
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
8 難解の文字
2 西夏文字の解読
西夏文字は、久しい間、ナゾの文字であった。
いや、こうした文字が存在したことさえ、わすれ去られていた。
いったんほろび去った西夏文字が、ふたたび姿をあらわしたのは、一八七〇年(明治三年)における居庸関(きょようかん)刻文の発見であった。
ここには、元(げん)朝のもとに用いられた六種の文字が、きざまれていた。
その一つが、西夏文字であった。
しかも当初は、それが西夏文字であることもわからなかったのである。
それから十年あまりたった。
居庸関のナゾの文字は、西夏の古銭にきざまれた文字と照らしあわせた結果、西夏文字であることが明らかとなる。
これから研究がはじまった。
西夏語の文献も、次々に発見された。
なかでも、カズロフ探検隊がもたらした『蕃漢合時掌中珠』は、ナゾの文字の解読に大きな寄与をなした。
それまでは西夏語の文献というと、仏教の経典を翻訳したものが大部分だったのである。
『掌中珠』によって、西夏の日常語がわかるようになった。
しかし、複雑な形の文字が、どのように読まれたか。
おのおのの文字が、どのような意味をもっているのか。
また、おのおのの文字がどのようにして作られたのか。
これらの諸点を解明しなければ、文字が読めた、とはいえない。
解読はむずかしかった。
中国やヨーロッパの学者が、さまざまに解読をこころみてきたけれども、なかなか完成の域には達しなかった。
この難問をみごとに克服したのが、日本の少壮学者、西田竜雄氏であった。
西田氏の研究によって、いまは西夏文字の全貌がほとんど明らかにされている。
文字の音もわかった。意味もわかった。構成の原理も明らかとなった。
すなわち西夏の正式の国号である。
また、右のように書けば、妙法蓮花(花・浄)の経典(分別ある言葉の道)ということを意味していて、つまり「妙法蓮華経」のことである。
もっとも、ここで西夏文字の音や、文法を述べているわけにはいかない。
現在までにわかっている西夏文字の数は、およそ六千である。
この六千字を組み合わせて、二千語から三千語ばかりの西夏語をあらわしたのであった。
文字の形は複雑であるが、その構成には、やはり一定の原則があった。
漢字における偏(へん)や、旁(つくり)のようなものもあった。この文字の構成法をみてゆくと、西夏人のものの考えかたをしのぶこともできる。
たとえば、左下に二つの文字A、Bがある。
この二字は、偏にあたる部分と、旁の上の部分が共通である。その下の部分にしても、と奸のように同じ要素が入れかわっているにすぎない。
Aのように書けば「水」であり、Bのように書けば「魚」であった。おのおのの文字はいくつかの要素を組み合わせて、つくりあげられたのであった。
の字は、これだけで「稲」のことをあらわす。
これに「種」 という旁をくわえると、 という字ができる。これは「米粒」をあらわした。また「稲」に、「見る」という字 をくわえれば“稲を見る”という意味が生まれてくるであろう。そこで は「秋」ということになった。
人間の「心」は、もちろん“人”偏の宇であった。
このの字のうち旁の部分か“こころ”の意味をあらわした。
これをもとにして、いろいろの要素をくわえると、さまざまの意味をもった字ができる。
Aは心に“無”をくわえた。心がないから「わすれる」ことになる。
Bは“おそれる”をくわえた。そこで「恐怖の心」という意味になる。
Cの旁は“やわらかい”という意味であった。心をやわらかくすることは「孝行」であった。
逆にDのように、心が“おもい”ということになると、「融通がきかない」意味になった。
もう一つ、おもしろい例をあげよう。
左の文字で「骨」は“人”偏であるが、これを“皮”偏におきかえる。
そして、その上に“木”冠をかぶせる。そうすると、木のように皮と骨になる、という意味が生まれてくるであろう。
