
『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
6 銀をめぐる波紋
2 紙幣から銀へ
「大明宝鈔(紙幣)を発行して、銅銭とともに通用せしめん。
偽造する者は断刑とす。
密告逮捕に協力した者は、銀二百五十両を賞し、あわせて犯人の財産をあたえん。」
「民間の金・銀・物貨をもってする交易はゆるさず。
違反する者は罪とす。金・銀を鈔(しょう=紙幣)に交換することはゆるす。」
「鈔一貫は、餃子文、銀一両にあたり、四貫は、黄金一両にあたる。」
明朝では洪武八年(一三七五)に、このような貨幣政策をうちだした。
その目的が、紙幣の流通にあることは、いうまでもあるまい。
元朝が紙幣を乱発して経済界を混乱させたというのに、なぜ洪武帝は、このような政策をうちだしたのか。
洪武帝は、元朝の紙幣乱用が、社会の混乱と不安をまねいた一因であることを知っていた。
このため、はじめは銅銭の鋳造に熱心であった。
しかし銅銭の鋳造には、原料の銅が多量になければならない。
たとえ、あったとしても、加工製造する鋳造局をつくらなければならない。
銅銭を全国に流通させるためには、多額の経費と労力が必要となる。
それを承知のうえで、洪武帝は、銅銭の鋳造に努力した。
しかし銅の不足は、どうにもなるものではなかった。
手間のかかる鋳造局の建設も、平和の回復と経済の復興による貨幣の必要度にはおいつかない。
やむをえず打ちだしたのが、銅銭と紙幣の両用策である。
ただ金、銀による民間の交易は禁止されていた。
一貫紙幣は、銅銭千文に相当し、銀一両に相当する策をうちだした。
当時は、米一石が銀一両、つまり紙幣では一貫に相当する相場であった。
しかし紙幣の価値は、まもなく下落した。
洪武十八年(一三八五)、官の禄米を紙幣で給することとした。
その規準は、米一石が二貫五百文と記されている。
さらに洪武二十七年には、
「詔をくだして、銅銭の使用を禁ずる。
このころ両浙の民は、銭を重んじて鈔を軽くみ、銭百六十文をもって鈔一貫にあてている。
福建、両広、江西の諸省も、おなじようである。
このため物価は高騰し、鈔法はくずれておこなわれなくなっている。」
というありさまで、一貫紙幣は、もはや百六十文の価値しかなくなっている。
銅銭が不足して、紙幣を大量に印刷したことがもたらした混乱である。
このため永楽帝の時代には、鈔の発行をへらす意見が上奏されている。
つぎの洪熈帝の時代にも、原吉が帝の質問にこたえて、いった。
「鈔(紙幣)が多ければ、価値はへり、すくなければ、価値はます。
民間で鈔が通用しないのは、乱発して回収をはからないためである。
官に入った鈔のうち、いたんだり古くなったものは、ことごとくこれを焼却し、官鈔の発行をすくなくすべきである。
民間で鈔を入手することが困難になれば、鈔の価値は自然に高くなろう。」
しかし、時すでにおそしであった。
五代宣徳帝の時代には、鈔の価値はますます下落し、「米一石に鈔四~五十貫、六~七十貫を用いる者あり」という始末となった。
「このごろ、民間の交易には金銀が使用され、鈔の流通はとどこおっている。」
鈔の価値は下落の一途をたどり、もはや民間における一般の取引には、使用されていないことを示している。
かわって流通しているものは、禁止されている金銀であった。
明朝は、鈔の流通策に頭をなやました。
鈔を通用させるために銭までも使用を禁止したが、効果はない。
銭が不足すれば禁制の金銀が流通する。
かといって銅銭の鋳造も意のままにはならない。
罰金をはじめ、多くのものを鈔で納めさせるような苦肉の策までおこなったが、大勢をいかんともすることはできなかった、というのが実情である。
洪武帝の祖法ともいうべき、金銀の使用禁止、紙幣の流通政策は、こうして早くもくずれはじめたのである。
それだけではない。銀の流通は、都市の商人たちのなかでおこり、経済界を左右することによって、洪武帝の祖法たる農本主義をもゆるがしはじめた。
洪武帝は、貧農の出身ということもあって、中国古来の農本主義をとり、商を末利と考えて蔑視した。
財政策において現物をもちいたのも、その一つのあらわれである。
ところが豊作のときには、穀倉はあふれるばかりとなり、古米の保有量が二十年分というようなところもでる始末となった。
もはや現物での納入は、飽和状態に達した。
さらに米価の下落である。官僚たちは不安定な禄米や紙幣での支給をこばみ、銀での支給を求めはじめた。
鋳造貨幣ではない銀塊が、いまや祖法をつぎつぎと破る中心と化しはじめた。
