってもいいのか? 君はまだ若いんだ。これからいくらでもいい出会いがあるだろう。もし恩義を感じての結婚なら考え直したほうがいい」
「そうそう、せっかくこんな可愛いんだから、何もこんなおっさん選ばなくても」
 二人の言うことは至極もっともだ。もっともだけれど。これでハルナが思い直してしまったら、やっぱりやめますなんて言い出したら——その心配をよそに、彼女はうっすらと笑みを浮かべて首を横に振った。
「このあと、どうなったとしても後悔はしません」
 やわらかくも芯のある声できっぱりとそう告げる。
 彼女の覚悟はそう簡単に揺らぐものではなかった。信じきれていなかったことを申し訳なく思いながらも、千尋はほっと安堵の息をつく。ハルナもつられてかすこし気恥ずかしげに微笑んだ。
「わかった、証人になるよ」
 ハルナの答えを聞き、表情を見て、元上司がふっと表情をやわらげて言う。
「おまえもいいな?」
「もちろんです!」
 元後輩も力強く同意してくれた。
 すでに千尋たちの署名捺印がしてある婚姻届を差し出すと、二人はそれぞれ証人欄に署名捺印していく。元後輩は初めて婚姻届の実物を見たとはしゃいでいた。ちなみに結婚の予定どころか彼女もいないらしい。
「じゃあ、仕事もあるしオレらは行くよ。お幸せに」
「ありがとうございました」
 千尋とハルナは立ち上がり、深々と礼をしてスーツ姿の二人を見送った。心からの感謝をこめて——。

 その後ランチを食べてから、地元の市役所に行って婚姻届と転入届を提出してきた。別に断られると思っていたわけではないが、あまりにもあっけなく受理されて拍子抜けしてしまう。それはハルナも同じだったようだ。
「何か、あまり実感がないですね」
「これから徐々に実感するだろう」
「そうですよね」
 ハルナはふわっと笑った。
 千尋もつられるように笑みを浮かべて彼女の手を握る。何も言わずいきなりだったのですこし驚いていたようだが、すぐにそっと握り返してきた。そのまま人通りのない道を歩く。
「希……って呼んでいいか?」
「え、はい……千尋さん?」
 互いに遠慮がちに窺い、目が合うと照れたように笑う。
 もう榛名ではないのにハルナと呼ぶのはどうかと思うし、おにいさんというのもおかしい。これからは名前で呼び合うのがいいだろう。すぐには難しくても、慣れるための時間はたくさんあるのだから。

 夜は繁華街まで出向き、鰻料理店でひつまぶしを食べてきた。
 ただ、毎日外食というのも面倒なので、これからはまた家で料理をしていかなければと思う。食材を買い出しに行くのならやはり車が必要だろう。いっそ利便性のいいところに引っ越すのもいいかもしれない。
 ベッドで上半身を起こしたまま、そんなことをつらつらと考えていたら、パジャマに着替えた彼女がもぞりと隣に入ってきた。何の躊躇もなく。いまだに子供だった七年前の感覚でいるのかもしれないが——。
「一応、今日は初夜なわけだが」
「え……あ、ハイ」
 彼女の声がぎこちなくなり、表情も硬くなった。
 言ったことの意味がわからないほど子供ではないようだ。ただ、急な結婚だったため心の準備ができていないのだろう。もし何の経験もないのであればなおさら無理もない。千尋はふっと笑みを浮かべる。
「別に無理強いするつもりはないから」
「無理じゃありません!」
 彼女はそう食いぎみに言い返したあと、じわじわと顔を赤くした。
 これは、彼女も望んでいると受け取っていいのだろうか。いまここで名実ともに夫婦となることを。本当に無理をしていないのであれば、あるいは無理をしてでも望むのであれば、遠慮する理由はない。
 千尋は唾を飲み、そろりと手を伸ばして紅潮した頬に触れてみる。それでも逃げる素振りはない。潤みがちな瞳に誘われるように顔を近づけていく。鼓動が早くなり、息がふれあい、そして——。
 ほんのわずかに残っていた躊躇いは、その瞬間に霧散した。


◆目次:自殺志願少女と誘拐犯


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「自殺志願少女と誘拐犯」第12話 七回目の桜のころ(最終話)

 死ねないのなら、生きたくなくても生きるしかない——。

 仕事をして、金を稼ぎ、生命を維持するだけの日々。
 ハルナと出会うまえの自分に戻っただけといえば、そうかもしれない。ただ、あのときはそれをよしとしていたが、いまは虚しさが心に巣くっている。しかしどうしても死を選ぶことはできずにいた。

