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6-8-2 西夏文字の解読

2023-07-14 00:02:37 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
8 難解の文字
2 西夏文字の解読

 西夏文字は、久しい間、ナゾの文字であった。
 いや、こうした文字が存在したことさえ、わすれ去られていた。
 いったんほろび去った西夏文字が、ふたたび姿をあらわしたのは、一八七〇年(明治三年)における居庸関(きょようかん)刻文の発見であった。
 ここには、元(げん)朝のもとに用いられた六種の文字が、きざまれていた。
 その一つが、西夏文字であった。
 しかも当初は、それが西夏文字であることもわからなかったのである。
 それから十年あまりたった。
 居庸関のナゾの文字は、西夏の古銭にきざまれた文字と照らしあわせた結果、西夏文字であることが明らかとなる。
 これから研究がはじまった。
 西夏語の文献も、次々に発見された。
 なかでも、カズロフ探検隊がもたらした『蕃漢合時掌中珠』は、ナゾの文字の解読に大きな寄与をなした。
 それまでは西夏語の文献というと、仏教の経典を翻訳したものが大部分だったのである。
 『掌中珠』によって、西夏の日常語がわかるようになった。
 しかし、複雑な形の文字が、どのように読まれたか。
 おのおのの文字が、どのような意味をもっているのか。
 また、おのおのの文字がどのようにして作られたのか。
 これらの諸点を解明しなければ、文字が読めた、とはいえない。
 解読はむずかしかった。
 中国やヨーロッパの学者が、さまざまに解読をこころみてきたけれども、なかなか完成の域には達しなかった。
 この難問をみごとに克服したのが、日本の少壮学者、西田竜雄氏であった。
 西田氏の研究によって、いまは西夏文字の全貌がほとんど明らかにされている。
 文字の音もわかった。意味もわかった。構成の原理も明らかとなった。

 すなわち西夏の正式の国号である。
 また、右のように書けば、妙法蓮花(花・浄)の経典(分別ある言葉の道)ということを意味していて、つまり「妙法蓮華経」のことである。
 もっとも、ここで西夏文字の音や、文法を述べているわけにはいかない。
 現在までにわかっている西夏文字の数は、およそ六千である。
 この六千字を組み合わせて、二千語から三千語ばかりの西夏語をあらわしたのであった。
 文字の形は複雑であるが、その構成には、やはり一定の原則があった。
 漢字における偏(へん)や、旁(つくり)のようなものもあった。この文字の構成法をみてゆくと、西夏人のものの考えかたをしのぶこともできる。
 たとえば、左下に二つの文字A、Bがある。
 この二字は、偏にあたる部分と、旁の上の部分が共通である。その下の部分にしても、と奸のように同じ要素が入れかわっているにすぎない。
 Aのように書けば「水」であり、Bのように書けば「魚」であった。おのおのの文字はいくつかの要素を組み合わせて、つくりあげられたのであった。
 の字は、これだけで「稲」のことをあらわす。
 これに「種」  という旁をくわえると、 という字ができる。これは「米粒」をあらわした。また「稲」に、「見る」という字  をくわえれば“稲を見る”という意味が生まれてくるであろう。そこで  は「秋」ということになった。

 人間の「心」は、もちろん“人”偏の宇であった。
 このの字のうち旁の部分か“こころ”の意味をあらわした。
 これをもとにして、いろいろの要素をくわえると、さまざまの意味をもった字ができる。
 Aは心に“無”をくわえた。心がないから「わすれる」ことになる。
 Bは“おそれる”をくわえた。そこで「恐怖の心」という意味になる。
 Cの旁は“やわらかい”という意味であった。心をやわらかくすることは「孝行」であった。
 逆にDのように、心が“おもい”ということになると、「融通がきかない」意味になった。

 もう一つ、おもしろい例をあげよう。
 左の文字で「骨」は“人”偏であるが、これを“皮”偏におきかえる。
 そして、その上に“木”冠をかぶせる。そうすると、木のように皮と骨になる、という意味が生まれてくるであろう。
 すなわち「やせる」という字になるわけであった。文字どおり、骨と皮なのである。

 さて、西夏の帝国をひらいた李元昊(りげんこう)のことを、宋の記録においては、みずから「嵬名吾祖」と袮した、と記されている。
 西夏語を音訳したものに違いなかった。どういう意味なのか。
 この「嵬名吾祖」を西夏文字で書けば、右のようになる。
 上の二字は李元昊の部族名であり、"ンギウ・ミ"(ngiuh-mih)と発音した。
 「聖」という意味もくわわっている。
 したがって「聖なるンギウ・ミ」ということであった。
 下の二字は「皇帝」という字であり、西夏証では "ングル ンヅオ" (nggur-ndzoh)と発音した。こうした西夏語の発音を、漢字で「嵬名吾徂」と写したわけである。
 そこで西夏語の意味をとれば「聖なる大夏の皇帝」ということになろう。
 李元昊の名ではなかった。
 それにしても西夏文字は、複雑な形であった。
 これをおぼえ、使用することは、なみたいていの努力ではなかったに違いない。
 数詞といえば、どこの民族でも「一、二、三」というように、簡単な字形を用いる。
 計算しやすいためである。
 漢字で「壹、貳、参」というような字が用いられることもあるが、これは数字を筆録しておくためのものであって、計算するための字ではない。
 ところで西夏文字の数詞は、右のようなものであった。
 こういう文字を、いっぱんの民衆がつかいこなしたとは考えられない。
 しかし西夏の公用語は西夏語であり、公用文はすべて西夏文字で記すことに定められたのである。
 役所の文書は、この複雑な字形で記さねばならなかった。
 いかに民族の自立意識による所産とはいえ、役所における能率のほどが、この字形だけからでも想像できるであろう。
 西夏の国そのものは、一二二七年、チンギス汗によってほろぼされた。
 しかし西夏がほろびたのちも、この文字はモンゴル帝国の保護のもとに、なお用いられていたのである。
 じつに三百年あまりにわたって、こうした文字を用いた人々があったと知れば、それはひとつの驚異ではないだろうか。





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