『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
2 ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー
4 フロンドの乱おこる
話をフランスヘかえそう。
三十年戦争の末期、大宰相リシュリューの死からおよそ半年、一六四三年五月ルイ十三世の死がつづいた。
わずか四歳八ヵ月のルイ十四世(在位一六四三~一七一五)が即位し、スペイン王家の出で、王母のアンヌ・ド・トリッシュ(一六〇一~六六)が摂政となったが、リシュリューの後継者としては、枢機卿マザラン(一六〇二~六一)が登場していた。
イタリア人で、フランスに帰化したマザランは、リシュリューに後継者と指名されながら、聖職者という点をべつとしては、まったく前任者とタイプがちがっていた。
「鉄の爪」をもったというリシュリューに比して、マザランは顔つきも人ざわりもおだやかで、知恵才覚をそなえた器用人であり、相手を籠絡することが得意であった。
ルイ十四世時代は、三十年戦争中のロクロワの戦勝によって開かれた。
幼い王の即位のころ、二十一歳のアンギアン公、のちのコンデ親王ルイ二世(一六一二~八六、大コンデといわれる)は、北東部国境のロクロワでスペイン軍に大勝利をえた。
一方、テュレンヌがひきいる軍もコンデ軍と呼応して四四年から四五年、皇帝の軍を圧迫し、四八年十月ウェストファリア条約が成立して、ここに三十年戦争が終わった。
この条約によって前述のようにドイツは数多くの小国家に分裂し、神聖ローマ皇帝の勢力が衰えた。
またフランスはドイツとの国境で領土をうるなど、有利な結果となった。
なお戦いをつづけたスペインのハブスブルク家も、テュレンヌなどの活躍によって屈服し、一六五九年、ピレネー条約がむすばれた。
フランスは南北の国境で領土をひろげるとともに、ルイ十四世とスペインの王女との結婚がとりきめられた。
いわばリシュリューがまいた種をかったマザランは、そのころ権勢をきわめ、彼のほうが王のようなありさまであった。また彼は蓄財に余念がなく、一六六一年三月に死んだとき、莫大な財を残したが、そのためにはかなりの不正を働いたらしい。
こうした点でも、リシュリューとはちがっていたといえよう。ところでマザランはこうした境遇に達するまでに、二度もフランスから亡命するという憂(う)き目を見なければならなかった。
それはあのフロンドの乱(一六四九~五三)のためである。
長い戦争のあいだに、経済危機が深刻となっていた。
このため政府は増税や、官僚貴族の利益に反する処置をとった。
これに対してパリの市民たちは不満を爆発させ、その先頭にたって反政府の運動をはじめたのが、いわゆる法服(法官)貴族の本拠ともいうべきパリ高等法院である。それはむろん最高裁判所であるが、ほかにも特権をもっていて、王権に対抗する存在であった。、
この高等法院を中心とする反対にもかかわらず、政府は財政上の勅令をくりかえした。
そこで高等法院は、若干の地方の法院に支持され、パリの会計院や租税院などと協力し、一六四八年六月、「二十七ヵ条宣言」によって国政改革を要求した。それは、新しい税はすべて高等法院の賛同によること、所得税の減税、地方監察官の廃止などからなっていた。
リシュリューによって設けられたこの地方監察官は、王権の代表者として、従来の官僚層の権限をおさえてゆき、それだけに反感をかっていた。
当時、イギリスにおいては議会の王権に対する反抗、すなわちピューリタン革命が進行していた。
これに刺激された高等法院は、「王国の改革者」をもつて自任したのである。
むろん、そこにはリシュリュー時代におさえられていた貴族の不満の爆発、幼少の王に対するあなどり、生まれが外国人であるマザランや摂政アンヌに対する反感も、強くはたらいていた。
三十年戦争末期で、軍事力に余裕がなかった政府は七月、「二十七ヵ条」に部分的に譲歩し、チャンスを待った。
一六四八年八月二十日、コンデ親王のフランス軍はラーンスで、スペイン軍に勝利をえた。
勢いをえた政府は二十六日、高等法院の司法官たちを逮捕したが、そのなかにはパリの民衆に人気があり、反政府運動の中心であるブルーゼルがいた。二十六日から二十八日にかけて、パリの民衆は樽、敷き石、荷車などで市街にバリケードをつくり、物情騒然となった。
アンヌは強気だったが、マザランの意見をいれて、ブルーゼルを釈放せざるをえなかった。
その後、ウェストファリア条約の成立(一六四八年十月)によって、政府側は軍事力に余裕ができた。
アンヌは幼いルイ十四世、マザランとともに一六四九年一月はじめ、パリから少し離れたサン・ジェルマンに移ってパリの糧道を絶とうとした。
こうして「フロンドの乱」がはじまった。この「フロンド」という言葉は、「石投げ器」を意味する。
これは若者たちの遊び道具だったらしいが、危険なので当局は禁止していた。この乱をつうじて、しばしば見うけられる子供じみた行動から、「フロンドの乱」という名がうまれたというような説もある。
王室側ではコンデ親王が、一万五千の兵をひきいて、二月パリを包囲した。
高等法院を中心にパリは抵抗を組織したが、適当た指揮官がいない。反マザランの貴族たちがのりだしてきたので、彼らに指揮をゆだねてみた。
ところが貴族や貴婦人たちは、ロマンティシズムに酔って武事をたのしんでいるようなありさま。
法院側についた市民たちは武器の使い方さえ十分に知らず、戦いには負けるし、籠城による食糧難に悲鳴をあげる。
下層市民の群れはただ騷ぎまわったり、さけんだり、かっぱらったりする機会をもとめているだけであった。
また有産市民は、大衆の動きがこわくなってきた。
そのうち、貴族たちは目的のために手段をえらばず、まだフランスと戦っていた敵国スペインとむすぽうとした。
高等法院もこれにはついてゆけず、むしろ宮廷側との和平をもとめた。
王権に対する反抗は地方にもおよんでいたので、宮廷としても妥協が必要であった。
こうして一六四九年三月、和約が成立し、いわゆる「高等法院のフロンド」が終わった。