3次元紀行

手ぶらで地球にやって来ました。生きていくのはたいへん。そんな日々を標本にしてみました。

父の旋律 3

2012-03-10 09:12:33 | 小説

 翌日、美音はヴァイオリンを抱えて大学に行った。

 割り当てられているロッカーは、オーバーコートも入るサイズなので、難なくヴァイオリンをしまうことができた。

 選択している授業が終わると、すぐさまヴァイオリンを取り出しに行った。
 大学構内は、人目さえ気にしなければ、屋外にいくらでもヴァイオリンぐらい弾ける場所がある。なるべく人が通らないような場所を見つけて、あらかじめ用意してきたシートを広げた。

 そこに荷物を置いて、自分も座り込んだ。

 次に、携帯を取り出し、昨夜検索しておいた、ヴァイオリンの弾き方講座を画面に呼び出した。

 そして、やおらヴァイオリンを取り出すと携帯と首っ引きで操作を試みた。
「どれどれ、正しいヴァイオリンの構え方は……鎖骨の上にのせて、顎を乗せる。え? 肩当て? そんなのあるかな?」

 父のヴァイオリンケースの中身を改めた。そんなものはなかった。小さな丸い座布団のようなものがすでにヴァイオリンにくっついている。
「クッションを愛用する人もいるって、これのことかな?」
 すこし分かりにくかったが、一応クリアー。

「太いほうからG線、D線、A線、E線。
音は順に ソ、レ、ラ、ミですって? どうやって音をとればいいの? ピアノなんてないし……え? 調子笛というものがあるって? それを早く言いなさい」
 再び、ヴァイオリンケースの中に調子笛がないか探してみた。

 あった。

 その調子笛を吹いてみる。
 一番低いのがソ、隣がレ。調子笛をひっくり返して反対側にあるのがラとミらしい。これで音はわかった。

「弦がまいてあるのがペグ。これをまわして音を合わせる……」
 一番太い線は一応、調弦ができた。

 が、それからが問題だった。ペグが定まらず、なかなか音が合わない上に、かえって弦が緩んできてしまった。そうなると一番細いE線など、切れてしまいそうで、怖くてペグを回すことができない。

 音程はめちゃくちゃ。
 お手上げである。
「もはや、これまでか……」

 美音は疲れ果ててヴァイオリンをケースに投げ出した。教本で自習には限界がある。やはり習いに行かなければムリなのだろうか?

 昨日、母が、いともたやすくヴァイオリンを扱っていたのを思い出した。
母は、「扱い方を知っているだけよ」 と、そう言っていたが、扱い方を知っているだけでもたいしたもんだと美音は思った。

 ちょっとかっこよくも見えた。

 あの通り、真似してみようと思った。 

 母は、さりげなく、ヴァイオリンを顎の下に挟むと、ヴァイオリンを支えていた手を放して弓を取り上げ、弓のねじを締めた。

 美音もヴァイオリンを顎の下に挟んでみた。それから弓を取ろうと、手をヴァイオリンから放そうとした。が、手を放そうとすると、ヴァイオリンが落ちそうだった。

 が、母は、いともたやすく両手を離し、弓のねじを締めたのだ。
 そんなことって、やったことがなければ、できるものではないのではないか?

(まあ、お父さんと暮らしていたのだから、手ほどきを受けていたとしても不思議はないか)

 美音は、ヴァイオリンを構えている母と、頭を寄せるようにして教えている父の、若き日の姿を思い描いた。

(私も習いたかったな、お父さんに)

 しかし、今さらそんなことを思ってみてもどうにでもなるものではない。

(誰かに教えてもらえないかな。例えば、管弦楽部のコかなんかに。しかし、知り合い、いないしなあ。でも、部活やっているところに行って、誰かに聞いたら、弦の調節ぐらいやってもらえるんじゃないかな)

 そう思い立ち、美音は荷物を取りまとめると、まず学生課にいって、管弦楽部がどこで練習をしているのか尋ねた。
「いつもホールで練習していますよ」という答えだったので、ホールに行って見ると、そこは管弦楽部のうちの管楽器だけだった。
「今パート練習している時期だから、みんな散らばっているのよ。弦に御用なら3号館の地下に行ってみたら」

 3号館の地下に行ってみると、確かに弦楽器が練習をしていたが、弦は弦でも、コントラバスのグループだった。

「ヴァイオリンは少人数に別れて、あっちこっちに散らばって練習しているよ。教室をまわって探してみて。なんなら音楽準備室に行ってみたら? 誰かいるかもしれない」
「音楽準備室って、どこですか?」
「5階」

 3号館は古く、5階までしかないのでエレベーターなどない。美音はヴァイオリンを抱えて、えっちらおっちら5階まで階段を登った。登りながら(なんで、私、こんなにムキになっているのだろう)と、思った。

(ヴァイオリンが私にとって、唯一の楽器だから?)

 子供の頃、ピアノが習いたかった。母の実家には、おじさん夫婦が住んでいて、イトコたちはピアノを習っていた。

 うらやましかった。

 母に一度ねだったことがあったが、
「うちはそんな余裕はないのよ。母子家庭だから。我慢して頂戴」と言われた。

 しかし、そんな母のやりくりによって、母子家庭でありながら、美音はこうして大学までいけたのだから、ありがたいと思うべきであった。

 が、思いがけず、天から降って湧いたようにヴァイオリンが手に入った。なんとしても、この楽器を自分の手で奏でてみたかった。

 音楽準備室はすぐわかった。

 隣に音楽室があった。

 音楽準備室のドアをノックしてみた。

 返事がない。

 誰もいないのかな? と思い、そっと開けてみた。

 部屋のむこうの窓から入り込んでくる光が、美音の目に飛び込んできた。
 一瞬、目が眩んだが、目が落ち着くと、誰もいないと思えたその部屋に、一人の人物がいることに気付いた。