アコギおやじのあこぎな日々

初老の域に達したアコギおやじ。
日々のアコースティックな雑観

「参観日」と「トルストイ」

2007-06-06 | Weblog
 幼稚園の参観日に行ってきた。

 屋内での積み木遊び、体育館での運動がメニューだった。子どもが幼稚園生活に馴染んできたことに安堵し、また、家庭でのしつけがまだまだ行き届いていない点を認識・確認できて有意義だった。


 最も痛感したのは、スキンシップの大切さだった。

 息子が一番に喜んだのは私とのペアでの体操だった。肩車で踊ったり、私が息子をぶら下げて廻旋したり。いままで一番好きなはずと思っていた汽車のおもちゃや新幹線のプラレールで遊んでいるときと比較して、目の輝きが違った。夜行動物の目のように、いや、自らが発光しているかのように恐ろしいほどに輝いていた。興奮の度合いがまるで違った。帰宅後も私の体に引っ付いてきて、廻旋させたり、回転させたり、すべてが大喜びだった。そうか、息子はこんなに触れ合いを欲していたのか。





 私も妻も働き通しだ。息子には申し訳ないと思っている。

 思い出したのだが、引越ししてきてから新たな生活と新たな仕事に追われ、息子との早朝プロレスもとんとご無沙汰になっていた。



 人生において何が大切なのか、を考えることが少なくなってきてしまっていると気付かされた。
 私は、父親との接触があまりなかった。父親は多忙だった。一方で、父親や親類の社会的地位のおかげで子どもの頃から随分とえこひいきしてきてもらった。社会的地位は確かに便利である。が、自分を見ていて、親の社会的地位から派生するえこひいきや富裕は、実は男の子の成長の妨げになるものではないかと感じている。「男の子」はやがて「少年」に変態する。そうして、いつかは「少年」から「男」に脱皮しなくてはいけないときを迎える。いくつかの壁を越えていかなくてはいけないそのとき、親から派生した優位性は、成長へのマイナスに作用する場合が多いと思う。ブッシュや晋ちゃんを見れば、明瞭だ。

 もっとも私は、そんな地位も名声もないのでいらぬ杞憂なのだが、ただ、私も妻も朝から晩まで仕事ずくめになっている現状を鑑みると、経済的な余裕をもてる一方で「本来の大切なことを本当に大切にして生きているのか」と痛感せざるを得ない。本当に息子を大切にしているのか、妻を大切にしているのか、自分を大切にしているのか、人生を大切にして過ごしているのか。自信をもって「イエス」と言い切れない。

 息子と組み合っていて、親になる前には感じ得なかった幸福を覚える。「こういうのが親を頑張らせているモチベーションなんだろうなあ」と思う。この愛おしさは、えさを運ぶ親鳥と一緒で、多分、制御不能な本能的なものなのだろう。息子との接触は、実は、息子にとってばかりでなく、私にとっても非常に大切なのだ。

 息子が大喜びで私にしつこく引っ付いてくるのももう何年もないだろう。「こんな時間を大切にしなくては」と思う。

 「何が大切なのだ」。文豪の中の文豪、トルストイの人々への問いかけは、つまるところそれに尽きる。

 情報過多による価値観の不安定化が著しい今こそ、私は、多くの人たちが「イワンの馬鹿」を読み返さなくてはいけないのではないかと思う。世界的な名声を得ていたトルストイが、名もなき若き弁護士ガンジーに尊敬の念をこめて激励の手紙をしたためたときのように、真摯な気持ちで「何が大切なのか」を考えるべきではないだろうか。

 話が少しでかくなりすぎた。

 しかし、大切な話である。

 息子よ、トルストイは必ず読みなさい。
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