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瑞原唯子のひとりごと

「ピンクローズ - Pink Rose -」第29話・幸せになるために

 サイファはレイチェルの部屋の前に立ち、軽快に扉を叩いた。
 しかし返事はない。
 耳を澄ましてみるが、静まりかえったまま、物音一つしなければ、気配すらも感じられない。窓の外から届く小鳥のさえずりだけが、やけに大きく聞こえる。
「レイチェル?」
 僅かに語尾を上げて呼びかけると、静かに扉を開いて中を覗き込む。
 ガランとした広い部屋。
 その奥の机で、レースのカーテン越しに降りそそぐ柔らかな光を受けながら、彼女はうつぶせになっていた。背中が小さく上下している。顔は見えないが、おそらく眠っているのだろう。
 サイファは音を立てないように足を進めた。
 教本やノートを広げたその上で、彼女は子供のようなあどけない顔で眠っていた。細い金の髪は透きとおるようなきらめきを放っている。それを目にするだけで、サイファの口もとは自然と緩んだ。彼女の柔らかい頬にそっと指先を滑らせると、耳元に口を寄せて、慈しむような音色で名前を呼ぶ。
「レイチェル」
「ん……」
 レイチェルは眠たそうな声を漏らすと、睫毛を震わせてうっすらと目を開いた。気だるそうに体を起こしながら辺りを窺おうとする。その後ろから、サイファは椅子の背もたれ越しに彼女を抱きすくめた。ふわりと広がった甘い匂いが鼻をくすぐる。
「サイファ……」
 レイチェルは子猫のように目をこすりながら呟いた。そんな仕草も、サイファにはたまらなく愛おしく感じられ、思わずくすっと笑みをこぼした。
「身体には気をつけてね。眠かったらベッドで寝た方がいいよ」
「ありがとう」
 彼女は小さな花がほころんだように愛らしく笑った。だいぶ意識が明瞭になってきたようで、今日が平日であることに気づいたのか、サイファに不思議そうな目を向けて質問する。
「お仕事は?」
「今日はお休み」
 サイファはにっこりと答えた。今は仕事もさして忙しくはなく、また、事情を理解してくれていることもあり、希望をすれば簡単に休暇がとれるのだ。
「レイチェルは勉強していたの?」
「他に、することがないから」
 彼女は少しためらいがちに、しかし笑顔を浮かべてそう言った。
 万が一のことを考えて、彼女にはなるべく家の外に出ないようにと言いつけてあった。敷地外だけではなく、文字通りの家の外、つまり庭にも出ないようにという意味だ。いささか過剰な対応ではあるが、アルフォンスもそれには積極的に同意した。ことレイチェルに関しては、サイファ以上に過保護なのである。
 きっかけは、先日、隠れ家で聞いたティムの話だった。
 彼からはその翌日に平謝りされた。話した内容は事実だが、ずっと誰にも言わず自分の心だけに留めておくつもりだったらしい。まして何らかの行動を起こすつもりなど微塵もない、ということだ。それは嘘ではないだろう。彼のことを疑っているわけではない。1年という期間、一緒に仕事をしてきて、彼がどういう人間であるかはだいたいわかっているつもりである。
 だが、彼以外の誰かがやるかもしれない。
 ラグランジェ家に正面きって喧嘩を売ればどうなるか――王宮に勤めるものであれば、誰しもわかっているはずである。しかし、可能性はほぼゼロに近いだろうが、破滅覚悟ということもありうるのだ。用心するに越したことはない。
 だが、彼女を閉じこめておきたい理由がそれだけではないことも、むしろそれ以上に怖れる理由があることも、サイファは自覚していた。
「ごめんね、しばらくは我慢して」
 少し申し訳なさそうに言いながら、サイファは彼女の側頭部に頬を寄せ、机の上に開いたままになっていた教本とノートに目を落とす。
 そこにはラウルの文字が走っていた。
 家庭教師が教え子の教本やノートに文字を書き入れることは、決して不自然な行為ではない。現にサイファのものにもラウルの書いた文字がたくさん残っている。
 ただ、彼女がそれを開いていたのは――。
 サイファは小さな体を抱きしめる腕に、少し力を込めた。
「ラウルに、会いたい?」
 レイチェルはビクリと体を硬直させた。何も答えないまま、口をきゅっと結ぶ。息さえも止めているようだ。細い指先だけが、膝の上で微かに動いた。
「正直に答えていいんだよ」
 出来るだけ柔らかく、サイファはそう促した。
 レイチェルは僅かにうつむくと、長い沈黙のあと、小さくも明確にこくりと頷いた。間髪入れず、いささか慌てたように言葉を繋ぐ。
「でも、会わない……から……」
「……ごめん」
 サイファは低い声を落とした。彼女の華奢な肩に顔を埋めると、抱きしめる腕にさらに力を込める。縋りつくように、逃さないように、縛り付けるように――。
 その枷に、レイチェルは小さな手を重ねた。
「私、お母さまにお茶を淹れてもらってくるわ」
「……いや、今日は長くいられないんだ」
 ほのかな温もりに心が融けていく。本当はずっといつまでもここにいたいが、そういうわけにはいかない。サイファは体を起こしてやんわりと断ると、不思議そうに小首を傾げるレイチェルに微笑み、その頭にぽんと手をのせた。
「祖父にお願いしないといけないことがあってね」
「ルーファス前当主に……? 何を……?」
「僕たちが幸せになるために必要なこと」
 サイファは努めて明るく言った。しかし効果はなかったようだ。彼女は何か言いたげに小さな口を開くものの、一言も発することなく目を伏せて深くうなだれる。その表情は明らかに自分自身を責めているものだった。
「心配しなくても大丈夫だから」
 サイファは優しく元気づけながら、隣に膝をついて覗き込む。
 蒼の瞳は不安定に揺れていた。
 それでも、彼女は幼い表情をきゅっと引き締め、真摯な眼差しを返して尋ねる。
「私は、何をすればいいの?」
「……嘘を、つき続けて」
 少し考えた後、サイファは答えた。
 それを15歳の少女に強要するのは酷かもしれない。しかし、他のことはサイファが可能な限り手を打つとしても、それだけは彼女自身がやるしかないのだ。失敗は決して許されない。彼女もそのことはすでに理解しているのだろう。決意を秘めた面持ちで、その重みを受け止めるようにゆっくりと頷いた。

