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6-1-4 黄巣の栄光

2023-06-03 01:52:52 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
1 唐の大乱の主役
4 黄巣の栄光

 反乱はおこったが、彼らは一ヵ所にとどまって拠点をつくることはしなかった。
 ゆくてに立ちはだかる節度使(せつどし)の軍をうちやぶり、あるいはその間隙(かんげき)をぬって、おどろくほど広い範囲をかけめぐった。
 北は黄河から、南は広州にまでおよぶ地域で、四川(しせん)を除いて、ほとんど中国の全域にわたっていた。
 とくに黄河と長江(揚子江)にはさまれた地域では、はげしく流動し、主な地域を一度通過したばかりではない。
 おなじ都市をいくどか通ったこともあって、その足跡を地図にたどると、まるで蜘蛛(くも)の巣のようになる。

 この地域は、そのころ経済的にもっとも発達して、農民の階層分化がいちじるしかった。
 しかも飢饉がつづいたので、それだけ群盗がたくさんおこっていた。
 集団は、これらの群盗を吸収しながら勢力を強めるため、はげしく流動したのであった。
 やがて王仙芝は、反抗をやめて唐朝に降伏し、官職をうけようとする。
 これらに反対した黄巣は袂(たもと)をわかち、反乱の集団は二分された。まもなく王仙芝は敗死する。
 しかし反乱の勢力はくじけなかった。
 王仙芝に属していた集団は黄巣集団に合流して、ふたたび一つに拮集された。
 かくて唐朝からの攻撃をかわすため、長江をわたって各地に転戦しつつ南下をつづける。
 ついに、そのころ第一の貿易港であった広州の城外に達した。このころ反乱軍は数十万にふくれあがっていた。

 ここで黄巣は唐朝に対し、生まれ故郷にほど近い鄲(うん)州の節度使を要求する。拒否された。
 さらに広州の節度使を要求したが、はるかに低い官職しかあたえられなかった。
 さればと広州へ総攻撃をかけ、わずか一日で陥落させた。
 広州にはアラビア人やペルシア人など、貿易に従事する富裕(ふゆう)な外国人がたくさん居留していた。
 その富裕さについては、事実にそぐわないことの喩(たとえ)として、痩(そう)人相撲(やせた角力とり)や肥大新婦(ふとった花嫁)とともに、窮波斯(貧困なペルシア人)という言葉が生まれたほどである。
 このように貿易がさかんで、めずらしい品物がたくさん集荷されるゆえに、こうした重要な港を賊の手にわたすことでできないといって、黄巣の要求も拒否されたのであった。
 アラビア人の記録によると、反乱軍によって居留の外国人十二万が殺害され、中国の特産たる絹の輸出も一時とまったという。
 任官の要求を拒否された黄巣と指導部の怒りが、ここにあらわれただけではない。
 集団の大部分を占める貧しい人びとの、富裕な外国人に対する反感もこめられていた。
 しかし反乱軍は、広州にもながくはとどまらなかった。
 唐朝や藩鎮軍との苦しい多くの戦いを切りぬけて、はるばる広州までやってきたものの、なれない気候のため十人のうち三~四人は熱病にたおれてしまった。
 故郷を遠くはなれた人びとが、北に帰りたいと望むのは当然であった。
 黄巣もこれにしたがい、八七九年の冬、広州をあとにして北上する。
 反乱軍は、ふたたびめざましい活動をつづけていった。
 おりから年号は「廣明(こうめい)」とあらためられた(八八〇)。
 これは「唐」の字のなかみをとって、かわりに「黄」の宇を入れ、そのおかげで天下が「明」るくなる前兆だ、という者があらわれた。
 黄巣の意気、いよいよさかんである。
 この年の暮れには潼関をやぶって、反乱軍の白旗は長安の近郊にはためいた。
 このとき集団は六十万になっていた。
 都をまもるのは、皇帝に直属する神策軍である。
 ところが、この兵士には、長安に住む富豪の子弟が多かった。
 宦官(かんがん)や高官にわいろをおくって、軍籍に入れてもらったわけである。
 富豪たちは、子弟を軍籍に入れることによって税をのがれようとしたのであった。
 だから兵士とはいっても、形だけのものである。
 きらびやかな服装をして馬にのり、都大路をわがもの顔に走りまわるばかり、戦闘の訓練などほとんど受けていなかった。
 いざ出陣となると、恐怖のため親子で泣きさけび、はては金の力で貧乏人や病人までやとって、かわってもらうありさまである。
 これでは長安を目の前にして士気あがる反乱軍に立ち向かえるわけはなかった。
 僖宗は兵士五百人に守られて、こっそり長安をぬけだし、四川(しせん)の成都をめざして落ちのびていった。
 反乱軍が抵抗らしい抵抗もうけず、長安に入城したとき、一つの布告がだされた。
  黄王が兵をおこしたのは、もともと庶民のためである。李家(唐の帝室)のように、汝(なんじ)らを愛さないわけはない。
 汝らは安心して家におるがよい。

 この布告からみれば、反乱軍は明らかに民衆の立場にたっていた。
 たしかに入城ののちは、まずしい人をみれば施(ほどこ)しをし、金もちの商人をおそい、もっとも役人をにくんで、見つけしだい殺している。
 このような行動は、荒々しくはあったが、ときの政治に生活を破壊されたものの、怒りの深さを示すものであった。
 いまや黄巣は皇帝の位につく。国を大斉と号し、年号を金統とさだめて、国づくりにかかった。
 しかし国の支配機構となれば、それまでの狭い私的な関係だけでは、処理できるものではない。
 高官は除外したが、投降してきた唐の中下級の官史をそのまま官職につけ、支配機構は唐朝のものを模倣(もほう)した。
 これでは唐朝の再現にすぎない。反乱に参加した貧しい人びとは、唐朝の打倒こそを目ざしてきたのである。
 さて反乱軍が流動をやめて長安におちつくと、かえって唐朝側を立ち直らせてしまった。
 もはや反乱軍から、すばらしい機動力で攻撃をうけないですむとなると、藩鎮は成都の僖宗の命令をうけて、反乱勢力を打倒しようとしてきた。
 こうして長安の付近は戦場となり、それを避けて農民が山谷にたてこもる。
 やがて反乱軍は食糧にもこまるようになった。戦況は一進一退をつづけていた。
 反乱側の有力メンバーたる朱温(しゅおん)が、唐朝に寝がえったのは、こうしたときであった。




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