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9-5 ローマの起源の実態とエトルリア人

2018-03-09 05:05:14 | 世界史
『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年

9 ローマ建国の伝説と事実

5 ローマの起源の実態とエトルリア人

 ロムルス、レムスの双生児伝説もそれ自体は史実でなく、後代に作られたものであり、ローマという名称もエトルリア人の種族名ルーマに由来していると考えられている。
 ただしカピトリヌス丘の牡狼の立像はすでに前六~五世紀ごろにつくられている(その乳を吸う双生児は、はるかに後代のルネサンス時代の作である)。
 最近の研究では、パラティヌス丘にまず最初の貧しい集落が作られたのは、紀元前十世紀ごろにさかのぼり、紀元前八世紀ごろに、初めてエスクィリヌス丘やクィリナリス丘に集落はひろまり、いくらか都市的な性格をもつようになり、ついで紀元前七世紀には、七つの丘、四つの区域を含むようになった。
 この共同体の首長には王がおり、王は最高の軍司令官、裁判官、祭司(さいし)でもあった。
 王とならんで大氏族(ファミリア)の族長(パトレス)をメンバーとする元老院があり、大氏族はさらに氏族(ゲンテス)にわかたれていた。
 このほかにあとからの移住者、外人などが平民として住んでいた。
 平民のうちのある者は、族長と被護関係(クリエンテラ)で結ばれていた。
 同時に共同体の全成員は、三つの部族と、それぞれ十の地区(クリア)に編成されていた。
 このクリアの成員によって構成されているクリア会は、のちに勢力を失ったが、共和政時代になっても、執政官は、クリア会の形式的承認を得なければならなかった。
 ローマの建国の年代は、伝説的な紀元前七五三年がのちに公認されて、ローマ紀元の元年となったが、歴史的な裏づけはない。
 ラテン人とサビニ人が建国に係わりをもったことは認められるとしても、ローマが都市国家の体制を整えるようになったのは、エトルリア人の支配がはじまってからである。
 エトルリア人がいつごろからローマを支配するようになったかは諸説があって、はっきりしないが、およそ紀元前六世紀中ごろとする説が有力である。
 エトルリア人は小アジアのリュディアから来た、というヘロドトスのいい伝えが有力であるが、イタリア土着とする別の伝え(ハリカルナソスのディオニュソス)もあり、北方からアルプスを越えてイタリアに来た、という近代の説もある。
 最後の説は最近は支持する学者も少ないが、土着説のほうは主としてイタリアの学者によって強く主張されている。
 この問題はなお決着がついていないが、エトルリア人はおそらく単一の要素ではなく、土着要素に外来要素、とくに小アジアよりの移住民を加え、のちになってはじめてエトルリア人という民族が形成されたのではないかと思われる。
 エトルリア人はトスカナ地方を本拠としながら、紀元前六世紀には、南はカンパニア、北はポー川流域に達し、カルタゴと同盟し、紀元前五四〇年ごろ、アラリアの戦いで前に書いた西方ギリシア人の雄フォカイア人を破って、コルシカ島を領有し、その周辺の海にティレニア海(エトルリア海の意)という名を与えた。
 エトルリア人が結成した十二都市の同盟は、政治的なものというよりは、むしろ宗教的な結合で、各都市には王政がしかれたが、しだいに戦士貴族層が実権を握った。
 エトルリア人の発展は、トスカナ、エルバ島の鉄をはじめ、銅、鉛、銀の鉱物資源や、豊かな農業、林産資源にめぐまれたことにもよるところが多かった。
 エトルリアの文字は、まだ少ししか解読されていない。
 彼らはギリシア文化をうけいれながら、独自の高い文化をつくりだした。彼らの文化は今日残っている古墳によって、いちばんよく窺(うかが)い知ることができる。
 古墳の陶棺や壁画には、すぐれたものが少なくないが、彫刻にも「ヴェイイのアポロン」「怪獣キマイラ」などの傑作が知られている。
 また、エトルリア人の制度やしきたりで、ローマに伝わったものは少なくない。
 身分の高い役人が街路を行くとき、露払(つゆはら)いの下役人が何本もの棒と斧を束ねたファスケスというものをかついで歩く。
 これは高官の権力を表わすものであるが、もとはエトルリアから伝わったもので、これから「団結」を意味する「ファフショ」という言葉ができ、「ファシズム」の語源となった。
 ローマ建築の特色として知られるアーチも、ローマ人はエトルリア人から学んだし、凱旋行列、それにあのむごたらしい剣闘士の真剣勝負や、猛獣との格闘も、エトルリア人に由来するものといわれている。
 ローマは宗教のうえでも、エトルリア人のなかだちによって、神々は人間のような姿態をもち、神像・神殿を建立するギリシア的な宗教観念を導入した。
 カピトリヌス丘上にはジュピター、ジュノー、ミネルヴァの三神を祀(まつ)った神殿が建立された。
 このようなエトルリア人の支配のもとに、ローマは経済的、文化的に体裁を整えてきたが、紀元前六世紀の末、タルクィニウス氏がローマ貴族に放逐されて、共和政が樹立された。



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