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健全な精神:神を探す心 ー 目に見えるものを通して

2020-11-03 04:14:01 | 神を探す心
デルコル神父『神を探す心 ー 目に見えるものを通して』

◆5、・・・健全な精神

 これは、鍛錬を怠った体の哀れな結末ですが、知恵も使わないでおいたら、どんなことになってしまうのでしょうか。

 そうです。幼ないころ、あれほど「なぜ?」をくりかえしていた子供も、しばらくすると、すっかり考えなくなってしまうのです。今度は、前の例とは反対に、知恵をあまり働かせずそのままにしておくと、その結果は、次のようなことになってしまいます。つまり、「あなたは、神について、考えたことがありますか?」「なぜ、この世に生まれてきたのですか?」「何の目的であなたは生きているか考えてみたことがおありですか?」と聞かれても「いいえ、べつに・・・」と答えるより仕方がないような甚だしい無知を招きます。そして、これは、二〇歳、三〇歳、四〇歳と年をかさねても、少しも進歩はしないのです。

 すると、一体、人間の生き甲斐というものは、どこにあるのでしょう!人は、何の為に、汗水たらし、泣いたり苦しんだり、さんざん苦労を重ねながら生きていくのでしょう?
 では、人間には、どんな幸福が約束されているのでしょうか?
 金を貯めることか、商売にうちこんで成功をおさめること、あるいは、思いがけない出世をつかむことが、それでしょうか?
 もちろん、それらは悪いことではありません。できることなら、そうありたいものです。ところが、人聞は、けっして、それだけでは満足できない性質をもっています。

 人間の心の底に燃えている憧れと比べるなら、こんな物質的な好条件は、大海の水一滴ほどの値打ちもないのです。
 そうです、人間には、知恵を使うことが必要なのです。そして、その知恵は、いずれに向かっているかといえぱ、物事の理由です。
 物事の理由?そうです。そこで直ちに問題がでてきます。自分の命の始めと、その源、および、その目的について解決を与えないといけなくなります。

「命の始めですって?それなら、自分の親に決まっているじゃありませんか」とある人たちは言うかもしれません。しかし、問題は、そこにあるのではありません。

 もっと長く、もっと深く、もっと遠いその”はじまり"と、”目的"とを、調べないなら、知恵があるというには中途半端です。
 はじめと目的 それは、いったい何のことでしょう?
 すべての物の始め、すべての物の目的である神がそうです。

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