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3-3-1 詩経の世界

2018-07-21 13:30:18 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

3 詩経の世界

1 村びとの歌

 日いでて作り、日いりて息(いこ)う、井をほって飲み、田を耕して食らう。
 大地にむすびついた村びとたちの暮らしは、むかしも今もかわりはない。
 黄河のほとりに住みついた中国人は、あちこちに村落をいとなみ、田畑をひらいた。そうした村落は、たいてい小高い丘のうえにつくられ、「邑(ゆう)」と呼ばれた(邑と丘とは、同じ音である)。
 もちろん「邑」にも、大小さまざまのものがある。
 わずかに十戸あまりの小さな邑がら、百戸ほどのもの、さらには王城ともなるほどの大きなものまであった。
 西周の時代といえば、いまから三千年ちかくも前のことである。
 そのころの中国の民衆のくらしを、そのままに伝えているのが、『詩経』のなかの歌であった。
 わかい男が、草つみの女によびかける。また夜になると、女のもとにしのんでくる男がある。

 鄭風(ていふう)「将仲子」

 将仲子今
 無論我里
 無折我樹杞
 豈敢愛之
 畏我父母
 仲可慎也
 父母之言
 亦可畏也

ねえ、仲(ちゅう)さん、
里の囲(かこ)みをこえないで、
庭(にわ)の杞(やなぎ)を折らないで、
杞が惜しいのではない、
父母(ちちはは)がおそろしいの、
それは仲さんも恋(こい)しいが、
父や母のお小言(こごと)も、
また、こわいもの。

 「里(り)」というのも、村落をあらわすことばであった。
 それは、“田”に“土”を加えた文字で、区切りをつけ、整地された畑地や、住むところをあらわしている。
 すなわち、耕地と居住地とがいっしょになった形であった。
 一里が距離の単位(約四〇五メートル)としてもちいられるのも、耕地や村落のあいだの距離からくる、とみてよいであろう。
 わかい者たちは、となりの里まで出かけては、たがいに言い寄った。

 衛風「氓(ぼう)」

 送子渉淇
 至于頓丘
 匪我愆期
 子無良媒
 将子無怒
 秋以為期

きみを送って淇(き)の川わたり
頓丘(とんきゅう)までついていった、
ためらうわけではないのだが、
きみに良い媒(なこうど)がいないから、
どうか、きみよ、怒らないで、
秋を、かたくちぎるゆえに。


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