『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
17 驚異の漢墓
4 馬王堆(まおうたい)漢墓
さらに驚くべき発見が、一九七二年にあった。
長沙市(湖南省)の東郊、馬王堆(まおうたい)にあった漢墓から、完全な死体や、二千年前そのままの遺物があらわれたのである。
漢墓は七一年末、病院の建築工事をすすめている間に発見された。
そこで調査の上、七二年一月から四月にかけて、発掘が行われた。
この墓は地下ふかく長方形に堀りさげて、たてあな式の墓室をつくり、下り坂の墓道をつけたものであった。
墓の上には、封土(ふうど=盛り土)が高さ二〇メートル余りもかぶせられ、外観は大きな塚を呈している。
墓の穴は封土の下にあり、墓口は南北二〇メートル、東西一八メートル、墓口から下へは四層の階段がついており、層ごとに内側へすぼまっている。
墓底までの深さは一六メートル、そして葬具は墓底に置かれていた。
葬具は三重の木槨(もくかく)と、三重の木棺から成る。
槨室(かくしつ)の外側には木炭をつめ(約五トン)、その外側は白陶土で固められた。
木炭と白陶土とは、墓の湿気と腐敗をふせぐためのものであった。
長沙のあたりは、戦国時代の楚の国の領域である。
付近からは楚の遺跡が、いくつも発見されている。
この馬王堆の墓も、楚の墓の末期の形式をとどめている一方、墓のつくりかたには楚のものと違った点も少なくない。
そこで馬王堆の墓は、楚墓よりも遅い時期のもの、すなわち前漢時代のものと推定された。
さて六重になった棺槨(かんかく)は、外槨と中槨との間だけに空間があって、そこに副葬品を入れている。
そのほかの棺槨の間は、ぴったり重なっていて、ほとんど空間がない。
注意ぶかく外槨から取りはずしてゆき、副葬品を取りだし、槨から棺へと調査をすすめていった。
しだいに目の前にあらわれてくる墓堂の内部は、まさしく驚異であった。
三重の木棺は、いずれもすぐれた芸術品であり、板の上にウルシをぬって彩絵をほどこしている。
外棺の絵は、雲のもようのなかに、たくさんの怪獣が走りまわり、あばれまわる姿をえがく。中棺には竜虎(りゅうこ)が戦うさまをえがく。
そして内棺の上部には、ビロードをはったり、羽毛で文様(もんよう)をつけた絹でかざっている。
このような装飾をほどこした木棺は、従来その例がなかった。
内棺のなかにおさめられた屍体は、さまざまな衣服二十数着でつつまれ、その上に、紗(しゃ)に彩絵をほどこした綿入れの袍(ほう)、また刺繍(ししゅう)をした絹の綿入れの袍でおおわれていた。
屍体は女性のもので、身長一五四・四センチ、あおむけで足をのばし、頭は北をむいていた。
最も驚かされたのは、屍体がまったく腐敗しておらず、完全な形を保っていたことである。
皮下の組織には弾力性があり、股(また)の動脈の色は死後まもない死体のもの、そっくりであった。
防腐剤を注射すると、軟組織はしだいにふくらみ、注射液はしだいに拡散していった。
前漢の時代といえば、いまから二千年以上も前である。
二千年あまりもたった屍体が、このように完全な形を保っているとは、何というふしぎであろう。
この女性の死亡年齢は五十歳前後と推定されたが、いったい、いつごろの、どういう女性であったのか。
それを検討する前に、大量の副葬品について、あらましを見ておかねばならぬ。
17 驚異の漢墓
4 馬王堆(まおうたい)漢墓
さらに驚くべき発見が、一九七二年にあった。
長沙市(湖南省)の東郊、馬王堆(まおうたい)にあった漢墓から、完全な死体や、二千年前そのままの遺物があらわれたのである。
漢墓は七一年末、病院の建築工事をすすめている間に発見された。
そこで調査の上、七二年一月から四月にかけて、発掘が行われた。
この墓は地下ふかく長方形に堀りさげて、たてあな式の墓室をつくり、下り坂の墓道をつけたものであった。
墓の上には、封土(ふうど=盛り土)が高さ二〇メートル余りもかぶせられ、外観は大きな塚を呈している。
墓の穴は封土の下にあり、墓口は南北二〇メートル、東西一八メートル、墓口から下へは四層の階段がついており、層ごとに内側へすぼまっている。
墓底までの深さは一六メートル、そして葬具は墓底に置かれていた。
葬具は三重の木槨(もくかく)と、三重の木棺から成る。
槨室(かくしつ)の外側には木炭をつめ(約五トン)、その外側は白陶土で固められた。
木炭と白陶土とは、墓の湿気と腐敗をふせぐためのものであった。
長沙のあたりは、戦国時代の楚の国の領域である。
付近からは楚の遺跡が、いくつも発見されている。
この馬王堆の墓も、楚の墓の末期の形式をとどめている一方、墓のつくりかたには楚のものと違った点も少なくない。
そこで馬王堆の墓は、楚墓よりも遅い時期のもの、すなわち前漢時代のものと推定された。
さて六重になった棺槨(かんかく)は、外槨と中槨との間だけに空間があって、そこに副葬品を入れている。
そのほかの棺槨の間は、ぴったり重なっていて、ほとんど空間がない。
注意ぶかく外槨から取りはずしてゆき、副葬品を取りだし、槨から棺へと調査をすすめていった。
しだいに目の前にあらわれてくる墓堂の内部は、まさしく驚異であった。
三重の木棺は、いずれもすぐれた芸術品であり、板の上にウルシをぬって彩絵をほどこしている。
外棺の絵は、雲のもようのなかに、たくさんの怪獣が走りまわり、あばれまわる姿をえがく。中棺には竜虎(りゅうこ)が戦うさまをえがく。
そして内棺の上部には、ビロードをはったり、羽毛で文様(もんよう)をつけた絹でかざっている。
このような装飾をほどこした木棺は、従来その例がなかった。
内棺のなかにおさめられた屍体は、さまざまな衣服二十数着でつつまれ、その上に、紗(しゃ)に彩絵をほどこした綿入れの袍(ほう)、また刺繍(ししゅう)をした絹の綿入れの袍でおおわれていた。
屍体は女性のもので、身長一五四・四センチ、あおむけで足をのばし、頭は北をむいていた。
最も驚かされたのは、屍体がまったく腐敗しておらず、完全な形を保っていたことである。
皮下の組織には弾力性があり、股(また)の動脈の色は死後まもない死体のもの、そっくりであった。
防腐剤を注射すると、軟組織はしだいにふくらみ、注射液はしだいに拡散していった。
前漢の時代といえば、いまから二千年以上も前である。
二千年あまりもたった屍体が、このように完全な形を保っているとは、何というふしぎであろう。
この女性の死亡年齢は五十歳前後と推定されたが、いったい、いつごろの、どういう女性であったのか。
それを検討する前に、大量の副葬品について、あらましを見ておかねばならぬ。