 ハルナがいなくなってから七回目の春が巡ってきた。
 ローカルニュースによればそろそろ桜が満開になるらしい。実際、ベランダに出ると空気がほんのりと春めいているのを感じる。きっとマンションに隣接した公園でも桜が咲いているのだろう。
 ただ、千尋がそれを目にすることはない。いまは仕事の打ち合わせでもないかぎり外出しなくなっている。生活に必要なことはだいたいネットで済ませられるので、数か月ひきこもることもめずらしくなかった。
 今日も朝早くからずっと書斎でノートパソコンに向かっていた。気付けばもう午後二時だ。没頭するあまり食事どころか水分補給すら忘れていたので、すこし休憩しなければと立ち上がる。
 リビングにはうららかな陽気が満ちていた。
 ほっと気持ちが緩むのを感じながら台所に向かい、電気ケトルで湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れ、昼食代わりにバランス栄養食を戸棚から取ると、ダイニングテーブルにつく。
 ひきこもるようになってから、食事はこういうもので済ませることが多くなった。もう料理はしないが、トーストを作るのもレトルトを温めるのも面倒で、そもそも食べることすら億劫だったりする。
 それでも、生きていれば食べざるを得ない。
 袋を開けてバランス栄養食にかじりつき、軽く咀嚼してからコーヒーで流すように飲み込んでいく。食べ終えるのはあっというまだ。中身のなくなった空の袋をくしゃりと捻りつぶす。
 ふぅ——。
 吐息を落としながら頬杖をついた。
 正面には誰もいない。だが、いつもそこに座っていた少女の姿を、いまでも無意識に思い浮かべてしまう。小さな口でもぐもぐと食べて、満足そうな顔を見せてくれることが嬉しかった。
 彼女を忘れたことはない。
 この家には至るところに彼女との思い出があふれている。穏やかな光に満ちた窓際のフローリングにも、寝室のダブルベッドにも、書斎の大きな本棚にも、二人ではすこし窮屈な玄関にも。
 忘れようにも忘れられないが、そもそも忘れたいと思ったことは一度もなかった。いつまでもいなくなったひとに囚われているのは不健全だ。それがわかっていても解放されて自由になることは望まなかった。
 自分にとってハルナとは何なのだろう。
 いくら考えても結論は出ず、いまでもときどき思い出したように頭を悩ませている。
 それまで誰にも何にも執着したことはなかった。恋人でさえ、別れたあとに思い出すことはほとんどなかったし、まして心を煩わされることなど皆無だった。つきあっていたときも淡々としていた気がする。
 ハルナに執着するのは、なりゆきとはいえ人生をかけてまで救おうとしたのに、救えなかったからだろう。虚しさと悔しさと恨めしさが心に巣くったまま、それが未練となっているのだ。
 けれど、それだけではない。
 彼女はここにいたときからすでに特別だった。最初こそなりゆきだったが、いつしか同情心や使命感だけではなくなっていた。彼女の幸せを願いつつも、ずっとこのままでいられたらと思うようになったのだ。
 ただ、その気持ちがどういう類いのものかわからない。いまあらためて会えばはっきりするかもしれないし、しないかもしれない。もう実現しえないことを考えても仕方がないのだが。
 マグカップを手に取り、ぬるくなった残り少ないコーヒーを飲み干す。
 もうすべては終わったことなのに——いくら考えても結論は出ないし、たとえ結論が出たところで何も変わらない。気持ちを切り替えると、空のマグカップを持ったまま立ち上がった。
 そのとき、チャイムが鳴った。
 エントランスからの呼び出しである。マグカップをダイニングテーブルに戻して、背後のインターフォンに向かう。そのモニタに映っていたのは、デニムジャケットを羽織った若そうな女性だった。
 格好からいって宅配便ではないだろうし、マスコミ関係にも見えないし、訪問販売員という雰囲気でもない。しかしながら他に心当たりはない。怪訝に眉をひそめながら応答ボタンを押した。
「はい」
「遠野千尋さんですか?」
「そうですが」
 向こうにはモニタがないので千尋の表情はわからないはずだが、声から訝しむ様子が伝わったのだろう。彼女はわずかに体をこわばらせた。それでもすぐに気を取り直したようにすっと背筋を伸ばすと、明瞭な声で告げる。
「私、ハルナです」
「えっ」
 一瞬、何を言っているのかわからなかった。聞こえてはいたものの、なぜか内容が理解できない。混乱する頭でどうにか咀嚼したその途端、ハッとして食らいつくようにモニタを覗き込む。
 そのとき初めてきちんと顔を見た。モニタが小さいうえ解像度も低いのではっきりとはわからないが、確かにハルナの面影があるような気がする。だが、彼女はもうこの世にいないはずでは——。
「そこで待ってろ!」
 そう叫ぶと、鍵をひっつかんで全速力でリビングを飛び出した。

