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3-9-1 富国と強兵

2018-09-07 15:33:54 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

9 富国と強兵

1 胡服(こふく)と騎射(きしゃ)

 晋の国から分立した三国(三晋)のうち、北方に地を占めたのが、趙(ちょう)である。
 はじめは晋陽(しんよう)に都していたが、やがて邯鄲(かんたん)にうつった(前三八六)。
 ところで趙(ちょう)の西境と南境は魏(ぎ)につながり、東境は斉と接している。
 しかも趙の実力は、この両国におよばない。趙として発展すべき地は、北方にかぎられた。
 北方は「胡」とよばれた遊牧民族の住地である。
 前四世紀の末、趙では武霊王の代であった。即位してから十九年(前三〇七)、武霊王は軍をひきいて北上した。
 かくて国の北辺をきわめ、さらに西へまわって、黄河のほとりにいたった。
 これより北、および西は、すべて胡人の地である。
 この遠征によって、武霊王はふかくさとるところがあった。
 そうして思いついたことが、服装をかえることであり、戦術をあらためることであった。
 武霊王は重臣たちを招いて、いまよりは胡服を着し、騎射をならわせることをつげた。
 中国人の本来の服装は、上から下までゆったりと長く、袖もひろいものであった(ワンピース)。
 これに対して北方の遊牧民(胡人)は、馬に乗るのに便利なように、袖のほそい上衣と、ふといズボンを着している(ツーピース)。
 そうして馬上から弓を射るのが特技であった。こうした胡人の習俗を採用したのである。
 もとより群臣の間には、固有の風習をすてることに反対はすくなくなかった。
 しかし武霊王は、あえて胡俗にふみきった。胡服と騎射の効用は、やはり大きかったのである。
 これによって趙の国力は、日ましに高まった。
 燕との国境にあった中山(ちゅうざん)国も、やがてほろぼした。さらに武霊王は、西北はるかに遠征をつづけ、黄河の北方にあたる雲中(うんちゅう)や九原の地まで、領土をひろげたのであった。
 その二十七年に、武霊王は王位を太子にゆずり、国政をまかせた。これが恵文王である。そして武霊王みずからは、主父(しゅほ)と称して、もっぱら外征にしたがった。
 胡服して戦陣を走るのが、主父たる武霊王の仕事となった。はじめ武霊王は、韓の国から王女をむかえて夫人とした。その間にうまれたのが、長子の章であり、太子に立てられた。
 その後、孟姚(もうよう)という美女を得ると、寵愛のあまり外出せぬこと数年、やがて王子の何がうまれた。
 愛におぼれた武霊王は、さきの后と太子を廃し、孟姚を后に、何を太子に立てた。
 この太子何が、恵文王となったのである。主父と称してからの武霊王は、長子の章が弟の新王に臣礼をとっているのをみて、あわれみをおぼえるようになった。
 くわえるに新王の母たる盂姚も、すでに死んでいる。 主父は趙の国を二分し、章を代の地において王に立てようと考えた。

 その計画が実現にいたらぬうちに、章は乱をおこした。恵文王はただちに兵を発し、章の徒党をやぶった。
 公子章は主父のもとに走った。主父は章をかくまって、門をとじた。
 王の軍は、やむなく主父の宮殿をかこんだ。
 その攻撃によって、ついに章は殺され、一味はほろぼされた。主父のみが宮殿に残っている。
 王の側近は、主父をたすけることによって、かえって誅殺(ちゅうさつ)されることをおそれた。
 包囲はつづけられ、宮殿には食糧がなくなった。主父は雀(すずめ)の子まで食べたという。
 こうして三ヵ月あまり、主父は餓死した。ときに恵文王の四年(前二九五)であった。


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