すなわち「やせる」という字になるわけであった。文字どおり、骨と皮なのである。
さて、西夏の帝国をひらいた李元昊(りげんこう)のことを、宋の記録においては、みずから「嵬名吾祖」と袮した、と記されている。
西夏語を音訳したものに違いなかった。どういう意味なのか。
この「嵬名吾祖」を西夏文字で書けば、右のようになる。
上の二字は李元昊の部族名であり、"ンギウ・ミ"(ngiuh-mih)と発音した。
「聖」という意味もくわわっている。
したがって「聖なるンギウ・ミ」ということであった。
下の二字は「皇帝」という字であり、西夏証では "ングル ンヅオ" (nggur-ndzoh)と発音した。こうした西夏語の発音を、漢字で「嵬名吾徂」と写したわけである。
そこで西夏語の意味をとれば「聖なる大夏の皇帝」ということになろう。
李元昊の名ではなかった。
それにしても西夏文字は、複雑な形であった。
これをおぼえ、使用することは、なみたいていの努力ではなかったに違いない。
数詞といえば、どこの民族でも「一、二、三」というように、簡単な字形を用いる。
計算しやすいためである。
漢字で「壹、貳、参」というような字が用いられることもあるが、これは数字を筆録しておくためのものであって、計算するための字ではない。
ところで西夏文字の数詞は、右のようなものであった。
こういう文字を、いっぱんの民衆がつかいこなしたとは考えられない。
しかし西夏の公用語は西夏語であり、公用文はすべて西夏文字で記すことに定められたのである。
役所の文書は、この複雑な字形で記さねばならなかった。
いかに民族の自立意識による所産とはいえ、役所における能率のほどが、この字形だけからでも想像できるであろう。
西夏の国そのものは、一二二七年、チンギス汗によってほろぼされた。
しかし西夏がほろびたのちも、この文字はモンゴル帝国の保護のもとに、なお用いられていたのである。
じつに三百年あまりにわたって、こうした文字を用いた人々があったと知れば、それはひとつの驚異ではないだろうか。

8 難解の文字
2 西夏文字の解読
西夏文字は、久しい間、ナゾの文字であった。
いや、こうした文字が存在したことさえ、わすれ去られていた。
いったんほろび去った西夏文字が、ふたたび姿をあらわしたのは、一八七〇年(明治三年)における居庸関(きょようかん)刻文の発見であった。
ここには、元(げん)朝のもとに用いられた六種の文字が、きざまれていた。
その一つが、西夏文字であった。
しかも当初は、それが西夏文字であることもわからなかったのである。
それから十年あまりたった。
居庸関のナゾの文字は、西夏の古銭にきざまれた文字と照らしあわせた結果、西夏文字であることが明らかとなる。
これから研究がはじまった。
西夏語の文献も、次々に発見された。
なかでも、カズロフ探検隊がもたらした『蕃漢合時掌中珠』は、ナゾの文字の解読に大きな寄与をなした。
それまでは西夏語の文献というと、仏教の経典を翻訳したものが大部分だったのである。
『掌中珠』によって、西夏の日常語がわかるようになった。
しかし、複雑な形の文字が、どのように読まれたか。
おのおのの文字が、どのような意味をもっているのか。
また、おのおのの文字がどのようにして作られたのか。
これらの諸点を解明しなければ、文字が読めた、とはいえない。
解読はむずかしかった。
中国やヨーロッパの学者が、さまざまに解読をこころみてきたけれども、なかなか完成の域には達しなかった。
この難問をみごとに克服したのが、日本の少壮学者、西田竜雄氏であった。
西田氏の研究によって、いまは西夏文字の全貌がほとんど明らかにされている。
文字の音もわかった。意味もわかった。構成の原理も明らかとなった。
すなわち西夏の正式の国号である。
また、右のように書けば、妙法蓮花(花・浄)の経典(分別ある言葉の道)ということを意味していて、つまり「妙法蓮華経」のことである。
もっとも、ここで西夏文字の音や、文法を述べているわけにはいかない。