「ハルナ?!」
 エレベーターを待ちきれずに転げ落ちんばかりの勢いで階段を降りると、エントランスで所在なさげに佇む女性のところへ息を切らしながら駆けつけ、その顔を両手で挟んで観察する。
 確かにハルナだ。
 あのころよりすこし顔立ちが大人びているし、身長も高くなっているが、驚いて目をぱちくりさせる表情は変わらない。ほんのりとあたたかいので幽霊ではないだろう。桜色のロングフレアスカートの中には脚があるはずだ。
「死んだんじゃなかったのか」
「死んでませんけど」
 彼女は不思議そうに答える。
 声はあのころのままだった。インターフォンで気付かなかったことが信じられないくらいに。まさか生きているとは思わなかったので、無意識のうちに選択肢から排除していたのかもしれない。
 ウィーン——。
 ガラスの自動扉が開く音を聞いてハッと我にかえり、彼女の頬から手を離した。入ってきたのはジャージを着た中学生くらいの男子だ。怪訝な顔でチラチラとこちらを窺いながら通り過ぎていく。
「あー……ここではまずいな……」
 昼下がりなのでそれなりに住人の出入りがあるはずだし、管理人室もすぐそこだ。いまは不在のようだが近いうちに戻ってくるだろう。しかし、自分の部屋に上がってもらうにはためらいがあった。
「いい天気だし、隣の公園で話さないか?」
「はい」
 千尋の意図に気付いているのかいないのか、ハルナは訝る様子もなく、ふんわりとやわらかく微笑みながら応じてくれた。

 隣の公園は、小さな交差点を渡ってすぐのところだ。
 さほど広くない敷地内にブランコや滑り台といった遊具がいくつかあり、周囲にはぐるりと桜が植えられている。ニュースで聞いたとおりちょうど満開で、薄紅色の花びらが春風にのってひらひらと舞っていた。
 正面から中に入り、はしゃぐ子供たちを横目で見ながら隅のほうへ足を進める。桜のほのかな甘さや、草花の青くささ、わずかに湿った土など、春を感じさせる雑多な匂いがふわりと漂ってきた。
 しかしながら気を取られているわけにはいかない。とっさにハルナを公園に誘ったものの何も考えていなかった。いまごろになってどうしたらいいのかと思案しながら、緩やかに足を止める。
「おにいさん、会社を辞めさせられたんですよね?」
「えっ」
 振り向くと、彼女はハンドバッグを後ろ手に持って満開の桜を見上げていた。その横顔はこころなしかこわばっている。怪訝に思いながらも、それを表情に出すことなく丁寧かつ慎重に返事を紡いでいく。
「会社は辞めたが、フリーランスとしていまも同じような仕事をしている。この形態のほうが自由でオレには合っていたみたいだから、おまえが気にすることはない……けど、なんで辞めさせられたって知ってるんだ?」
「父親が言っていたので……というか……」
 彼女は言葉に詰まり、困ったように顔を曇らせながら目を伏せる。
「おにいさんが逮捕されたあと、あのひとが被害者の父親として会社にクレームを入れたらしいです。うちの娘を誘拐した犯罪者をどうしてまだ解雇してないんだ、みたいなことを」
 話し終えるなりふわりとスカートを揺らして振り返った。そして覚悟を決めたような真摯なまなざしで千尋を見つめ、口を開く。
「謝ってすむことではないですが、本当に、本当に申し訳ありませんでした」
「え、いや……」
 彼女の父親がそんなことまでしていたなんて、会社からも聞いていなかったので驚いたが、いまとなってはもう済んだことである。それよりも彼女が深々と頭を下げたことにうろたえた。
「頭を上げてくれ。逮捕されたら辞めさせられるのが普通だし、おまえの父親が何もしなくても結果は同じだったと思う。すべてオレが覚悟のうえでやったことで、オレ自身の責任だ」
「いえ、元はといえば私が……」
 彼女はなおも思いつめたように言い募ろうとする。
 それを止めたくて、千尋は彼女のやわらかい頬を両手で挟んだ。そして大きく見開かれた双眸を真剣に覗き込んで言う。
「ハルナ、おまえが生きていてくれた。もうそれだけでいいんだ」
「…………」
 必死の訴えで思いが伝わったのか、あるいは勢いに負けただけなのか、彼女は言葉を飲み込んでこくりと頷いてくれた。千尋がほっとすると、彼女も同じように息をついて淡く微笑を浮かべた。

