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3-17-4 馬王堆漢墓

2019-05-25 23:37:10 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

17 驚異の漢墓

4 馬王堆(まおうたい)漢墓

 さらに驚くべき発見が、一九七二年にあった。
 長沙市(湖南省)の東郊、馬王堆(まおうたい)にあった漢墓から、完全な死体や、二千年前そのままの遺物があらわれたのである。
 漢墓は七一年末、病院の建築工事をすすめている間に発見された。
 そこで調査の上、七二年一月から四月にかけて、発掘が行われた。
 この墓は地下ふかく長方形に堀りさげて、たてあな式の墓室をつくり、下り坂の墓道をつけたものであった。
 墓の上には、封土(ふうど=盛り土)が高さ二〇メートル余りもかぶせられ、外観は大きな塚を呈している。
 墓の穴は封土の下にあり、墓口は南北二〇メートル、東西一八メートル、墓口から下へは四層の階段がついており、層ごとに内側へすぼまっている。
 墓底までの深さは一六メートル、そして葬具は墓底に置かれていた。
 葬具は三重の木槨(もくかく)と、三重の木棺から成る。
 槨室(かくしつ)の外側には木炭をつめ(約五トン)、その外側は白陶土で固められた。
 木炭と白陶土とは、墓の湿気と腐敗をふせぐためのものであった。
 長沙のあたりは、戦国時代の楚の国の領域である。
 付近からは楚の遺跡が、いくつも発見されている。
 この馬王堆の墓も、楚の墓の末期の形式をとどめている一方、墓のつくりかたには楚のものと違った点も少なくない。
 そこで馬王堆の墓は、楚墓よりも遅い時期のもの、すなわち前漢時代のものと推定された。

 さて六重になった棺槨(かんかく)は、外槨と中槨との間だけに空間があって、そこに副葬品を入れている。
 そのほかの棺槨の間は、ぴったり重なっていて、ほとんど空間がない。
 注意ぶかく外槨から取りはずしてゆき、副葬品を取りだし、槨から棺へと調査をすすめていった。
 しだいに目の前にあらわれてくる墓堂の内部は、まさしく驚異であった。
 三重の木棺は、いずれもすぐれた芸術品であり、板の上にウルシをぬって彩絵をほどこしている。
 外棺の絵は、雲のもようのなかに、たくさんの怪獣が走りまわり、あばれまわる姿をえがく。中棺には竜虎(りゅうこ)が戦うさまをえがく。
 そして内棺の上部には、ビロードをはったり、羽毛で文様(もんよう)をつけた絹でかざっている。
 このような装飾をほどこした木棺は、従来その例がなかった。
 内棺のなかにおさめられた屍体は、さまざまな衣服二十数着でつつまれ、その上に、紗(しゃ)に彩絵をほどこした綿入れの袍(ほう)、また刺繍(ししゅう)をした絹の綿入れの袍でおおわれていた。
 屍体は女性のもので、身長一五四・四センチ、あおむけで足をのばし、頭は北をむいていた。

 最も驚かされたのは、屍体がまったく腐敗しておらず、完全な形を保っていたことである。
 皮下の組織には弾力性があり、股(また)の動脈の色は死後まもない死体のもの、そっくりであった。
 防腐剤を注射すると、軟組織はしだいにふくらみ、注射液はしだいに拡散していった。
 前漢の時代といえば、いまから二千年以上も前である。
 二千年あまりもたった屍体が、このように完全な形を保っているとは、何というふしぎであろう。
 この女性の死亡年齢は五十歳前後と推定されたが、いったい、いつごろの、どういう女性であったのか。
 それを検討する前に、大量の副葬品について、あらましを見ておかねばならぬ。



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