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7-12-4 アンリ四世のとんぼ返り

2023-11-12 04:46:25 | 世界史
『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
12 聖バルテルミーの虐殺
4 アンリ四世のとんぼ返り

 虐殺は解決ではなかった。カトリック教徒たちは、これで勝利をえて、宗教対立は終わったと思ったらしいが、プロテスタントは屈服するよりも硬化し、王権にも反抗するようになっていった。
 プロテスタントの理論家のなかには、悪い王に対しては、反抗の義務があると主張する者も現われた。
 一五七六年、宮廷からひそかに脱出したアンリ・ド・ナバールはいつわりの改宗をすてて、ふたたびプロテスタントの指導者に返った。
 カトリック側も「リーグ」(カトリック同盟)をつくって対抗する。
 一方、シャルル九世は一五七四年五月末、二十四歳で他界した。
 「あの事件」に対する悔恨の念が、死期を早めたとうわさされた。
 ポーランド王となっていた王弟アンジュー公アンリが、アンリ三世(在位一五七四~八九)として即位した。
 新王は国内の和平を求めて、プロテスタントと歩みよろうとしたが、これに反対したのは、ギーズ公アンリを中心とするカトリック同盟の熱狂的なカトリック教徒たちである。
 いまやギーズ家は、王位をもおびやかす勢いである。
 こうして三人のアンリがプロテスタントの指導者、国王、カトリック教徒の首領として対立するにいたった。
 このいわゆる「三アンリのたたかい」は、一五八四年王の弟で王位継承者フランソワの死によって、激化した。
 アンリ三世には嗣子がなく、相続の順位はプロテスタントのアンリ・ド・ナバールなのだ。
 これに対して、ギーズ家は系図学者を動員して、その一門から王位継承者をつくりだした。
 同じカトリックでありながら、二アンリの対立はきびしい。
 ギーズ公がパリの熱狂的なカトリックから、「息もとまるほどの歓呼に迎えられた」ありさまに接して、このパリからブロワに移ったアンリ三世は、最後の手段に訴えた。
 一五八八年末、ブロワの城に招かれたアンリ・ド・ギーズは、「まさかやるまい」と気が弱い王を見くびっていたが、これが運のつきであった。
 王はギーズ公暗殺ののち、死の床に横たわっている老母カトリーヌにいった。
 「私だけがフランスの王となりました、私はパリの王を殺したのだから。」
 ブロワの暗殺は、カトリックにとっての「聖バルテルミーの虐殺」に比すべきものであった。
 アンリ三世は一五八九年八月、復讐をめざすカトリック側の暗殺にたおれ、三アンリのうち、一人残ったプロテスタントのアンリ・ド・ナバールが即位した。
 カトリックが多い国民のなかのプロテスタントの王として――。
 新しい王、ブルボン朝をはじめたアンリ四世(在位一五八九~一六一〇)はまず王国を
 そしてフランスの王であるためには、首都パリを支配することが必要であるが、各地における戦勝にもかかわらず、このパリ攻略は成功しなかった。
 いまや多年の争乱に、フランスは衰退している。
 田畑は荒れ、交通は絶え、生産は振るわず、野盗は横行した。

 国民のなかには、国の平和、統一、秩序を要望する声がしだいに強くなってきた。
 これを実現させるためには、国民の多数をしめているカトリックを満足させねばならぬということを、アンリ四世はさとった。
 一五九三年七月、王が寵姫(ちょうき)ガブリェル・デストレにあてた手紙は語っている。
 「この日曜日に、私はひとつとんぼ返りをうつことにしよう。」
 つまりカトリックヘ改宗するということである。
 これは七月末に実現し、翌年三月王はついにパリにはいることができた。
 一部の狂信的な分子をべつとして、多くのカトリックはこの政策的な改宗を歓迎したのだ。
 さらにアンリ四世は軍事力、買収、その他手段をつくして反対勢力を懐柔していった。
 王は自分の改宗が手本となることを望んだ。
 しかしプロテスタントはこれに好意を示さず、依然としてカトリック教会を「ローマの野獣」などと呼んでいた。
 一五九八年四月、アンリ四世が発した 「ナントの勅令」はプロテスタントに信仰の自由をはじめ、一定地域における礼拝や出版、あるいはすべての職業につく自由、安全保障などを認めて、一種の休戦を作りだしたものである。
 その政略的性格はともかく、宗教上の寛容という点で、ナントの勅令は中世との訣別ともいうべき大きな意味をもっている。
 こうしてフランス宗教内乱は妥協に終わり、王権は生き残ったのであり、やがて十七世紀になると、ブルボン王家の最盛期がおとずれるのである。
 最後にひとつのエピソードをしるしておこう。
 アンリ四世は即位してまもなく、したがって内乱中の一五九〇年一月、モンテーニュに手紙を送って、顧問としてつかえてくれないかと頼んだ。
 モンテーニュは王の好意に感謝しながらも、年をとりすぎているからと、ことわったということである。
 ミシェル・ド・モンテーニュ(一五三三~九二)――貴族の出で、六歳までラテン語ばかりで育てられたというモンテーニュ、ボルドー高等法院の法官から市長をつとめたモンテーニュ、彼はまた有名な『随想録(エセー)』(一五八〇年から発行された)で、フランス・ルネサンス文学を代表している。
 そして彼ははっきりとしたカトリックではあるが、なんども生命の危難をかえりみず、両教徒の和解のためにつくしていたのだ。
 アンリ四世はまえからこのモンテーニュを尊敬しており、いまや王になったとき、その知恵を政治のうえに生かしたいと願ったのであろう。
 『随想録』はむろん、フランス語の「試みる(エセイエ)」という言葉から出ている。
 この本はモンテーニュが人間について、人生の諸問題について、健全な懐疑精神をもって考え、論じたもので、人間性の探求者、人間の生きかたの論者、つまりモラリストの文学というフランス文学の重要な一つの形式のうえに、大きな影響を与えた。
 このモンテーニュの言葉に、《Que sais-je?》というのがある。
 わたしはなにを知っているか、なにも知ってはいないではないか、という意味であろう。
 人間がみな、こういう謙虚な気持ちをもって、そしてまじめに真実を求めてゆくならば、「聖バルテルミーの虐殺」のような悲劇はおこらなかったであろうか……。




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