「あの、私が死んだと思ってたんですよね?」
 頬から手を下ろすと、ハルナが不思議そうに小首を傾げてそう尋ねてきた。
 死んだんじゃなかったのか、と口走ったのを忘れていなかったらしい。気まずさに思わず目をそらすが、こうなったら話さないわけにはいかない。ゆっくりと息をついて答える。
「あの半年後くらいに、おまえが自殺しようとしたあの交差点で、女子中学生が信号無視の車に飛び込んで自殺したって聞いて……おまえに買ってやったペンギンのぬいぐるみも現場に落ちてたし」
「それは……すごい偶然……」
 彼女は驚いたような困惑したような複雑な顔になりながら、ようやくといった感じで言葉を絞り出した。しばらく沈黙したあと申し訳なさそうに言葉を継ぐ。
「あのときは二時間くらい行くあてもなく歩いていたので、自宅からも学校からもかなり離れていて、あの交差点がどこにあるのかも正直わかっていません。半年後の話も知りませんでした」
「そうか……」
 彼女は何も悪くない。
 勝手に誤解したあげく確かめもしなかった千尋が悪い。本気で調べれば、自殺した女子中学生がハルナでないことくらいわかっただろう。しかしながらショックで考える気力すら残っていなかったのだ。
 ただ、こうやって無事に生きているからといって、すなわち幸せに暮らしているとは限らない。あのころより身なりはまともになっているが、さきほど父親の話が出ていたことから考えると——。
「おまえは親元に戻されてたのか?」
「はい」
 彼女はうっすらと苦笑した。
「家に戻ってすぐ、おにいさんにもらったICレコーダーで証拠を押さえようとしたんですけど、あっというまに見つかってその場で壊されてしまいました。すみません、私が不器用なばかりにせっかくのお膳立てを台無しにしてしまって」
「いや……それは、オレのほうが申し訳なかった……」
 思いつきで使い慣れないものを押しつけたのが間違いだった。そうなる危険性くらい認識してしかるべきだったのに。そう後悔していると、彼女はかすかに口元を上げてかぶりを振った。
「でも無駄にはなりませんでしたから。そのとき激昂した父親に殴られながら110番したんです。結局、それは親子喧嘩で片付けられてしまったんですが、あのひとたちは世間体を気にするので、通報を恐れて殴ることをためらうようになりました。おかげでだいぶ楽になってます」
 そこまで言うと、ふっと寂しげに目を細める。
「そのかわり大事なものを目の前で壊して捨てられましたけど。あのペンギンのぬいぐるみ、おにいさんに買ってもらったものだって察していたみたいで。止めようにも私の力ではとても敵わなくて……あの日はショックで泣き明かしました。おにいさんにも申し訳なく思っています」
「そんなものまた買ってやるよ」
 ペンギンのぬいぐるみでも、他のものでも、ハルナが望むなら何だって——。
 その気持ちが伝わったのか彼女は小さく安堵の息をついた。そして傍らで咲き誇っている桜を見上げながら再びゆっくりと歩き出し、あとをついていく千尋に振り返ることなく話を続ける。
「ただ、思うままに手を上げられなくなったせいか、母親の暴言はますますひどくなりました。おにいさんのことまで引き合いに出して、私を傷つけようと躍起になって。でもそれが目的だと認識しているので、いちいち真に受けることはなくなったし、もう傷ついたりしません」
 しなやかながら芯のある声で言い切ると、静かに足を止めた。
「家を出るために、高校生のときからこっそりとバイトをしてお金を貯めました。いまは大学に通いながら進学塾の講師と家庭教師をしています。おかげで残り二年の学費と生活資金くらいは貯められましたし、講師の時給を上げてもらえることも決まったので、もうひとりでもやっていけそうです」
 その直後、ふと桜の花びらが春風に吹かれてあたりに舞い上がった。桜色のロングフレアスカートもふわりと揺れる。彼女はその情景にまぎれるようにすっと振り向いて、やわらかく微笑んだ。
「私、今日でハタチになりました」
 二十歳——。
 だから堂々と千尋を訪ねてきたのだ。壊れそうだった十三歳の子供がこんなにもしっかりした大人になっていた。それだけの長い年月が流れていたことをあらためて思い知らされ、千尋はお祝いの言葉も忘れて立ちつくす。
「あの……これ、まだ有効ですか?」
 そう声をかけられて我にかえる。
 彼女は小さく折りたたんだ紙をこちらに差し出していた。さきほどとは打って変わって緊張した様子で、尋ねる声は硬く、手つきもぎこちない。こころなしか震えているようにも見える。
 千尋は怪訝に思いながらも何も言わずに受け取った。あちこちにしわがついていてかなりくたびれているようだ。破らないよう丁寧に開いていくと——見覚えのあるものが目に入り、ハッと息をのむ。
「よければ、私と家族になってもらえませんか? 形だけで構いませんので……」
 不安そうな、祈るような声。
 彼女から受け取った紙は、漫画のキャラクターがあしらわれた婚姻届だった。生きる希望になればとおまもり代わりに渡したものだ。あのときのまま夫のほうだけ記入捺印されている。
 正直、存在さえ忘れていた。
 それでも彼女に渡したときの気持ちは本物だった。家族になってもいいという人間がすくなくともひとりはいると、希望を持ってほしかった。何なら本当に提出しても構わないとさえ思っていた。けれどもいまは——。
「形だけの家族なんていつか後悔する」
 よれよれの婚姻届に目を落としたまま言う。
 正面の彼女が息を飲む気配を感じた。焦燥感に駆られるもののすぐには言葉が出てこない。次第に鼓動が速くなっていくのを感じながら、下を向いたままひそかに呼吸をして気持ちを整えると、話を継ぐ。
「だから……オレは、おまえと、本当の家族になりたい」
 それは、彼女が求めていることではないかもしれない。
 両親と家族として扱われたくなくて、そこから抜け出すために彼女は別の家族を作ろうとしている。ひとまず形だけでも。つまり、本当に家族になりたい相手を見つけるまでのつなぎなのだろう。
 彼女のためには何も言わずに粛々と聞き入れてやるべきだと思う。そもそもそういう約束だったはずだ。けれど、形だけで構わないと告げられて嫌だと思ってしまった。形だけだなんて——。
 誰にもハルナを渡したくない。
 ここまで強烈な執着心は初めてのことで自分でも戸惑っている。ただ、その気持ちをはっきりと自覚して、それでも物わかりのいい庇護者のままではいられなかった。裏切られたと思われても仕方がない。
 おそるおそる顔を上げると、彼女は大きく目を見開いたまま固まっていた。しかし千尋と視線が合った途端にじわりとその目を潤ませ、ぎこちない笑顔を見せる。
「私も、そうなりたいと思っていました」
 震える声で言い、とうとう感極まったように涙をこぼした。
 それはハルナも同じ気持ちということだろうか。勘違いなどではなく——婚姻届を畳んで半信半疑で手を伸ばそうとすると、それに気付いた彼女のほうから遠慮がちに体を寄せてきた。
 千尋はその背中に手をまわしてそっと力をこめる。おとなしく腕の中におさまった彼女は思ったよりも小さくて、やわらかくて、あたたかかい。その確かな感触は、これがまぎれもない現実なのだと実感させてくれた。
「ずっと、家族として一緒にいてくれるんだな?」
「よろしくお願いします」
 ハルナは感情を抑えようとしても抑えきれないような、はっきりと喜びのにじんだ涙まじりの声でそう答えて、千尋の背中に手をまわす。
 二人のまわりには、数多の薄紅色の花びらがひらひらと幻想的に舞っていた。


