goo blog サービス終了のお知らせ 

カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

8-12-3 教育と大義

2024-02-10 18:28:34 | 世界史


『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
12 恩恵と威圧の世
3 教育と大義

一、孝弟を敦(あつ)くし、  人の倫(みち)を重(おも)んじよ。
一、宗族を篤(あつ)くし、  雍睦(むつま)じくせよ。
一、郷里の党(なかま)と和し、争訟(あらそい)を息(や)めよ。
一、農桑を重んじ、 衣食を充足せよ。
一、節倹を尚(とうと)び、   財用を惜(お)しめ。
一、学校を隆(さかん)にし、  士習を端(ただ)せ。
一、異端を黜(しりぞ)け、   正学を崇(とうと)べ。
一、法律を講じ、   愚頑を儆(いまし)めよ。
一、礼譲を明(あきら)かにし、 風俗を厚くせよ。
一、本業に務め、   民志を定めよ。
一、子弟に訓(おし)え、   非為を禁ぜよ。
一、誣告(いつわちつげる)を息(や)め、  良善を全(まっと)うせよ。
一、窩逃(にげかくれ)を誡(いまし)め、  株連(かかわりあい)を免(まぬが)れよ。
一、銭糧を完納し、  催科(とくそく)を省(はぶ)け。
一、保甲に聯(つらな)り、   盗賊を弭(や)めよ。
一、讐念を解(と)き、   身命を重んじよ。

 明の洪武帝の「六諭(りくゆ)」を思わせるこの十六条は、民衆の教化に熱をいれた康煕帝の教えである。
 「六諭」とおなじく儒学、とくに朱子学による道徳教育にほかならなかった。
 ふしぎなもので、明代では「六諭」の教えは、むしろ明末の社会不安が増大したころに、地方で自発的にとなえられ、郷党の結束をかためたという。
 清朝でもこの明末の風をうけつぎ、順治帝の代には「六諭」をとなえさせていた。
 明朝のあとをつぐ意味であろう。さすがに康煕帝は、そのままを真似ることはしなかった。
 あらたに「聖諭広訓」をつくり、数をまして十六条を郷村でとなえさせるようにした。
 清代では、それが郷約の自発的立場からではなく、中央からの強制として推進され、違反する者は厳罰という威をともなっていた。
 民衆の教化もまた、恐怖の教育という一面をそなえていたのである。
 独裁の皇帝をめざした雍正帝は、文字の獄ともあいまって、清朝の正統性を強調するために、呂留良の獄の一契機をなした曾静(そせい)なる人物との問答を書に編し、『大義覚迷録』と題して、これを公刊した。
 大義をもって曾静を迷いから覚めさせた記録、を意味するものである。
 康煕帝の十六条が、民衆の教化を意図するものであるのに対して、雍正帝の『大義覚迷録』は文官や読書人の教化を、めざしたものであるといえよう。
 両者ともに、そのもとづくところのものは儒学、ことに朱子学に発していることにおいて、かわりはない。
 ただ康煕帝の十六条は、あくまでも家族道徳の域にとどまるものであり、郷村の内部にとどまるものであった。
 これに対して雍正帝の大義は、君臣の道であり、王朝国家の大道であった。
 したがって、そこに強調されるものは、偏狭な中華主義の克服であり、夷狄(いてき)をふくめた天下の大義を主張するものであった。
 まさにそれは、次代に実現した五族の中国に適応される大義である。
 雍正帝は、むかしの聖王が、夷狄の出とされながら聖天子として後世の範とされるごとく、天子に夷狄の区別なしと強調するのであった。
 漢民族を中心とする思想では、夷狄との間に君臣の関係なしとし、夷狄の君主をいただかずとする。
 そうした一部の知識人に対して、雍正帝はきびしく挑戦したのであった。
 民衆は、家族や郷党のわくにとどめ、読書人は偏狭な漢人中華のわくを脱せよと強調する清朝の政策は、まさに苦肉の策といわざるをえまい。
 しかも一方においては夷狄の出身であることに神経質となって、文字の獄をくりひろげる。
 これでは、かえってみずから中華と夷狄の観念にとらわれ、読書人の関心をよびおこすようなものといえよう。
 清朝は中央の行政機関において、満漢併用の策をとった。
 また学者を動員して、明朝にまさる大編纂(へんさん)事業をおこない、『康煕字典』『古今図書集成』『四庫全書』など、多くの文化的貢献をした。
 この三代は、五族の中国を建設したこととならんで、大清の盛世(せいせい=国力が盛んな時代)とよばれる。
 さらには儒学の尊重や天壇そのほかの壇廟の祭祀をさかんにおこなったことなどをあげて、康煕帝を偉大な皇帝とたたえ、雍正帝や乾隆帝をたたえるむきもある。
 歴史にいう盛世とは、いったい何か。
 領域の拡大か、武力の強盛か、儒学の尊重か、恐怖の政治か、まことに考えれば、ふしぎな表現といわざるをえないといえよう。
 もとより、それは清朝のみにかぎったことではない。
 洋の東西をとわず、盛世とか繁栄という言葉は、史上しばしば乱用され、かならずといってよいほど、最大版図を指摘する。それは、いったい何を意味するのか。
 あらためて考えさせられる反省であり、疑問である。
 清朝の治世は、こうした多くの矛盾をともないながらも、歴代の王朝がたどった道を、ふたたびたどっていったのである。
 それが専制国家の宿命であるかのように。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。