カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

8-10-5 大清帝国の完成

2024-02-01 15:24:05 | 世界史


『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
10 大清帝国の完成
5 五族の中国

 秘密主義ときびしい弾圧をもって、皇帝独裁の体制を確立することにっとめた雍正帝は、在位十三年にして、にわかに世を去った。
 円明園の離宮で、急死した。恐怖の親政体制を樹立した雍正帝の急死は、巷間(こうかん)に帝の暗殺説がみだれとぶ一幕をもくわえたほどである。
 秘密の恐怖が生んだ謎の死は、帝の最期にふさわしいといえよう。
 密建の法により帝位についたのは、帝の第四子、そのとき二十五歳の高宗乾隆帝であった。

 康熈・雍正と二代にわたる基礎がためのあとをうけた、青年皇帝の本領は外征にあった。
 乾隆帝の在位は、六十年にわたった。帝は、祖父康煕帝の在位をこえてはと、みすがら帝位を嘉慶帝にゆずったのである。
 しかし上皇として、なお四年にわたり、実権を行使した。八十歳をこえるまで帝位にあった乾隆帝のごとき例はない。
 まさに清(しん)朝の皇帝には、中国の歴代王朝に例のない記録保持者が、ふたりもいる。
 その治世の合計たる百二十一年は、おなじ北族の元朝において、十一人の皇帝が即位し、百年にもおよばなかったものとは、およそ比較にならない。
 「胡虜に百年の運なし」といった明初の言は、「胡虜二帝にして百年を超ゆ」という言にとってかわられた観がある。
 ともあれ乾隆帝が六十年の長い治世のなかにあって、晩年にほこったものは武功であった。
 乾隆十二年(一七四七)、金川(きんぜん)の乱の平定にはじまり、五十七年(一七九二)におけるグルカ遠征軍の凱旋まで四十五年間に、帝は十回の武功をたてたと、みずから誇り、この年には『十全記』までつくった。
 ときに八十一歳の帝自身を「十全老人」と称し、大いに得意であったという。
 しかし、これを皮肉れば、帝六十年の治世において、ほこるべきものは、ほかになかったことにもなる。
 それもお粗末な十全である。
 ジュンガル遠征二回、中央アジアの回部(ウイグル)平定一回、ビルマとベトナムへの遠征おのおの一回、ネパールのグルカ征討二回、金川の乱の征討二回、台湾の乱の征討一回の計十回が、帝のいう十全である。
 お粗末というのは、帝がかぞえる十回の武功のうち、先帝からの懸案たるジュンガル滅亡をはたしたことと、ジュンガル配下にあったウイグルの、この機を利用した独立をおさえることが、真の武功であった。
 この結果、いわゆるトルキスタンの東半が、のちの新疆として、はじめて中国の領域に加えられた。
 しかし、金川の乱や台湾の乱は、その名のごとく、乱の鎮定であり、数えたてるにはあたらない。
 ビルマやベトナムの遠征も、苦戦をかさねた末、朝貢国にとどまったにすぎぬものであった。
 ネパールもまた同様である。
 しかも、十全の武功というなかで、乾隆帝の親征にかかるものは一つもない。
 派遣された将軍のなかで、失敗や敗戦のせめを問われ、処刑されたもの数しれずという実状であった。
 ただ、ジュンガルおよびウイグルの平定により、現代の中国につながる五族の中国が完成した。
 これは中国史の上で、重要な意味をもっている。
 ここにいう五族とは、満・蒙・漢・蔵・回、すなわち満州民族・モンゴル民族・漢民族・チベット民族・イスラム教徒たるウイグル族(トルコ民族)がこれである。
 これらの民族は、すべて独自の文字をもち、かつては、それぞれ自立した歴史を経験したものであった。
 いまやこの五族は、一つの中国という世界のなかに、くみこまれることとなったのである。
 それは、遼・宋・金の三者で代表される、蒙・漢・満の争覇戦から、モンゴルの元朝、漢族の明朝という統一王朝をへて、最後の清朝によって、ついに完成されたものである。
 おもえば清朝を樹立した満州族は、元朝・明朝という蒙漢両民族の支配を、かわるがわる受けつづけてきながら、ついに満・蒙・漢の三者をたくみに融合し、牽制することによって、五族の統一をなしとげたのであった。
 それは、モンゴル第一主義をとる元朝、漢民族の中華主義をとる明朝の、ともになしえなかったものである。
 清朝が五族の中国を樹立できた原因は、どこにあるか。それは、きわめてむずかしい問題である。
 明朝の制度をうけつぎ、かつ満漢の併用策をおこないながら、一面できびしい弾圧や強制策をとったとか、強力な軍事力によるとかいうことで、清朝二百六十余年の存続をかたづけることは、適切ではあるまい。
 大清王朝が、満蒙漢の接触点ともいうべき遼東の農耕社会を中心の舞台として、中国本土に進出する以前、すでに三民族を土台とする一国家を形成し、制度や文物をもととのえていたことは、問題への一つの回答となりえよう。
 いわば満蒙漢の融合は、すでに試験ずみであった。
 その経験こそ、五族の中国を建設することに、大きな役割をはたしたといっても、過言ではあるまい。
 大清王朝は、瀋陽時代の三民族を土合とした国家体制を中核に、中国本土に進出して、その漢人をふくめ、さらに主として西方や西北方に位置する藩部の諸族をもふくめ、一大帝国の建設をなしとげたのである。
 これを、もし元朝の蒙古・色目・漢人・南人の別に対応させるならば、まさに満蒙漢をもってする満人、すなわち旗人と、中国本土の漢人、および藩部諸族の三つとなり、いわば旗(満)・漢・藩の三つに類別しうるものとなる。
 この場合、旗=満とは、満・蒙・漢の八旗をもって代表される一群をいう。
 大清王朝は、この旗・漢・藩の三者の上になりたつものであった。

 清朝の帝室は、この満蒙漢の計二十四旗からなる八旗を中核にすえ、旗・漢の併用策を、中央における行政や監察などの機関に適用し、かつ漢と藩との分離をはかりつつ、配下に把握するものであった。
 藩部に関する中央機関たる理藩院にのみ、漢人の任用がなかったことは、これを示している。
 ともあれ、現代の中国の領域にふくまれる五族の中国は、そのもとを、ほかならぬ征服王朝といわれ、最後の中国王朝といわれる大清王朝に起原をもつものであった。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。