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「自殺志願少女と誘拐犯」第11話 ただ生きていてくれるだけで

 静かな書斎に、カタカタとキーボードを叩く音だけが響く。
 千尋はもう何時間もそうやってパソコンに向かっていた。ひとり黙々とコードを書き、走らせ、修正し、組み上げていく。遅れているわけではなく、可能なかぎり前倒しで進めるのが千尋の流儀なのだ。
 ふう——。
 一段落すると、椅子にもたれながら大きく伸びをした。
 そのときあくびが出たことで眠気を自覚して、コーヒーを飲もうと傍らのマグカップを手に取るが、すでに中身はなかった。軽く溜息をつき、空のマグカップを持ったままリビングに向かう。
 暖房のきいた書斎から出ると、目の覚めるような冷たい空気を肌に感じた。今日はいっそう寒さが厳しい気がする。それでもコーヒーを入れるだけなら、わざわざ暖房をつけなくても大丈夫だろう。
 台所でマグカップを洗い、電気ケトルに水道水を入れてスイッチを押す。その場に立ちつくしたまま何気なく視線を上げると、レースのカーテンを引いた窓側がやけに白いことに気がついた。
 シャッ——。
 窓際に向かい、中央からカーテンを開く。
 わずかに結露した窓ガラスの向こうに一面の銀世界が広がっていた。いまも白いものがちらちらと舞い降りている。その景色に、千尋はあらためて季節の移ろいを実感してそっと息をついた。

