『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
18 藩鎮と宦官
2 両税法の施行
安史の乱は唐朝に大きな打撃をあたえ、律令制を施行することも困難になった。
戸籍や計帳がみだれて、均田制を実行することができなくなったのである。
それにともなって荘園(私有地)が発達していった。
荘園では、佃戸(でんこ)とか佃客(でんかく)とかよばれる小作人が農耕にしたがう。
生活の苦しくなった農民は、つぎつぎに荘園へながれこんだ。
このような形勢では、もはや租庸調のような税役も課すことはできない。
租庸調の制度は、土地の所有の額をとわず、一率に丁男(成年男子)から同額を徴収するものであった。
しかし逃戸がふえて、政府がはっきり丁男をつかむことができなくなると、租庸調もおこなわれなくなる。
いまや抜本的な改革が必要となった。
かねてから唐朝では、租庸調のほかに、戸を資産によって戸等にわけ、それに応じて課税する「戸税」があった。
これは銭納である。
また「地税」とよばれて、ききんのときの救荒川の耕地から、一畝につき二升を徴収する課税もあった。
さらに安史の乱ののちには、戸税の付加税として青苗銭(せいびょうせん)や地頭銭のようなものもできてきた。
税率は一畝につき銅銭十文(もん=十個の意)、やがて五文増やされた。
このような税制の整理を断行し、当時の実情に適した新税制を案出したのが宰相の楊炎(ようえん)であった。建中元年(七八〇徳宗の初年)に施行された。
新しい税制を「両税法」とよぶ。
夏・秋の二回にわけて徴収したからである。
安史の乱ののち中央政府も藩鎮も、戦費の多額になやんだ。その徴収をせまられる州県は、これまでの経験から、だいたい一年間の徴税みこみ額を、夏における麦のとりいれ、秋における粟や稲のとりいれにわけ、各戸の収穫に応じてあらかじめ徴収しておいた。
そして徴収の命令がくると、その額を上納する方法をとり、便宜上これを夏税・秋税とよんでいた。
このような傾向をもとにして、楊炎は税制の大改革をおこなったのである。
この両税法が施行されるようになると、それ以外の税役はいっさい禁止され、税は一本化された。
徴収は夏(六月末まで)と秋(十一月末まで)の収穫期におこなわれ、課税の対象も、これまでの丁(てい)から戸(こ)にあらためられた。
各戸の資産の多少をしらべ、それに応じて課税したのであった。
しかも、これらの計算は、すべて銭によっておこない、納税にも銭納を原則とした。
もっとも実際の納入には、粟や布帛や草(わら)など、ほかのものの圻納(せつのう=代収のこと)をみとめている。
かつ両税による収入のうち、県費とする部分、州費とする部分、藩鎮にいく部分、そして中央にいく部分のそれぞれに、一定の基準をもうけ、そのわくをこえることを禁止した。
ここに一定のわくをきめたことは、藩鎮にゆく分をおさえ、藩鎮をおさえる意図があった。
つまり両税法を実施したことは、藩鎮をおさえる政策のあらわれであり、徳宗の世におこった河北三鎮の反乱は、両税法の実施がおもな原因であったわけである。
しかし両税法の実施には、大きな問題が残されていた。
まず課税の対象となる資産の決定と、その評価の問題である。
農村において、畝(ほ)数と、その土質のよしあしの決定には、さまざまの問題のおこってくることが予想されよう。
また、都市における商工の民も、資産の評価がむずかしく、のちまでこの問題の論議はつづいた。
なお商人の税率は、売上げ高の三十分の一と定められていた。
つぎには銭納の問題があげられる。折納(せつのう)もゆるしてはいたが、やはり銭納の額がふえてゆき、農村にまで銭の使用が普及していった。
その反面、銭が不足して銭価があがり、物価はさがる。
物価は五分の一にまで低落した。これは銭額で定められた両税の負担を、実質においては数倍も重いものとしたことになる。
納税者は苦しめられ、ここから両税法への批判がおこった。
それでも両税法の正税としての地位は、年ごとに強化されてゆき、こののちながく十六世紀の明(みん)代までつづけられた。
それぞれの王朝によって運営のうえでの差はあったが、中国史上でもっともながい生命をたもった税法である。
