
『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
9 後金から大清ヘ
3 再起への道
ヌルハチは、なぜ瀋陽に都をうつしたのか。史書は、納得のゆく説明をのこさない。
ただ遷都した年(一六二五)の十月、ヌルハチは、きびしい漢人の検別をおこなっている。
「明が派遣した間諜をかくまい、ひそかに文言をうけとり、棍棒を準備するなど、多くの悪行をするのは、すべてなんじらのように外方に住む秀才や官人らの親戚や、村の大人らである。
瀋陽に住む官人や、城郭をつくり、割り当てられた義務をつくす者たちの知るところではない。
なんじらの悪行に、多くの者がまきぞえになって殺されるのである。
なんじらの命をたすけても、たすけられた恩を恩と思わずに、ふたたび明に内通するのならば無駄と考え、なんじらのような外方の村のおもだった者を殺すのである。
とるにたらぬ小者たちは、城郭をきずくし、間諜をとどめることもない。
また逃げるにしても一人だけのことで、他人をそそのかしたりするわけではないから、助命するのである。
ただ、助命した者が、そのままいると満州人に圧迫されるのではないかと心配し、すべて、われとわが諸王の荘に編入する。
一荘には男十三人と牛七頭、田百晌(しょう)をあたえる。」
このようにきびしい漢人の弾圧策は、瀋陽に遷都した理由の一端を示しているといえよう。
あきらかに、ヌルハチの遼東進出は早急にすぎたようである。
老いさき短かいヌルハチは、その失敗から、後事を子孫にたくするため、再建の基礎がためをしたのかもしれない。
あくる十一年、ヌルハチは、遼河から西方では最大の拠点たる寧遠の攻略を決行して大敗をこうむった。
かれにとっては挙兵して以来、最初にして最後の敗戦であった。この年、かれは世を去ったのである。
寧遠の攻撃に敗れたのち、部下の一人は、ヌルハチにつぎのような上書をした。
「ことを始めるものは人であり、ことを成すものは天である。ハンは東方の一辺境に生をうけた。
しかし幼少より戦場における千種の計、万種の策は、あたかも鬼神が人にさとられないようであり、意表をつく行動は、鼠が狐に、犬が虎に敵対できないように巧妙であった。
そこで、天はハンに、まず建州の統一を成さしめたのである。
ハンはそれを予期していたか。ハンはそのとき、建州だけでよいと思っていたはずである。
ウラやハダなどまで手にいれたいと思っていたか。
天がそれをあたえたのである。
ハンはそれをも予期したか。
かのイェヘは、娘をあたえるといいながら変心し、明がこれに味方するので、ハンは報復すべく撫西(撫順)をまず討った。
そのときハンは心中で、かならず張総兵官(明の指揮官張永廕(えいいん))を殺したい、四路の敵兵を殺したい、遼東地方をとりたい、イェヘをしたがえたいと思っていたか。
これも天がみちびいたことで、予期できなかったことである。
ハンは天の子であるから、天の意にしたがって行動すれば孝子である。
民はハンの子であるから、民の心を考えて行動すれば慈父となる。
はじめハンは、遼東をしたがえたのち、南は旅順に、東は鎮江にいたるまで、住民をそのまま助命した。
しかし、民は恩をわすれて、逃亡し、そむいた。
子が不孝であれば、父は愛(いつく)しむわけにはいかない。
民の悪により、これを移住させたり、殺したりしなければならなかったのである。
これらは、すでにすんだことであり、天のみちびいたことである。
ハンはまた、瀋陽を半日、遼東を一日で攻略した。
ほかの城は、ものの数ではないはずだ。
しかるにいま、寧遠を攻め、二日をかけてなお攻略できなかったのはなぜか。
遼東や瀋陽の者が、寧遠の者より臆病であったがためではない。
砲や小銃が寧遠のよりもすくなく、精巧でなかったためでもない。
ハンが遼東を取ってよりのち、歩騎の兵は三年間も戦わず、諸将はなまけ者になり、兵士は戦意をうしない、戦車や梯子や楯はもろくなり、武器は鋭さをうしなっている。
そのうえ、ハンが寧遠を軽くみたので、天がハンに苦労させたのである。」
上書はヌルハチの過去を語りながら、寧遠の攻撃が失敗した原因をつき、さらに将来の策を進言している。
「われには恩にむくいるべきなにものもない。そこで思いつくままに四つのことを進言する。
一、功ある者は、千金を惜しまずに賞し、功なきは親戚とて免ぜず、賞罰があきらかならば大事はなる。
一、古来、功ある者を使うのは、罪ある者を使うに及ばずという。
遼東の者が逃叛するのは罪ある者、殺すは意味なし。戦場にやり、漢人どうして攻防せしむれば、われらに益あり。
一、地を得れば、破壊するより温存するが上策。寧遠を得れば、そのまま兵を駐して山海関を攻めるかにみせ、本軍は一片石より進めば、皇帝の城は不意をつかれ、そなえるにいとまなし。
かくすれば、通州城にあつめたる穀物、民家、財宝は、ことごとくわが手中に入る。
もし山海関を攻むるに数日を要せば、山海関より皇帝の城に至るの間、ことごとく火を放たれ、錦川・杏山・塔山・連山・松山のごとく灰燼に帰すること、あきらかなり。
得たとてなんの益あらん。
一、モンゴルの馬が肥えたるのち、われら出陣せば、留守に変事がおこりたるとき、千里の外より帰るは難し。
モンゴルの馬いまだ肥えざるのとき、守城の兵をとどめて出陣するが上策なり。」
部下の上書は、おそきに失した。
ヌルハチもまた、金の始祖やモンゴルの始祖のように、業なかばにして世を去る運命にあった。
後金国の再建と発展を、あとを継ぐ子らに託して。
思えば、ヌルハチの生涯は、戦いにあけくれた。
しかし、創業期の苦しみのなかにあって、かれが、残したものはすくなくない。
大清国の支柱をなした八旗制度は、その第一にあげられる。
八旗に属する壮丁に、旗地とよばれる土地を支給し、経済の基礎を農業の生産におこうとした意義も大きい。
また独自の満州文字をつくらせたのも、ヌルハチであった。
