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4-8-2 北魏の均田制

2019-08-07 22:32:59 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年

8 雲岡と龍門
2 北魏の均田制

 雲岡の大石仏群をのこした北魏は、中国北部の漢人支配を、いったいどのようにしてすすめていったのであろうか。
 政治的な支配とは、いっぱんには人を支配するのであるが、とくに農業が中心の時代では土地を通じて人を支配する形をとる。
 そのために土地制度が重視される。
 北魏のはじめにおこなわれた制度に「計口受田(けいこうじゅでん)」というものがあった。
 これは占領地の漢人を何十万人も首都平城のちかくに強制移住させ、耕牛や農具を支給し、人口に応じて(計口)、土地を割りあてた(受田)。
 そして、この対象となった人たちは、耕牛を政府から借りている場合は収穫の八割を、自分で耕牛をもっている場合も、収穫の七割を政府におさめねばならなかった。
 このような高率なとりたては、それらの人々をひどい境遇におとさせた。
 これは北魏の政府が、まだ農業社会の統治になれず、むちゃくちゃな治めかたをしたため、と考えられよう。
 きびしい政策のために自暴自棄となって、逃亡するものもあり、またこの機会を利用し、逃亡者の土地をあつめて大地主となるものもあらわれた。
 農村を安定させ、国家の収入を増大させるには、いちだんと進んだ土地制度が必要になったわけである。
 つまり、国家は、労働力に応じて一定の田土を割りあて、国家のにぎっている土地と人民を、有効に利用しなければならない、と考えるようになった。
 しかし現在のように進歩した世のなかでも、国家が人民ひとりひとりの所在を確実につかむことは、なかなかむずかしい。
 まして国家が人民ひとりひとりに土地を割りあてるとなると、確実に整備された戸籍が、まず必要となる。
 また土地を割りあてるために、戸籍を作製しようとすると、そこに利害関係がからみ、むずかしい問題がでてくる。
 北魏は、この問題を解決するために、隣組の制度をつくって、たがいに監視しあい、また連帯責任によって正しい申告をさせるようにした。
 この制度を「三長制」とよぶ。これは五戸で隣(りん)をつくり、五隣で里を、五里で党をつくり、それぞれに隣長・里長・党長をおいたので、三長制というのである。
 この三長制を前提にして、国家が田土を人民に割りあてる考えかたを、具体的な政策にうつしたのが、すなわち均田制であった。文成帝の孫にあたる孝文帝が太和九年(四八五)に実施した。これらの田土は、男にも、その妻にも、一定の割合であたえられる。
 (ぬひ=どれい)にも、ふつうの良民とおなじように給せられる。また丁牛(一定年齢の牛)にも給田があった。
 や、とくに牛にまで田土が割りあてられていることを、ふしぎに思う人があるかも知れない。
 これは労働力を多くもっているものに、それだけ多くの給田がなされたわけなのである。
 べつの面からいえば、これまでの大土地所有者は、土地をもっているだけでなく、かならず労働力ももっているにちがいないから、この土地政策は大土地所有を認めるやりかたでもあった。だから均田制が実施されたといっても、けっして大土地所有者をなくしたわけではない。
 これまでの土地所有関係に、急に大きな変動をおこしたのでもない。むしろ労働力に応じて土地を割りつけ、すこしでも多くの土地を耕作させ、そこから税収入をあげようとしたわけである。そこに均田制の目的があった、とみることができよう。
 ところで、均田制の実施される前に、税は戸(こ)ごとにかけられていた。
 戸がひとつのまとまった家計をいとなんでいるのが普通であるから、ひとまず合理的にみえよう。
 しかし税制がからんでくると、ややこしい問題がおきることは、今もむかしもかわりはない。
 戸を単位にして税をかけると、実際には戸のなかが何十の家計にわかれていても、それを一戸としてとどけておけば、一戸(こ)分の税でよいことになる。

 当時においても実際にそういう問題がおこってきた。そこで均田制を実施してから後は、「床(しょう)」とよぶ夫婦単位に税をかけることにして、大戸の弊害をのぞいた。
 そして一夫婦で穀物一石、帛(きぬ)一匹(一匹は四十尺)とし、には一般庶民の八分の一、耕牛には二十分の一の税が課された。
 と耕牛は、給田の額にくらべて、税の面でも優遇されている。
 つまりや耕牛をたくさんもつ大土地所有者に有利であった。
 均田制とはいっても、すべての人民に公平に土地があたえられ、公平に税がかけられたのではない。
 このような均田制の実施が、北魏という王朝における漢人支配の基礎であった。
 しかし、この制度を実施したことから、土地の帰属をめぐって、いろいろとむずかしい問題もおこってきた。
 たとえば流亡していた人が帰ってきたとき、土地の所有問題で裁判がながびいたことも記録されている。


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