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3-4-6 晋文の覇業

2018-08-01 02:55:35 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

4 覇者の出現

6 晋文の覇業

 文公が位につくや、財政をととのえ、軍事を強化して、晋の国運は日ましにさかんとなる。
 翌年には周室の内乱をしずめ、いよいよ重きをなした。おりから楚の国力もますます強い。
 中原の諸国も、その圧力をうけて、あるいは屈服し、あるいは対抗の策をねった。
 文公の即位から三年の後、楚は宋を攻めた。宋は晋の文公に救援をもとめた。
 文公は、かつて宋において好遇された恩にむくいようとした。
 翌年(前六三二)の春、文公は楚にくみする曹と衛とを攻め、これを味方に引きいれた。
 楚も、晋に対して軍勢をさしむけた。楚の軍を前にして、晋軍は九十里だけ退いた。これには理由があったのである。
 かつて文公は流遇(るぐう)のあいだに、楚においても厚くもてなされた。
 そのとき「帰国されたら、返礼に何をくださるか」と問われた。文公はいった。
 「もし君の力をもって、晋国にかえることを得(う)れば、晋と楚と軍勢をととのえて中原に遭(あ)いしとき、君を避(さ)くること三舎(さんしゃ)せん」。
 一舎とは、軍隊が一日に歩く行程のことで、三十里(約十二キロ)にあたる。
 つまり文公は、対戦のときに九十里(約三十六キロ)後退することを約束したのであった。
 「三舎を避ける」(とてもかなわぬと、尻込みする)ということばは、ここに由来する。
 そして文公は、かねての約束を実行したのであった。
 こうして四月になった。晋楚の両軍は、城濮(じょうぼく)において対陣した。
 宋と斉と秦とが、晋のために軍をだした。楚は、陳(ちん)と蔡(さい)の兵をもひきいていた。
 晋軍は大いに打ってでて、 まず楚の右軍を破り、ついで左軍もくずした。
 晋の大勝はさだまり、楚の北進はくいとめられた。
 周の襄王は、晋の戦勝をいわうため、みずから東方におもむいた。
 文公は、践土(せんど)に王宮をつくり、天子の臨御をあおいで戦利品をたてまつった。
 周王は、ここに文公の覇者(はしゃ)たることを承認した。
 王宮の庭では、諸侯の代表があつまって、会盟をおこなった。
 文公の覇業(はぎょう)には、周の王がみずからでむいたのである。
 いまや晋は、天子にかわって中原に号令する盟主となった。これより五年の後に文公は死去した。
 そうして中原にむかっては、ふたたび楚の圧力が加えられるようになる。
 しかし覇者たるの地位はうしなっても、依然として晋は、中原における最大の強国であった。
 すなわち晋は、北方に対して勢力をのばしたのである。
 それまで、しばしば中原に侵入していた狄(てき)をやぶった。
 北方の山地を開拓し、領域をひろげた。
 領内に住みついた狄は、これを同化し、したがわぬものは、さらに北方へと追いやった。


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