
『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
10 悲劇の女王メアリー・スチュアート
5 エリザベスの苦い勝利
たしかにエリザベスはメアリーの味方であった。
しかしそれは彼女個人に対してというよりも、君主としての連帯性、王権力神聖不可侵という点で、同じ女王のメアリーが家臣の反抗を受けたり、監禁されたりすることに耐えられなかったのだ。
したがっていま、現実に自分を頼ってこられると、エリザベスはこの背負いこんだ大きな重荷に驚き、当惑せざるをえない。
それにしてもエリザベスが自分の感情だけで事を処しえたならば、この落ちぶれたライバルを、女としての優越感をもって迎え入れたかもしれない。
事実エリザベスはメアリーを、自分の宮廷に住まわせたいと思ったほどである。
「ただしそんなことが起これば」と、駐英フランス大使は名言をはいた。
「一週間とたたないうちに女同士の争いが起こって、二人の友情はおさらばでしょう。」
幸か不幸か、イギリスの現実は「女の争い」よりも深刻であった。
メアリーはイギリスの王位継承権をもつうえに、プロテスタントの敵であるカトリックではないか。
エリザベスに不満な勢力は、この新しい存在の周囲に結集するであろう。
宗教改革、対抗宗教改革がうずまく時代に、メアリーは好むと好まざるとにかかわらず、カトリック勢力の中心人物という宿命からまぬかれることはできなかったのだ。
したがってエリザベスの側近にしてみれば、「女王さまが狼のような剣呑(けんのん=危険)なものを身近におく」ことは、なんとしても恐ろしかった。
しかしエリザベスも政治家である。
彼女はスコットランドの摂政政府とメアリーとのあいだに立って、あいまいな仲裁裁判を行なったのち、なおもスコットランド王権を主張するメアリーを、拘禁することとした。
「ついに女王さまは狼の耳をおつかまえになった」わけである。
ただしメアリーは女王として待遇され、年金も送られ、かなり贅沢(ぜいたく)な生活が許された。
そして彼女はスペイン側へ、あるいはフランスのほうへなにか情報を流したり、イギリスやフランスやオーストリアの大貴族たちに恋文を書いたり、逆にもらったり、脱走の計画をしたり、また反エリザベスの工作をしたり……見た目には彼女らしい日々であった。
しかしじつは、孤独で空虚な日々の連続ではあるまいか。
歳月は過ぎ去り、若かったメアリーももう四十歳となった。
スコットランド王ジェームズ六世は母にまったく無関心であるうえに、イギリス側は二人が結びつくことを恐れて、両者の連絡を妨害した。
しかしメアリーの心の底では、むしろジェームズから実権を取りあげて、自分に反抗した貴族たちに復讐(ふくしゅう)したい気持ちが絶えなかったらしい。
一五八六年一月のこと、このメアリーのもとに秘密の手紙が舞い込んできた。
一年あまり、ほとんど外界の消息を絶たれていた彼女は、これを喜んだが、それはカトリックの青年貴族バビントンを中心とする、エリザベス暗殺計画に関するものであった。
しかしこの計画はウォールシンガム(一五三〇ごろ~九〇)のスパイによって摘発されたが、このエリザベスの親任あつい政治家は巧妙な情報網を組織していたのだ。
そしてウォールシンガムはこの機会を捕え、これまでたびたび反エリザベスの陰謀に関係してきたメアリーに、とどめを刺したいと思った。
一説によればウォールシンガムの策謀によって、メアリーはこの暗殺計画に文字で同意を与えてしまった。
エリザベスは側近のこの策動を知っていたのか?
知りながら傍観していたのか?
あるいは喜んで助長したのか? また一説によれば、メアリーの手紙中のエリザベス暗殺に関する個所は、偽筆だともいわれる。彼女自身は語った。
「最愛のお姉(ねえ)さまの殺害を計画したりして、自分の魂を永劫(えいごう)に滅ぼしてしまうようなことを、どうして私がいたしましょう。」
ともかくメアリーのもとにイギリスとスコットランドとが統一され、カトリック信仰が回復されることを期待していた反逆者たちは捕えられ、残酷な処刑が待ちうけていた。
ロンドンの市民たちは、陰謀があばかれ、女王の身が安泰であることを祝しあった。
そして「助けを求めて逃れてきた鳥を殺すことはできまい」といい、その鳥を十何年も生殺(なまご)しにしてきたエリザベスも、いよいよ態度の決定を迫られる。
一五八六年末法廷はメアリーの死刑を宣告した。
フランス王アンリ三世からは、恩赦の願いがとどいた。
エリザベスは死刑に処すべきか、恩赦を選ぶべきか、ためらった後、ついに前者を決意する。
しかしエリザベスは、死刑許可書に署名してからも、使者がその封印を急いだからといって、これを叱りとばしたという。
メアリー・ステュアートの刑死は一五八七年二月八日である。
刑吏の手もとが狂い、立ち会った人びとは斧の鈍いひびきを二、三度聞いた。慣例により死者の頭が持ちあげられたとき、刑吏がそのかつらをつかんだため、それは銀髪を見せて死刑台上にころがった。
彼がもう一度拾いあげると、人びとは叫んだ、「イギリス女王、ばんざい!」メアリーの愛犬がだれにも気づかれず、主人のあとを追ってとびだし、胴体だけとなった屍(しかばね)から離れようとしなかった――。
四十四歳。しかしメアリー・ステュアートのデスマスクは、その愛らしい面影をなお後世のためにとどめている。
処刑の報によって、ロンドンの市民たちは鐘を鳴らし、町々に火をともして喜びあった。
メアリーの存在は彼らを絶えず不安にしていたのであり、祝賀は一週間以上もつづいた。
このわきかえる市民たちにくらべて、エリザベスはただ一人一室に閉じこもり、女性というよりも、女王たるものの宿命のために落涙したという。処刑の責任を自分の周囲の政治家たちに帰することが彼女のせめてもの慰めであったかもしれない。
スコットランドはこの極刑にはさすがに激昂(げっこう)したが、ジェームズ王は将来のことを考えて慎重な態度をとった。
なぜなら、エリザベスが独身をつづけているかぎり、イギリスの王位は自分にころがりこんでくるからである(一六○三年に実現)。
フランスの怒りはスコットランド以上であったが、宗教内乱をかかえたアンリ三世は、対英戦争にふみきるほどの執着はなかった。
スペインは?
当時の植民地帝国スペインに対するイギリスの心憎い挑戦は、スペイン王フェリペ二世を刺激せずにはいなかった。
また宗教改革のただなかで、カトリック世界のリーダーをもって任ずるフェリペに対し、エリザベスはプロテスタント側に立ち、フランスの内乱やオランダ独立戦争を通じて、両者の関係は悪化した。
フェリペもかってこのイギリス女王に求婚したこともあったが、彼女はさんざんじらしたすえ、これをはねつけたのだ。
あるときエリザベス暗殺計画について、フェリペ二世はみずから、「神が余に恵みを与えたまわんことを」とさえ書いたという。
いまやこのフェリペにとって、最大の希望であるメアリー・ステュアートが失われた。
名実ともにヨーロッパに並ぶものなきこの大王も、白髪が目立つときを迎えている。
フェリペもエリザベスもたがいに年をとった。