 逮捕されたあの夏の日から、約半年。
 ハルナに対する未成年者誘拐罪については不起訴となり、自宅に戻っている。彼女の両親が事を大きくすることを望まなかったらしい。おそらく自分たちの虐待が露見することを恐れたからだろう。
 ただ、会社は退職を余儀なくされた。不起訴とはいえ未成年者を誘拐したのは事実であり、社名にも傷をつけたのだから当然だ。懲戒解雇でなく自己都合退職扱いにしてくれたのは、せめてもの温情だと思う。
 それでも犯罪者として名前が報道された以上、再就職は容易でない。貯金を切り崩しながら身の振り方を考えるつもりでいたが、ありがたいことに退職後すぐ元上司から仕事の打診があった。
 そういうわけで、いまはフリーランスのSE・プログラマとしてやっている。
 基本的には在宅だが、開発環境などの関係で短期的に会社に常駐することもある。元同僚たちと机を並べるのはいささか気まずいが、表向きは何も気にしていないかのように平然としていた。
 現在はかつての取引先からもいくつか依頼を受けている。単純に収入でいえば会社員のときより多い。以前から堅実な資産運用を続けていることもあり、金銭面での不安はなかった。
 気がかりなのはハルナだけだ。
 警察に連行されたあの日からハルナとは一度も会っていない。彼女がどうなったのかもわからないままだ。親元に帰されたのどうかだけでも知りたかったが、誘拐犯の自分に教えてもらえるはずはなかった。
 しかし、その気になれば突き止めることは可能だろう。名前や年齢といった重要な手がかりはすでに得ているし、夏の制服から中学校のあたりがつくので、千尋ひとりでも何とかなるはずだ。
 ただ、現状を知ったところで自分に何ができるわけでもない。彼女と接触することすら世間的には許されない。もし悲惨な状況にあっても助けられないのだと思うと、知ることが怖くなった。
 そのくせ、いつかハルナのほうから来てくれるのではないかと、ほのかな期待を抱いている。だからまわりの住民から白い目を向けられながらも、彼女と暮らしたこのマンションに住み続けているのだ。
 もっとも、そのいつかというのは彼女が成人したあとの話である。いくら会いたくても未成年のうちに会いにくるとは思えない。それでは再び千尋が逮捕されかねないとわかっているはずだ。
 しかし七年が過ぎるころには、もしかすると千尋のことなんかもうどうでもよくなっているかもしれない。好きなひとや好きなことができて自分の人生を謳歌しているかもしれない。
 そう思うと寂しいが、それでも別に構わないと思う。ただ生きていてくれるだけで報われる。幸せになっているなら言うことはない。たとえそこに自分が関わっていなかったとしても——。

 カチッと音がして、電気ケトルの湯が沸いたことに気付く。
 千尋はレースのカーテンを閉めると台所へ向かい、インスタントコーヒーをマグカップに入れて沸いたばかりの湯を注ぐ。ふわりと香ばしいにおいが湯気とともに立ち上り、気持ちが緩むのを感じた。
 ダイニングテーブルのいつもの場所に座り、リモコンでテレビをつけると、ローカルニュースが隣の市で起こったコンビニ強盗を伝えていた。それを聞き流しながらゆっくりと熱いコーヒーを飲んでいく。
 そのうちに何となく甘いものが食べたくなり、台所へ向かった。冷蔵庫を開けて薄型のチョコレートをひとつ手に取ると、ふいに背後のテレビから「女子中学生」「自殺」と聞こえて、思わず振り返る。
 昨日、市内の中学校に通う女子生徒が、交差点で乗用車に跳ねられて死亡しました。自ら飛び込んだという目撃情報があり、自殺と見られています——女性アナウンサーがそう読み上げたあと、現場映像に切り替わった。
 瞬間、千尋は息をのむ。
 そこには、ハルナと最初に出会ったあの交差点が映っていた。
 背筋に冷たいものが走り、チョコレートが手から滑り落ちてフローリングに転がる。こんなのは偶然だと自分に言い聞かせながらも、じわじわと嫌な汗がにじむのを止められなかった。

