アコギおやじのあこぎな日々

初老の域に達したアコギおやじ。
日々のアコースティックな雑観

老いる者、育つ者

2011-10-16 | Weblog


 いわき市に住む母親が病院に運ばれ、福島市の職場から急いで駆けつけたのが金曜日。


 成功確率の比較的高いカテーテル施術で、長くかかっても3時間、という説明で午前9時から施術が始まった。が、まったくの見込み違い。


 正午過ぎに執刀医が家族を呼んだ。施術が終わったのかと思っていたが、医師は「きわめて難渋している状況。治療成功の可能性は5パーセント。最善を尽くしますが、心の準備を」と説明。


 息を乱し、顔をやや紅潮させて話しつつ、治療説明書に「死亡」という文字を書き、赤のボールペンで四角に囲んだ。


           ◇


 「いきなり、それはないだろう」。叫びを胸に押し込み、ともかく治療に最善を尽くしていただくよう懇願した。


 家族控え室に戻ってからは、ただ祈るだけ。5時間後、控え室の内線電話が鳴り、CTUへ。


 無事、乗り切った。患部の根治はできなかったが、ともかく「きわめて難渋している状況」を乗り越えてくれた。


           ◇


 母は姉と2人暮らし。術後、姉と、姉の二女(私にとっては姪っ子)、私の3人が母に面会した。


 今年、東京の大学に入学したばかりの18歳。しかし、体の自由の利かない母(姪っ子にとっては祖母)の要望を先回りして助けてあげた。


 午後7時ごろには姉の長女も東京から来てくれた。大学3年生の20歳。


 土曜日に母と面会でき、やはり祖母を助けてくれた。


 二女のほうは土曜日の授業に出席するために金曜日のうちに東京に戻っていった。


 長女の方は、日曜日も母と面会した後、月曜日からの授業のために東京に戻った。


           ◇


 幼い頃から高校卒業まで、母と同居していた姪っ子2人。私も幼い頃は一緒に過ごしていた時期がある。


 大学生になった今でも幼少期の印象を引きずったまま接していたが、随分と頼れる存在に成長していた。


           ◇


 母は80歳。客観的に考えれば、20歳と18歳の姪っ子が年老いた祖母を支えるのは、ごく自然のことかもしれない。が、年長者が年少者を幼く見てしまいがち。やはり「立派に成長してくれたなぁ」というのが実感。


 私は先月で50歳になった。


 比較的、若づくりの方ではないかと思うのだが、それでも「体を思うように動かない」「疲れが抜けない」、そんな先輩の言葉が切実に分かるようになってしまった。


 母も、自分も、自然のままに老いた。子どもたちも成長した。


 当たり前のことだが、親の病をきっかけに、それを実感した。


 ただ、子どもたちの成長は「自然のまま」ばかりではないかもしれない。祖母や親のしつけ、他の人間関係などから学んだ、人為的なものによるところも大きいと思う。姪っ子2人は、若いながらも自制する心を育んでいると感じた。


 日曜日の午後、私と妻、息子の3人で母を見舞った。


 息子は7歳。概ね静かにて、母に親切に接していたが、もちろん、まだまだ「頼りになる存在」ではない。


 今後の私のしつけが、7歳の少年の成長の大きな要因となる。


 母の病が、いろいろと考える機会を与えてくれた。


 ともかく、いまは母の回復と、病の再発がないことを祈るばかり。


 介護のよりよき方策も、悔いのないように考え抜きたい。
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