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地獄の永遠性「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』

2023-09-15 03:20:40 | 天国・地獄

マキシム・プイサン神父「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年

28.地獄の永遠性

 無宗教、冒漬、淫乱、偽善に凝固まった罪人の受けねばならぬ後の世の種々の苦しみについて、天啓と公教会の教とによって、すでに述べた事の外、この上に云うべき言葉を知らぬが、この最も恐るべき事の他に、又一層恐るべきは、彼らの苦しみは限りがないのであるから、永遠に受けねばならぬと云うことである。

 地獄は永遠のものにあらざるか?地獄の苦しみは永遠である。これは信ぜねばならぬ信仰箇条の一つである。大祖ヨブとモイゼとの言葉によりてみれば、地獄に於て「永遠の驚きがある」と示しており、原文は之よりも強い意味を含んでいる。即ち「センピテルヌス」という言葉でその意味は「何時までも永遠即ち限りなしの永遠」である。

 福音の中でイエズス・キリストは「地獄の火は永遠であり、その苦しみも永遠である」と示されている。審判の時イエズス・キリストは我々各自に対して次の二つのどちらかを宣告される。

一つは
「来れ/祝せられたる者よ、世界開闘より汝らのために備えられたる国を得よ。」(マテオニ十五~三十四)

もう一つは
「呪われたる者よ、我を離れて悪魔とその使等とのために備えられたる永遠の火に入れ。」(マテオニ十五~三十四)

 地獄に於ける苦しみは限りがなく、柔ぐ事もない。かく思わぬ者は「永遠」という言葉の意味を解せぬ者なるに説明する必要がある。

 「永遠」という言葉の意味は現在の時と全く異なる。今の世は時間の継続に成り立っておる。その時刻を合わせたら、秒分、時、週、月年、世紀となる。この世は時間があるから変ずる事がある。しかし時刻が無いとすれば、継続的存在の状態でない故この世にある事と比べる事は出来ない。そして我々はこれを知ることは出来るが、解する事は出来ぬ。

 是れ来世の神秘であり、真に天主御自らの永遠の存在に与かる神秘である。光は一秒間に於て七万五千里走る。太陽の光りは我々が住んでいる地球に届くため八分間か、る。星の光も、同じく一秒間に七万五千里走る。我々に届くまで何十、何百、何千年もかかるもの、開關以来いまだ地球に届かないものがあるとすれば、大宇宙に含まるる空間は測り知る可からざる蒼空の深さに、数字を一杯積んだ程の年数が過ぎたとすれば、永遠を表わすには如何であろうか?まだまだ足りぬ。この想像も出来ぬ大数が過ぎても、永遠は終りがなく始まりだけである。

 恐ろしいかな、我々は恐ろしい事実に面している、「永遠」この世に於て、朝露の如く、消ゆる楽しみを追うて暮す人々に取りては、実に恐ろしい言葉であり、また天国と天主の愛とをのぞんで暮す人に取りてはこの上なき慰あの嬉しい言葉である。

 もし天主が地球全体、内、外面とにある木、石、山、海など、なお、太陽、月、星、計かるべからざる空間の星を皆、堅いダイヤモンドと変したとして、このダイヤモンドの魂りに天主の赦しによって一匹の蟻が百万年に一度その上をはって、摺り減らすとしたら、如何程年数が要るか?その魂を失くするまでの数は真に想像の出来ぬ数であるが、その年数が過ぎてからも永遠は始まるのである。聖トマ博士が云ったとおり、「永遠」とはすべて一体であり恒久(いつまでもその状態が続く)の現在であり、不可分であり、不変である。





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