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力トリックの答え:神を探す心 ー 目に見えるものを通して

2020-11-09 09:05:07 | 神を探す心
アロイジオ・デルコル神父『神を探す心 ー 目に見えるものを通して』

◆10、力トリックの答え

 さて、カトリックは、感覚的な現象にだけ重きを置くような実証論者に対してーすなわち、五官で感じられることだけを事実と信じて、五官に触れないから神はいないと主張する人々に対して次のように答えます。

一、生活は、単に現象の集まりだけでなく、そこに問題があり、問題には解決まであるということ。

二、また、その具体的な現象には、しばしば原因の説明が求められ、この宇宙のそれを説明するために、神にまで遡らねばならないと説いています。

 すなわち、キリスト教のとっている立場は、これです。

 第一に、神の存在とその権利を教え、次に、神がその御独り子をこの世にお遣わしになったこと、そして、そのみ教えを確認します。

 キリスト教は、この立場をもって、神と同時に、人間をも弁護することができます。

 もし神の存在を認めない人たちが、権利を握ったとすれば、他の人間を、どのように取り扱うかわかりません。彼らは、人を殺そうと、迫害しようと思うままです。なぜなら、自分が絶対的な主であるかのように考えるようになった人たちだからです。そこに公共福利の面から見ても、神の存在とキリスト教から享受する利点があります。

 聖書の中には、使徒聖パウロの言葉があります。彼は「不義によって真理を妨げる」偶像崇拝者に対して言ったのですが、その偶像崇拝者は、昔だけでなく、現代にもいるのです。

 しかし、現代の偶像は、単に幼稚な黄金の牛とか、古びた像というように、物質的なものではありません。そんな物質的な偶像がなくても、思想それ自体が、偶像になりうるのです。では、その言葉を、ここに引用してみましょう。

「神について知りうることは、彼らにとっても明かである」(ローマ1:19)と。この言葉の意味を裏返すと、「もし、明かでないといえば、知恵がない」ということになります。

 例えば、ある人が、「私は見えない」と言ったとします。「では、あなたは、盲人ですね」といえば「いいえ、とんでもありません。私は、ちゃんと目を持っています」と言ったとします。

 すると、どういうことになるのでしょうか。つまり、その人は、ちゃんと目を持っているのに、見たくないから、わざと盲人の振る舞いをしているということになるのです。

 結局、見えないからといって、それは、光がないとか、あるいは、自分に、十分な目がない、というわけではないのです。見えないように、隠してしまったのです。すると、見えないからといって、責任がないということにはなりません。それどころか、大きな責任があるのです。このことを、神の存在に対する人間の知恵という目に、あてはめて考えてみると、すぐにわかります。

おわり


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