アンジェリカはにっこりと挨拶をした。戸口で出迎えたジークは、呆然と彼女を見つめた。
「家出でもしてきたのか? その荷物……」
「違うわよ」
アンジェリカは口をとがらせた。
「材料とか、調味料とか、準備するものがたくさんあるの」
「言ってくれれば迎えに行ったのに」
ジークはあきれたように言いながら、彼女がリュックサックを下ろすのを手伝った。そのリュックサックは、彼女が中にすっぽり入るくらいの大きなものだった。しかも、ずっしりと重い。
「こんなものを担いで、よくここまで歩いてきたな」
「日頃から鍛えているもの」
身軽になったアンジェリカは、腰に手をあて、ふうと大きく息をついた。そして、ぐるりと部屋の中を見まわした。
「リックはまだなの?」
彼女はジークに振り返って尋ねた。ジークはぎくりとした。頭に手をやり、片目を細めながら答える。
「ああ、あいつな……。なんか用が出来たみたいで来られねぇって」
「そう」
アンジェリカは沈んだ声を落とした。
ジークの胸にずきりと痛みが走った。リックが来なかったのは、おそらく自分に気を遣ってのことだろう。もちろん、そんなことを頼みはしない。だいたいリックが遠慮したところで、アンジェリカとふたりきりになれるわけではない。そう、ここには他にもうひとりいるのだ。遠慮のかけらもない人間が――。
「いらっしゃい、アンジェリカ!」
不必要に大きな声が耳をつんざいた。そのもうひとり、母親のレイラである。ジークはうんざりしてため息をついた。
「すごーく楽しみにしてたのよ。おいしい手料理、期待してるわ」
レイラは満面の笑顔で声を弾ませた。
「任せてください」
アンジェリカはにっこり笑い、両方のこぶしをぎゅっと握ってみせた。
「それじゃ、全部お任せしちゃうわね。台所はもうホント好きなように使っていいから」
レイラは左手を大きく開き、腕を勢いよく伸ばすと、狭い台所をオーバーに示した。まるで舞台上の司会者のようだった。
アンジェリカはさっそく料理に取りかかった。フリルのついた淡いピンク色のエプロンを身につけると、リュックサックから材料を取り出し、丁寧に並べていく。ジークは背後からその様子をじっと見ていた。
「何を作るんだ?」
「シチューよ」
アンジェリカは流し台に向かったまま答えた。
「シチューか……」
ジークは難しい顔で腕を組んだ。前にセリカが作ったものと同じである。比べたくはないが、無意識に比べてしまいそうで怖い。それでも、自分は心の中に留めるつもりだ。しかし、母親は危険である。なにせ、考えなしに思ったことをすぐ口に出すのだ。そのせいで幾度、肝を冷やしたか知れない。
「何か問題?」
アンジェリカは包丁を手に振り返り、眉をひそめた。
ジークは鈍く光る刃を見て、顔から血の気が引いた。慌ててぶるぶると首を横に振った。
…続きは「遠くの光に踵を上げて」でご覧ください。
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