『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
14 西から寄せる波
4 清末への道
明代末期からの洋学の実用化は、清代の初めにいたっていっそう進展した。
実用に供された最大のものは、けっきょくは、大砲と洋暦であったかも知れない。
建国初期、紅夷砲にくるしめられた清朝では、そののち積極的に大砲の導入をはかった。
漢人の火器部隊が重視されたのは、その一面をものがたる。
もっとも紅夷の夷は夷狄に通じ、夷狄の清朝に通じるとして、紅衣と改称するなどのいきさつもあった。
しかし大砲を重視したことは、紅衣大将軍などという名を付したことからも、うかがえよう。
夷を衣と改めるところには、清朝の夷狄性に対する神経質な配慮がある。
儒学を熱心にとりいれる必要性をみとめ、中国の王朝としての正当性を主張する清朝においては、それは現実の問題であり、中国知識層への対策でもあった。
それだけに、筆禍事件といういまわしい非情さを、一方では強く打ちだす始末であった。
洋学に基礎をもつ実用の大砲や暦法は、清朝の必要とする現実の問題であった。
清初における宣教師の活動は、その限りにおいて有益であったといえるかもしれない。
しかし、もともと宣教師の意図は、キリスト教の布教にあった。
ひとたびその布教が、中国古来の儒家思想と、それに密着する行事や慣習を否定するものとなったとき、儒教の重視を決めた清朝の立場とは、あいいれないものとなる。
キリスト教の禁止は、清朝にとって、必然ではなく選択であったろう。キリスト教とそれに合わせて伝えられる洋学を受け入れていれば、清朝には別の未来があったかもしれない。しかし、清朝は長期的な可能性よりも、短期的な政治の必要を優先した。
実用に役だつ洋学を重視した清朝であったが、帰するところは、儒学とキリスト教との対決という現実問題のなかにおいては、布教の禁止と宣教師の弾圧へ踏み切った。乾隆の貿易制限は、こうした現実とのからみあいのなかですすめられたものの一つといえよう。
それはまた、明朝以来の海禁問題につながるものであった。
皇帝と漢人官僚や知識人、皇帝と洋人宣教師、また皇帝と人民というように、五族の中国を建設した清朝には、これら多くの問題のなかで、現実の政治や社会や文化など、あらゆる面で矛盾を生んでいた。
そうした矛盾は、その克服をめざすことによって、あらたな矛盾をうみだし、一歩一歩と、末期への道をたどりはじめたのである。
そこには、歴代の王朝と似かよった要素が、決してすくなくはない。
しかし、夷狄の王朝という要素は、やがて表面化せざるをえない問題であった。
清朝が農耕社会にその拠点を置くかぎりは、さけがたいものであった。
さらに世界の動きから、みずから目をとざす結果をえらんだことが、清末への道に、いま一つの要素を投げかけた。
時代は大きく動きはじめていたのである。