これを創始した楊炎の功績は、高く評価しなければならないであろう。
18 藩鎮と宦官
2 両税法の施行
安史の乱は唐朝に大きな打撃をあたえ、律令制を施行することも困難になった。
戸籍や計帳がみだれて、均田制を実行することができなくなったのである。
それにともなって荘園(私有地)が発達していった。
荘園では、佃戸(でんこ)とか佃客(でんかく)とかよばれる小作人が農耕にしたがう。
生活の苦しくなった農民は、つぎつぎに荘園へながれこんだ。
このような形勢では、もはや租庸調のような税役も課すことはできない。
租庸調の制度は、土地の所有の額をとわず、一率に丁男(成年男子)から同額を徴収するものであった。
しかし逃戸がふえて、政府がはっきり丁男をつかむことができなくなると、租庸調もおこなわれなくなる。
いまや抜本的な改革が必要となった。
かねてから唐朝では、租庸調のほかに、戸を資産によって戸等にわけ、それに応じて課税する「戸税」があった。
これは銭納である。
また「地税」とよばれて、ききんのときの救荒川の耕地から、一畝につき二升を徴収する課税もあった。
さらに安史の乱ののちには、戸税の付加税として青苗銭(せいびょうせん)や地頭銭のようなものもできてきた。
税率は一畝につき銅銭十文(もん=十個の意)、やがて五文増やされた。
このような税制の整理を断行し、当時の実情に適した新税制を案出したのが宰相の楊炎(ようえん)であった。建中元年(七八〇徳宗の初年)に施行された。
新しい税制を「両税法」とよぶ。
夏・秋の二回にわけて徴収したからである。
安史の乱ののち中央政府も藩鎮も、戦費の多額になやんだ。その徴収をせまられる州県は、これまでの経験から、だいたい一年間の徴税みこみ額を、夏における麦のとりいれ、秋における粟や稲のとりいれにわけ、各戸の収穫に応じてあらかじめ徴収しておいた。
そして徴収の命令がくると、その額を上納する方法をとり、便宜上これを夏税・秋税とよんでいた。
このような傾向をもとにして、楊炎は税制の大改革をおこなったのである。
この両税法が施行されるようになると、それ以外の税役はいっさい禁止され、税は一本化された。
徴収は夏(六月末まで)と秋(十一月末まで)の収穫期におこなわれ、課税の対象も、これまでの丁(てい)から戸(こ)にあらためられた。
各戸の資産の多少をしらべ、それに応じて課税したのであった。
しかも、これらの計算は、すべて銭によっておこない、納税にも銭納を原則とした。
もっとも実際の納入には、粟や布帛や草(わら)など、ほかのものの圻納(せつのう=代収のこと)をみとめている。
かつ両税による収入のうち、県費とする部分、州費とする部分、藩鎮にいく部分、そして中央にいく部分のそれぞれに、一定の基準をもうけ、そのわくをこえることを禁止した。
ここに一定のわくをきめたことは、藩鎮にゆく分をおさえ、藩鎮をおさえる意図があった。
つまり両税法を実施したことは、藩鎮をおさえる政策のあらわれであり、徳宗の世におこった河北三鎮の反乱は、両税法の実施がおもな原因であったわけである。
しかし両税法の実施には、大きな問題が残されていた。
まず課税の対象となる資産の決定と、その評価の問題である。
農村において、畝(ほ)数と、その土質のよしあしの決定には、さまざまの問題のおこってくることが予想されよう。
また、都市における商工の民も、資産の評価がむずかしく、のちまでこの問題の論議はつづいた。
なお商人の税率は、売上げ高の三十分の一と定められていた。
つぎには銭納の問題があげられる。折納(せつのう)もゆるしてはいたが、やはり銭納の額がふえてゆき、農村にまで銭の使用が普及していった。
その反面、銭が不足して銭価があがり、物価はさがる。
物価は五分の一にまで低落した。これは銭額で定められた両税の負担を、実質においては数倍も重いものとしたことになる。
納税者は苦しめられ、ここから両税法への批判がおこった。
それでも両税法の正税としての地位は、年ごとに強化されてゆき、こののちながく十六世紀の明(みん)代までつづけられた。
それぞれの王朝によって運営のうえでの差はあったが、中国史上でもっともながい生命をたもった税法である。
これを創始した楊炎の功績は、高く評価しなければならないであろう。