現在までにわかっている西夏文字の数は、およそ六千である。
この六千字を組み合わせて、二千語から三千語ばかりの西夏語をあらわしたのであった。
文字の形は複雑であるが、その構成には、やはり一定の原則があった。
漢字における偏(へん)や、旁(つくり)のようなものもあった。この文字の構成法をみてゆくと、西夏人のものの考えかたをしのぶこともできる。
たとえば、左下に二つの文字A、Bがある。
この二字は、偏にあたる部分と、旁の上の部分が共通である。その下の部分にしても、と奸のように同じ要素が入れかわっているにすぎない。
Aのように書けば「水」であり、Bのように書けば「魚」であった。おのおのの文字はいくつかの要素を組み合わせて、つくりあげられたのであった。
の字は、これだけで「稲」のことをあらわす。
これに「種」 という旁をくわえると、 という字ができる。これは「米粒」をあらわした。また「稲」に、「見る」という字 をくわえれば“稲を見る”という意味が生まれてくるであろう。そこで は「秋」ということになった。
人間の「心」は、もちろん“人”偏の宇であった。
このの字のうち旁の部分か“こころ”の意味をあらわした。
これをもとにして、いろいろの要素をくわえると、さまざまの意味をもった字ができる。
Aは心に“無”をくわえた。心がないから「わすれる」ことになる。
Bは“おそれる”をくわえた。そこで「恐怖の心」という意味になる。
Cの旁は“やわらかい”という意味であった。心をやわらかくすることは「孝行」であった。
逆にDのように、心が“おもい”ということになると、「融通がきかない」意味になった。
もう一つ、おもしろい例をあげよう。
左の文字で「骨」は“人”偏であるが、これを“皮”偏におきかえる。
そして、その上に“木”冠をかぶせる。そうすると、木のように皮と骨になる、という意味が生まれてくるであろう。
すなわち「やせる」という字になるわけであった。文字どおり、骨と皮なのである。
さて、西夏の帝国をひらいた李元昊(りげんこう)のことを、宋の記録においては、みずから「嵬名吾祖」と袮した、と記されている。
西夏語を音訳したものに違いなかった。どういう意味なのか。
この「嵬名吾祖」を西夏文字で書けば、右のようになる。
上の二字は李元昊の部族名であり、"ンギウ・ミ"(ngiuh-mih)と発音した。
「聖」という意味もくわわっている。
したがって「聖なるンギウ・ミ」ということであった。
下の二字は「皇帝」という字であり、西夏証では "ングル ンヅオ" (nggur-ndzoh)と発音した。こうした西夏語の発音を、漢字で「嵬名吾徂」と写したわけである。
そこで西夏語の意味をとれば「聖なる大夏の皇帝」ということになろう。
李元昊の名ではなかった。
それにしても西夏文字は、複雑な形であった。
これをおぼえ、使用することは、なみたいていの努力ではなかったに違いない。
数詞といえば、どこの民族でも「一、二、三」というように、簡単な字形を用いる。
計算しやすいためである。
漢字で「壹、貳、参」というような字が用いられることもあるが、これは数字を筆録しておくためのものであって、計算するための字ではない。
ところで西夏文字の数詞は、右のようなものであった。
こういう文字を、いっぱんの民衆がつかいこなしたとは考えられない。
しかし西夏の公用語は西夏語であり、公用文はすべて西夏文字で記すことに定められたのである。
役所の文書は、この複雑な字形で記さねばならなかった。
いかに民族の自立意識による所産とはいえ、役所における能率のほどが、この字形だけからでも想像できるであろう。
西夏の国そのものは、一二二七年、チンギス汗によってほろぼされた。
しかし西夏がほろびたのちも、この文字はモンゴル帝国の保護のもとに、なお用いられていたのである。
じつに三百年あまりにわたって、こうした文字を用いた人々があったと知れば、それはひとつの驚異ではないだろうか。
