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6-1-2 塩の闇商人

2023-05-29 07:54:43 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
1 唐の大乱の主役
2 塩の闇商人

 黄巣(こうそう)はわかいころから、塩を各地に売りあるいて財産をつくりあげた。
 その人となりは、任侠(にんきょう=弱きをたすけ強きをくじく)をよろこび、武術にもはげみ、また学問も身につけていて、当時としては知識人に属していた。
 財産があり、知識を身につけた庶民が、世に出るため第一に目ざしたのは、やはり役人になることであった。
 それには、登竜門として設けられた科挙(かきょ)の試験に合格しなければならない。
 高級役人は、旧中国ではエリート中のエリートと考えられ、またそれにふさわしい待遇をうけて、権力をもつ存在であった。
 しかし唐朝では、科挙、とくにそのなかで出世街道をあゆむ進士科(しんしか)の合格者として採用するのは、年にせいぜい二~三十人にすぎない。
 唐朝は貴族が政治をうごかし、高い家柄のものが重要な官職を多く占めてしまうような国柄だったからである。
 黄巣もまた、一般の財産ある知識人のように、科挙を受験した。
 しかしエリートをめざす受験者がひじょうに多いのに、ごく限られた数の合格者しか予定されていないのだから、はじめから合格は奇蹟にちかい。
 黄巣はいくどか受験したが、ついに合格することはできなかった。
 こうして黄巣は、高官となる道をとざされ、塩の行商に身をいれていった。
 そのころ中国には、いくつかの塩の産地があった。奥地の四川(しせん)では、塩分をふくんだ地下水を汲みあげて、製塩していた。
 いまの山西の地(南西部)には塩池(えんち)があって、ここでも製塩されていた。
 しかしいちばん生産が多いのは、淮(わい)水の河口から長江(揚子江)の河口にいたる江淮(こうわい)の海岸地帯であった。
 黄巣は、江淮の海岸で塩を仕入れては、各地にはこんで、売りさばいていたのであろう。
 ところで塩の商売といっても、唐朝からみれば闇(やみ)商人であった。
 安祿山(あんろくざん)の乱で大きな痛手をうけた唐朝は、早急に財政をたてなおす必要にせまられた。
 中国の歴史をみると、国の財政が不如意(ふにょい)となった王朝では、しばしば専売制を実施している。
 専売の対象になるのは、漢の武帝のときの塩鉄のように、生活の必需品として大量に消費される品物であった。
 そのほうが専売からあがる利益を大きくしたからである。
 唐朝も専売制を思いたって、反乱がはじまって間もなく(七五六)、塩の専売にふみきった。
 製塩業者から国が一手に買いあげて、公認の特定商人に売りわたすことにしたのである。
 このとき、それまでの民間の自由な取引では、一斗につき十文だったのが、なんといっぺんに百十文、つまり時価の十一倍で、商人に売りわたしたという。
 消費者が買うときには、さらに高くなっていたことはいうまでもない。
 こうして、専売制が整備されてゆくにつれ、唐朝は国の財政をますます専売制にたよるようになり、塩の値段はさらに引きあげられた。
 その後は唐朝を通じて、だいたい二百文台から三百文台であったという。
 塩は食物の味つけに必要なだけでなく、労働のはげしい農民にとっては、失われた体内の塩分を補給するために、欠くことのできないものであった。
 それを国から一方的に、こんな高い値段を押しつけられたのだから、農民のなかには塩が買えず、淡食(たんしょく)といって、食物に味つけできないものさえいたという。
 民衆は安い塩をのぞんだ。
 こうしてあらわれたのが、塩の闇商人であった。
 闇商人は官憲の目をかすめながら、各地に行商した。
 そして民衆によろこばれた。
 そのような闇商人のひとりに黄巣があり、また王仙芝(おうせんし)がいた。
 ところが、闇の塩がたくさん出まわると、それだけ専売の塩が売れなくなる。
 国の収入に大きな穴をおけることになる。
 そこで唐朝は、地方の官憲に命じてきびしく取締まらせた。
 官憲の目をかすめるのは、容易なことではない。
 また盗賊などにおそわれて、運搬中の塩を掠奪(りゃくだつ)される危険もあった。
 そのため闇商人は個人では行動しない。
 ときには官憲に抵抗し、また盗賊を追いはらうために、武装し徒党を組むことが多かった。
 闇商人は、いわけ裏街道をあるくものである。
 仲間としての意識でしっかりむすばれていなければならない。
 ここでは儒教的な倫理よりも、任侠的な気風が必要であった。
 黄巣が任侠をよろこんだというのも、徒党としての結びつきとかかわりのあることであった。
 徒党をひきいる者として、たしかに任侠の気風はもとめられたし、かつ任侠の気風がつよい人物であったからこそ、黄巣は指導者となることができたのであった。
 そのうえ黄巣が騎射などの武術に、たしなみがあったというのも、指導者にふさわしいことであった。




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