 それから丸一日、書斎にこもってネットニュースを読みあさった。
 いや、読みあさるというよりひたすら探していた感じだ。センセーショナルな事件ではないため世間の関心も低いのだろう。報道の数自体が少なく、その内容もほとんどがごく簡単に事実を伝えているだけだった。
 新たにわかったことは、鞄の中に遺書が残されていたということくらいだ。内容は遺族の希望で公開していないものの、原因はいじめではなく、学校関係者もいじめはなかったと話しているという。
 その話にますます疑惑が深まった。遺書として両親の虐待のことを書いていたのなら辻褄が合う。ハルナではないと信じたい気持ちと、ハルナかもしれないという不安が、心の中でせめぎあっていた。
 ハルナ、おまえはいまどこでどうしてる——?
 うなだれながら机に肘をついて両手で頭を抱える。指先に力がこもり髪がくしゃりと音を立てた。そのときふいにくらりと目眩がするのを感じて、ギュッと目をつむってやりすごす。
 そういえば、この一日ほとんど飲まず食わずで一睡もしていない。空腹はそうでもないが、体中がカラカラに渇いているし頭脳も疲れて鈍くなっている。そろそろ限界のような気がしてきた。
 それでもどうしてもハルナではないという確証を見つけたかった。だが、現実問題としていつまでもこうしているわけにはいかない。仕事も明日には再開しないと間に合わなくなる。
 どうすればいい、どうすれば——。
 ひどく追いつめられて頭をかきむしるように両手に力をこめたそのとき、とある考えがひらめいた。すぐさまノートパソコンに飛びついて新規タブで有名SNSを開き、キーワード検索を始める。
 これまで報道記事ばかり探してきたが、SNSになら目撃者や関係者からの生の情報があるかもしれない。千尋自身は一度もSNSをしたことがなかったため、なかなかそこに思い至らなかった。
 女子中学生 自殺
 女子中学生 車 事故
 中学生 自殺
 中学生 車 事故
 中学生 車 跳ねられ
 思いつくワードで片っ端から検索してみるが、報道記事へ誘導しているものや報道記事を引用しているものが見つかるだけで、有用な情報はなかった。それでもあきらめずに他の検索ワードを考える。
 榛名希
 心臓が破裂しそうなほどの激しい鼓動を感じながら、エンターキーを押す。
 しかし、表示されたのはゲーム・アニメ関係の話題ばかりだった。どうやら似たような名前のキャラクターがいるらしい。思わず舌打ちするが、それだけではないはずだと気を取り直してスクロールしていく。
 半年前までさかのぼると、ハルナの公開捜査に関する投稿がひとつ見つかった。「榛名希って同級生やわ」というコメントをつけたうえで、いまは削除されている公開捜査の記事を共有している。
 この同級生が、もし女子中学生の自殺についても何か投稿していたら。そう考えて、おそるおそるアカウントを表示してみたところ、今度はコメントをつけずに報道記事を共有していた。
 榛名希だとも同級生だとも書いていない。けれど——。
 公表されていないから言及できないだけかもしれない。他の投稿から浮いているこの記事をわざわざ共有したのは、やはり同級生だからではないだろうか。そして同級生ならハルナだと考えるのが自然である。
 さらにこの子と相互フォローしているアカウントをひとつずつ見ていく。やはり結構な割合のアカウントが自殺の報道記事を共有しており、そのうちのひとりが続けて言及する投稿をしていた。
 ——前の日は普通に学校に来てたのに、どうして・・・
 もちろんまだハルナと決まったわけではない。ただ、この子も同級生だとすればその可能性は格段に高くなった。次第に汗がにじんで息苦しくなるのを感じつつ、グッと奥歯をかみしめる。
 さらに相互フォローのアカウントを次々とたどったものの、決定的な情報は見つけられなかった。ひとまず新たな手がかりを探すべくキーワード検索に戻り、必死に想像力を働かせる。
 JC 車 ひかれ
 いささか微妙な気はしたが、いまは思いついたものをすべて試していくしかない。エンターキーを押して検索結果がずらりと表示されると、その一番上の投稿を目にしてハッと息をのんだ。
 ——近所でJCが車にひかれたっぽい
 文言の下には事故現場らしき写真が表示されている。それがハルナと出会ったあの交差点であることは一目でわかった。日付からいっても、報道されていた女子中学生の自殺で間違いないだろう。
 搬送されたあとなのか被害者は写っていない。ただ、アスファルトに残された生々しい血痕とブレーキ痕、あたりに散らばるライトの破片が、ここで事故が起こったという事実を物語っている。
 傍らには傷だらけの学生鞄が落ちていた。ハルナが持っていたものと似ている気がしたが、そもそも学生鞄なんてどれもたいして違いはない。他に手がかりがないかと拡大表示して目をこらすと。
 ドクン、と大きく心臓が跳ねた。
 その学生鞄には小さなペンギンのぬいぐるみがついていた。初めてハルナと出かけたときに買ってやった水族館のおみやげと同じものだ。あのころの彼女はそれをショルダーバッグにつけていた。
 トラックパッドにのせた手が震え出す。
 女子中学生、原因は公表しないが学校でのいじめはなかった、ハルナの同級生が自殺の報道記事をSNSで共有している、現場はハルナがかつて自殺を試みた交差点、学生鞄についているペンギンのぬいぐるみ——。
 ハルナでないという確信がほしくて必死になっていたのに、見つかる情報はことごとくハルナに繋がってしまう。ここまでくるともう認めざるを得ない。やはり、あの自殺した女子中学生はハルナだったのだと。
「うぐっ……うっ……」
 目頭が熱くなり、抑えきれない嗚咽とともに涙があふれていく。
 こんなふうに泣くのは物心がついてから初めてのことだ。止め方などわからない。ノートパソコンが濡れるのも構わずその上に突っ伏して、ただみっともなく泣き続けるしかなかった。


