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8-7-2 李氏朝鮮の建国

2024-01-09 01:37:26 | 世界史

『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
7 李氏朝鮮の建国
2 新王朝の創始

 さて高麗の宮廷は、いよいよ明朝に対して行動をおこす。
 大軍を発して満州の地を攻めとろう、というのである。
 一三八八年(洪武二一)、国王の辛禑(しんぐう)みずから、宰相たちとともに開京を出て、平壞にうつった。
 李成桂らは数万の大軍をひきいて、遼東にむかった。
 李成桂は、明朝と戦かうことに反対であった。
 文官たちのなかにも、明朝にしたがうことを主張する者は、すくなくない。
 しかし国王を取りまく大官たちは、あくまでも元朝にしたがおうとしている。
 兵士たちも、戦争をきらった。逃亡する者も、あいついだ。
 それでも軍は北進をつづけ、鴨緑江をわたって、江中の威化島にいたった。
 厭戦(えんせん)の気分は高まるばかりである。
 ついに李成桂は、専断をもって進軍の中止を決意した。
 そのまま軍をかえす。軍のむかうところは、遼東ならぬ開京となった。

 こうして大軍をにぎって入京した李成桂は、クーデターを断行した。
 国王を廃して、その子の辛昌(三十三代)を立て、親元派の高官たちを追放した。
 李成桂は「反元(はんげん)・向明(こうみん)」(元朝に背いて明朝に従う)の政策を、はっきりかかげた。
 そして思いきった内政の改革にのりだした。もっとも重要なものが、田制の改革であった。
 高麗では、国王や王族をはじめ、貴族の大官たちは、広大な荘園を私有していた。
 そこから取りたてる年貢によって、かれらは豪奢な暮らしを楽しんできたのであった。

 ところで荘園がふえると、それだけ国庫の収入がすくなくなる。
 あげての果てには、まんぞくに俸禄のもらえない文官や兵士がでてくる。
 もちろん、この連中は不平がいっぱいであった。
 田制の改革は、こうした階層によって、つよく望まれていた。
 下級の文官のなかには、儒学の教養をもった者も多かった。
 新興の官僚であるから、高官たちのような荘園もない。
 そうして朱子学の名分論を奉じているから、夷狄(いてき)の支配する元朝には反対である。
 中華の王朝としては明朝を正統なものと考え、これにしたがうことを主張した。
 つまり高官たちは、向元の政策をとることによって、不平分子をおさえるとともに、自分たちの広大な荘園をまもろうとしたわけである。
 そうした体制をくつがえしたのが、李成桂のクーデターであった。
 いまや軍と官との期待をになって、李成桂は改革をすすめた。
 反対派の荘園は没収された。
 その上で、文武の官人や兵士たちには、地位に応じて田地が支給された。
 あたらしく支給された目地は、世襲することがゆるされた。
 こうして、これからのち文武の官人は、地主としての性格をつよめ、官僚階層を形成することになるのである。
 田制の改革がおこなわれたのは、一三九〇年のことであった。
 それまでには国王の辛昌も廃され、王族のなかから恭譲王がむかえられている。
 これとても李成桂の上で虚位を擁するにすぎなかった。
 改革に成功した李成柱は、一三九二年七月、恭譲王にかわって国王の位につく。
 そしてあたらしい王朝をはじめた。
 李成桂はさっそく革命のことを、明朝に報告した。
 そして洪武帝の勅許をえて、あたらしい国号を「朝鮮」と定めた。
 朝鮮とは、中国からみて東方の日の出るところの意味である。
 同時に、半島の地(西北部)にはじめて開かれた国家の名称であった。
 その昔、漢の武帝が半島の西北部を経略したとき(前一〇八)、そこには衛(えい)氏の建てた「朝鮮」国があった。
 さらに衛氏の建国にさきだっては(前二世紀のはじめ)箕子(きし)の「朝鮮」国があったという。
 このように朝鮮という国名は、ふるい由来をもっている。
 しかも高麗の末期になると、いっそう古くさかのぼった建国説話がつくりだされた。
 すなわち檀(だん)君の朝鮮である。
 檀君が建国したのは中国でいえば尭(ぎょう)の時代で、それより世を治めること一千五百年、周の武王が、箕子を朝鮮に封じたので、檀君は隠退して神になったという。
 世を去ったとき、一千九百八歳であった。
 こうした建国説話がつくられたのは、元朝の支配時代である。
 モンゴル人の圧政にあえぎながらも、いや、それゆえにこそ半島の人びとは、自分たちの国家と民族の由来について、こうした説話を生みだしたのであった。
 李成挂が用いた「朝鮮」の国号には、かれらの民族意識の高まりが背景をなしていた、といえよう。
 ちなみに、いまの大韓民国も、その紀元を檀君にもとめている。
 韓国の紀年によれば、一九七四年は檀紀(だんき)四千三百七年である。




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