
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
3 詩経の世界
1 村びとの歌
日いでて作り、日いりて息(いこ)う、井をほって飲み、田を耕して食らう。
大地にむすびついた村びとたちの暮らしは、むかしも今もかわりはない。
黄河のほとりに住みついた中国人は、あちこちに村落をいとなみ、田畑をひらいた。そうした村落は、たいてい小高い丘のうえにつくられ、「邑(ゆう)」と呼ばれた(邑と丘とは、同じ音である)。
もちろん「邑」にも、大小さまざまのものがある。
わずかに十戸あまりの小さな邑がら、百戸ほどのもの、さらには王城ともなるほどの大きなものまであった。
西周の時代といえば、いまから三千年ちかくも前のことである。
そのころの中国の民衆のくらしを、そのままに伝えているのが、『詩経』のなかの歌であった。
わかい男が、草つみの女によびかける。また夜になると、女のもとにしのんでくる男がある。
鄭風(ていふう)「将仲子」
将仲子今
無論我里
無折我樹杞
豈敢愛之
畏我父母
仲可慎也
父母之言
亦可畏也
ねえ、仲(ちゅう)さん、
里の囲(かこ)みをこえないで、
庭(にわ)の杞(やなぎ)を折らないで、
杞が惜しいのではない、
父母(ちちはは)がおそろしいの、
それは仲さんも恋(こい)しいが、
父や母のお小言(こごと)も、
また、こわいもの。
「里(り)」というのも、村落をあらわすことばであった。
それは、“田”に“土”を加えた文字で、区切りをつけ、整地された畑地や、住むところをあらわしている。
すなわち、耕地と居住地とがいっしょになった形であった。
一里が距離の単位(約四〇五メートル)としてもちいられるのも、耕地や村落のあいだの距離からくる、とみてよいであろう。
わかい者たちは、となりの里まで出かけては、たがいに言い寄った。
衛風「氓(ぼう)」
送子渉淇
至于頓丘
匪我愆期
子無良媒
将子無怒
秋以為期
きみを送って淇(き)の川わたり
頓丘(とんきゅう)までついていった、
ためらうわけではないのだが、
きみに良い媒(なこうど)がいないから、
どうか、きみよ、怒らないで、
秋を、かたくちぎるゆえに。
3 詩経の世界
1 村びとの歌
日いでて作り、日いりて息(いこ)う、井をほって飲み、田を耕して食らう。
大地にむすびついた村びとたちの暮らしは、むかしも今もかわりはない。
黄河のほとりに住みついた中国人は、あちこちに村落をいとなみ、田畑をひらいた。そうした村落は、たいてい小高い丘のうえにつくられ、「邑(ゆう)」と呼ばれた(邑と丘とは、同じ音である)。
もちろん「邑」にも、大小さまざまのものがある。
わずかに十戸あまりの小さな邑がら、百戸ほどのもの、さらには王城ともなるほどの大きなものまであった。
西周の時代といえば、いまから三千年ちかくも前のことである。
そのころの中国の民衆のくらしを、そのままに伝えているのが、『詩経』のなかの歌であった。
わかい男が、草つみの女によびかける。また夜になると、女のもとにしのんでくる男がある。
鄭風(ていふう)「将仲子」
将仲子今
無論我里
無折我樹杞
豈敢愛之
畏我父母
仲可慎也
父母之言
亦可畏也
ねえ、仲(ちゅう)さん、
里の囲(かこ)みをこえないで、
庭(にわ)の杞(やなぎ)を折らないで、
杞が惜しいのではない、
父母(ちちはは)がおそろしいの、
それは仲さんも恋(こい)しいが、
父や母のお小言(こごと)も、
また、こわいもの。
「里(り)」というのも、村落をあらわすことばであった。
それは、“田”に“土”を加えた文字で、区切りをつけ、整地された畑地や、住むところをあらわしている。
すなわち、耕地と居住地とがいっしょになった形であった。
一里が距離の単位(約四〇五メートル)としてもちいられるのも、耕地や村落のあいだの距離からくる、とみてよいであろう。
わかい者たちは、となりの里まで出かけては、たがいに言い寄った。
衛風「氓(ぼう)」
送子渉淇
至于頓丘
匪我愆期
子無良媒
将子無怒
秋以為期
きみを送って淇(き)の川わたり
頓丘(とんきゅう)までついていった、
ためらうわけではないのだが、
きみに良い媒(なこうど)がいないから、
どうか、きみよ、怒らないで、
秋を、かたくちぎるゆえに。