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「自殺志願少女と誘拐犯」第10話 離ればなれになっても

「ハルナ……榛名希さんを、親元に帰さないでください」
 聴取のために連れてこられた薄汚れた取調室で、千尋は最初にそう告げた。
 向かいに座ろうとしていた男性刑事が動きを止めるが、すぐに胡乱な目になり、粗末なパイプ椅子を軋ませながらどっかりと腰を下ろす。
「おまえなぁ、そんなことを言える立場じゃないだろう」
 いかにも面倒くさそうに顔をしかめてそう言うと、ガシガシと頭をかいた。
 当然である。誘拐犯がいきなりこんなことを頼んでも聞き入れられるはずがない。呆れられるのが関の山だ。それでもこの状況で話を聞いてもらうには率直に切り出すよりほかになかった。
「彼女は幼少期からずっと両親に虐待されてきました。身体的にも、心理的にも。それを苦に自殺しようとまでしていました」
 真剣な顔で、必要最小限のことを端的に伝える。
 男性刑事はそれを聞いてわずかに目を見張っていたものの、すぐに微妙な面持ちになった。そのままゆっくりとパイプ椅子にもたれかかって腕を組み、何か探るように千尋を見つめる。
「あの子がそう言うのを、おまえさんは疑いもせずに信じたってわけか」
「……何が言いたいんですか」
 千尋が低く問いかけると、何もないスチール机にすっと視線を落とし、どこかためらいがちに口を開く。
「ご両親によれば、あの子には昔から虚言癖があるそうだ」
「は……?」
 虚言癖なんて大嘘だ。三週間も一緒に暮らしたのだからそのくらいはわかる。むしろこれでハルナの話に信憑性が増した。感情的に叫び出したくなるのを必死に抑えつつ、冷静に言葉を紡ぐ。
「嘘をついているのは両親のほうだと思います。自分たちに都合が悪いことを言われたときのために、予防線を張ってるんでしょう。ハルナと出会ったとき、実際に彼女の腕や背中にはいくつもの内出血がありました」
「…………」
 男性刑事はわずかに眉を寄せる。
「父親は国家公務員でそれなりの地位についているひとだ。俺が実際に会ったのは一度だけだが、理知的で、礼儀正しく、そんなことをするような人物には見えなかった。娘さんのことも心配してたしな」
 世間体を気にする、外面はいい——まさしくハルナが言っていたとおりの人物像だ。これまでもそうやって取り繕ってきたのだろう。家で暴力を振るいながら、それを悟られることのないよう上手く立ちまわって。
「だからといって、父親の言い分だけを一方的に信じるなんてありえない」
「もちろんあの子の言い分も無視するわけじゃないさ。本当に虐待されていたら見過ごすわけにはいかないからな。一応、しかるべきところにおまえさんの話も伝えておく。それでいいな?」
「……お願いします」
 千尋は怒りをおさめて頭を下げる。
 こちらの言い分はあまり信じてもらえなかったようだが、犯罪者の戯れ言と一蹴されなかっただけましだろう。あとは、しかるべきところとやらが対処してくれるのを願うしかない。
「随分な入れ込みようだな」
 淡々とした、それでいてどこか呆れたような声音が耳に届く。
 顔を上げると、パイプ椅子にもたれて腕を組んでいた男性刑事が、じとりと冷ややかなまなざしをこちらに向けていた。
「愛情に飢えた少女を手懐けるのは容易いだろう。自己肯定感の低い子であればなおさらだ。居場所を与えて優しくしてやるだけで信頼してくれる。愛してると囁いてやるだけで言いなりになってくれる。セックスだってし放題ってわけだ」
 グッ、と千尋は奥歯をかみしめる。
 下卑た言いように腹が立ったが、そう思われるであろうことは捕まるまえから覚悟していた。なにせ被害者は中学生の少女だ。身代金目的でなければ猥褻目的と考えるのが自然である。けれど——。
「そんな扱いはしていないし、そんなつもりもない」
 睨むように強気に見つめ返して答える。
 それでも男性刑事は身じろぎひとつしなかった。怜悧な目で、奥底まで探るように千尋の双眸を見つめて問う。
「じゃあ、おまえさんは何が目的で誘拐したっていうんだ。まさか同情しただけなんて言わねぇよなぁ。たとえ本人が望んだとしても、保護者に無断で未成年者を連れ去れば誘拐になる。そのくらいわかってただろう」
「……なりゆきです」
 その声に、顔に、うっすらと自嘲が浮かんだ。
 自己犠牲もいとわず見知らぬ子を救おうとするほど優しくない。それでも本気で死のうとしていることを知ったら放っておけなかった。そのうち見知らぬ子は見知らぬ子ではなくなり、情がわいた。もう自分から手を離すことなどできなくなっていた——どうするのが正解だったかはいまでもまだわからずにいる。
「でも、後悔はしていません」
 静かながらも揺るぎのない声を落として、そっと息を継ぐ。
「ハルナがすこしでも生きることを楽しいと思ってくれたのなら、そのことで生きることへの希望を持ってくれたのなら、これがきっかけで保護されて幸せになってくれるのなら……オレは報われる」
 それは自分自身に言い聞かせる言葉でもあったのかもしれない。
 男性刑事はうさんくさいものを見るような目になった。しかし反論はせず、溜息をつきながらスチール机に肘をついて身を乗り出すと、挑みかけるような鋭いまなざしで千尋を覗き込む。
「まあいいさ、これから聴取で洗いざらい話してもらう。覚悟しろよ」
「はい」
 千尋としても望むところだ。
 この三週間のことを洗いざらい話して信じさせてやる。ハルナが親から虐待を受けていたということも、そのせいで自殺しかけたことも、千尋と性的な関係はなかったということも。離ればなれになった彼女のために、最後に自分がしてやれることはこのくらいなのだから——。


◆目次:自殺志願少女と誘拐犯


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