 飾り気のない地味な黒ワンピースに、控えめなフリルの白エプロンという、典型的な身なりのメイドに案内され、サイファはやや古めかしい応接間の扉の前に立った。いつもより力を込めて、その扉をゆっくりと二度叩く。
「入れ」
 扉越しにも威圧感のある声が、端的に命令を下す。
 サイファは扉を開き、一歩、足を踏み入れた。そこで深々と一礼して背筋を伸ばす。
「ルーファス前当主」
「堅苦しい挨拶はなしにしよう」
 言葉を継ごうとしたサイファを遮り、ルーファスは自分の座るソファの向かいを勧めた。サイファは再び一礼して、示された革張りのソファに腰を下ろすと、眼前の男をじっと注視する。彼は鷹揚に背もたれに身を預けていたが、その姿には貫禄と風格があり、また、体勢にもまったく隙は感じられなかった。
 油断ならない――。
 とうの昔からわかっていたことだが、彼と対峙するといつも、そのことをあらためて実感させられるのだ。
「おまえが私のところへやってくるのは、何か頼みごとがあるときくらいだな」
 ルーファスはどこか楽しげな声音を響かせると、口角を上げ、すべてを見極めるような抜かりのない視線をサイファに向けた。
 体中が竦むような感覚。
 サイファは唇を引き結んだ。それでも退くわけにはいかない。毅然とした表情の下に戦慄を押し隠し、単刀直入に切り出す。
「私を近くラグランジェ本家の当主にしてください」
 ルーファスの目が少し大きくなった。それは、単なる驚きというより、感嘆といった方が近いかもしれない。鼻から小さく息を漏らすと、抑揚のない低い声で尋ねる。
「なぜそれほどまでに急ぐのだ」
「父は……リカルド=キースは、当主の器ではありません」
 サイファは臆面もなく答えた。
「私を見くびっているのか」
 鋭い眼光がサイファを貫く。それが本当の理由ではないことを、ルーファスはすぐに見透かしたのだろう。だが、それも想定済みである。サイファは狼狽することなく落ち着きはらって続ける。
「事実には違いないでしょう」
 ルーファスは険しい表情を崩さなかった。眉を寄せたまま睨み続けている。そして暫しの沈黙の後、ゆっくりと口を開いて言う。
「おまえの思考はいつも理路整然としている。それゆえに読みやすい。だが、このところはどういうわけか必然性のない暴走が続いている。とち狂ったのかとも思ったが、実際に会ってみると以前とまるで変わっておらん。むしろ以前より聡明さを増しているようにも見える。そんなおまえが、くだらん失敗をしたり、考え無しの行動をとることはないだろう。そうなると考えられることは一つだ」
 そこで言葉を切ると、サイファの瞳を奥底まで探るように見つめる。
「私の理解を超えるところで、おまえは何らかの計略を巡らせている……違うか?」
 静かだが威圧感のある声で尋ねられ、それでもサイファは少しも怯むことなく、ふっと薄く笑みを浮かべた。
「たとえそうだとしても、訊かれて素直に答えると思いますか」
「答えなければ当主の座を認めない、と言ったらどうする」
 ルーファスは悠然と肘掛けに頬杖をつきながら問いかける。
「あなたはそれほど小さな人間ではないでしょう」
「長く権力を手にするものは、皆、慎重なものだ。私とて例外ではない」
「だとしたら、答えたとしても認められることはなさそうですね」
 サイファは爽やかに笑って言った。
 しかし、ルーファスの表情はピクリとも動かなかった。ただ、全てを見透かすような青い瞳でじっとサイファを見据えている。そこには攻撃的な強い光が宿っていた。
「下手なハッタリだな」
「さあ、どうでしょう」
 互いに正面から視線をぶつけ合い、絡め合い、探り合う。
 息の詰まるような、長い、長い沈黙。
 その重苦しい空気に押しつぶされないよう、サイファは気を張って耐える。先に目を逸らせたら、口を開いたら負けだと思った。だが、それは浅はかな考えであることを知る。
「いいだろう」
 ルーファスが静寂を破った。
「今すぐというわけにはいかんが、結婚式と同時に就任ということで手を打とう」
「ありがとうございます」
 サイファはその場で頭を下げる。しかし、これが礼を述べる類のものでないことは理解していた。ルーファスは負けたわけでも譲歩したわけでもない。挑戦状を叩きつけたのだ。ここからが戦いの始まりなのだろう。彼の獰猛さを増した瞳がそれを物語っていた。
「ただし、リカルドはおまえが説得しろ」
「たやすいことです」
 サイファは無感情に答えると、立ち上がって一礼し、静かに応接間を後にした。

…続きは「ピンクローズ - Pink Rose -」でご覧ください。

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