カトリック情報 Catholics in Japan

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真の栄養の対価 聖カテリ・テカクウィサ

2024-05-19 04:38:52 | 格言・みことば
私はこの惨めな体を喜んで捨て、飢えと苦しみを受け入れます。私の魂がまともな栄養を貰えるならば

聖カテリ・テカクウィサ



9-4-4 モンマス公の乱

2024-05-19 04:34:28 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
4 イギリスの王政復古から名誉革命へ
4 モンマス公の乱

 一六八五年チャールズ二世が没し、カトリックの王弟がジェームズ二世としてあとをついだ。
 即位後まもなく召集された議会は、トーリー党が優勢で、六一年以来のどの議会よりも宮廷に対して好意をもち、たとえばそれが承認した予算は、チャールズ二世の即位当時の約倍額であった。
 ところが議会の会期中に、ジェームズの夢を破るような事件がおきた。それはチャールズの庶子、モンマス公の乱である。
 彼は前述のようにシャフツベリーによって王位継承者にかつがれたこともあったが、このパトロンの死後、オランダで、おちぶれていた。
 八五年六月、彼はアムステルダムの大商人の援助によって船を借り、百五十名ばかりの一隊をひきつれて、イギリス南西部に、上陸した。
 しかしホイッグ党の貴族やジェントルマンは田舎の屋敷にこもって動かず、公のもとに集まったのは、サマセットやデボンなど南西部諸州、とくにサマセット州のターントンの毛織物業地帯の下層民約六千名であった。当時毛織物業は、アイルランドの低賃金と廉価羊毛の競争のため不況にあえいでいた。
 ピューリタン弾圧立法によるピューリタンの苦痛も、反乱の一要因となった。彼らの目的は教皇派の王のみならず、イギリス国教会を廃止することであった。
 しかし、モンマスの部下は烏合(うごう)の衆である。
 指揮はなっておらず、武装は不完全、棒に大鎌をくくりつけて進軍する者も多かった。
 反乱がおこった諸州の民兵や、正規軍は王に味方した。
 ロンドン市、議会、都市、地方の役人やジェントルマン、さらに国の世論も、王と法とを支持する。モンマスの運命は決した。王軍に破れ、捕えられた彼は、王の前にひざまずいて涙とともに嘆願したがゆるされず、処刑された。三十六歳。
 モンマスの部下のうち、数百名は兵士の手によって、また「血の裁判」で処刑され、八百名以上のものが奴隷としてバルバドスに売られた。このとき捕虜を奴隷として売る認可をもらったのは、宮廷の寵臣たちであった。
 モンマスの反乱は、「旧イギリス最後の人民の反乱」といわれている。            

 ジェームズはこの反乱の深さにおどろき、常備軍を増強した。前王の大常備軍設置の計画が反対をうけたにもかかわらず、ジェームズは兵数を三万にふやし、一万三千の兵をロンドン市の西部に駐屯させて、市に圧力をかけた。
 常備軍は、イギリス人にもっとも肌のあわないものである。
 そしてカトリック教徒のジェントルマンが、この軍の将校に任命された。
 兵士たちはカトリック教徒ではない。そこで、彼らを改宗させようとしたが、いたずらに憤慨をまねいたにすぎなかった。
 一六八七年四月、ジェームズは「寛容宣言」を発布してカトリック教徒や非国教徒に対して礼拝の自由をあたえ、彼らが公務につくことをさまたげていた法律を全部廃止した。
 非国教徒は最初は感謝したけれども、やがてこの自由が奴隷化に通ずることに気づき、これを拒絶した。
 一六八八年六月、第二の「寛容宣言」が発せられ、カトリック教徒が文武の公職に就任した。
 非国教徒たちは「寛容宣言」が、「審査法」を廃止し、悪魔の権力、すなわち教皇およびカトリック教会を復活する狡猾(こうかつ)な手段であるとにらんだ。
 そこで彼らは国教徒とむすんで、王に反対した。



つばさの党の逮捕の件

2024-05-19 02:45:24 | 時事
 このつばさの党一派について、いつか記事を書こうと思いながら、どうにも時間が作れず、というか私の時間の使い方が実に下手で、なかなか書けずにいました。1年以上前に、彼らがNHK党(当時は政治家女子党)と分離した時に、一本、記事を書き上げたのですが、数日、時機を逸してしまって、公開せずにいました。



 とりあえず、今回のつばさの党の動きは常軌を逸しており、これでは、日本の選挙制度の根幹が脅かされます。こんなことが罷り通るのであれば、日本中に模倣犯が大勢出るでしょう。名前は挙げませんが、例えば何名もの炎上系YouTuber達が、荒れくれた「政党」を結成し、他党を攻撃して、どこかの黒幕から依頼料を貰ったり、YouTubeで再生回数を稼いで、儲けることでしょう。日本の選挙はカオスになり、殆どの政党は街頭演説ができなくなるか、100年前のように院外団と呼ばれる傭兵や私兵集団を抱えなければいけなくなります。選挙の場は、暴力の場と化すでしょう。

 勿論、百年も前に私が生まれていたわけではありませんが、読書を通じて、そういう話をいくつも聞いてきました。

 例えば、日本では、戦前、明治・大正・昭和と、大阪には明石家万吉というヤクザがおり、選挙での街頭演説の攻防に随分と活躍した話が、司馬遼太郎に出てきます。当然ながら、司馬は話を少し盛っていて、正確にはこのような行為をしたのは、彼の女婿の酒井栄蔵だったらしいのですが。

 昔、子供の頃、ヒトラーの伝記も読みましたが、彼は突撃隊という私兵集団を結成しました。やはり、選挙での攻防戦の為にです。ナチスの選挙演説の妨害に来る者には、突撃隊がドスやムチで血祭りにしたそうです。共産党の演説を襲うこともありました。

 ところで、つばさの党のこんなやり方が罷り通れば、日本の選挙は、そんな時代に戻ってしまうことになります。よって、とんでもないというしかないのですが

 では、一体、彼らはなぜ、ここまで狂ってしまったのでしょうか。

 これについては、また、体力と時間のある時に書きたいと思います。
 その主だったところを挙げると、その首謀者 黒川敦彦は、初回の2017年の選挙を実に悪い動機で始めていたこと、そして、2022年、NHK党と合流以後、そこで他党攻撃を繰り返しました。彼はNHK党の悪い習慣と技術を全て吸収してしまい、一方で、数名の所属議員をはじめ、それまで持っていたり新たに獲得した資産の多くを、NHK党から追放されるまでの間に失いました。そのあたりに原因、もしくは背景がありそうですが、今は十分な体力や時間がありませんので、またの機会にさせて頂こうと思います。






聖ダンスタン大司教    St. Dunstan Archiep.

2024-05-19 00:00:05 | 聖人伝
聖ダンスタン大司教    St. Dunstan Archiep.          記念日 5月 19日



 聖ダンスタンは、王であると同時に教会人であり、「大王」という称号に値するアルフレッド王の死の10年後、909年頃グラストンベリーの近くで生まれた。ダンスタンの若い頃については、ほとんど知られていない。彼は、ウェセックスの王家と親族関係を持っていて、グラストンベリーで申し分のない教育を受け、おそらく世俗の仕事に従事していたと思われる。しかし、命にかかわる病気が、彼の目を修道士また司祭としてのもっと直接的な神への奉仕に向けさせた。943年頃、国王エドマンド一世は、彼にグラストンベリーで修道院生活を再興するように命じた。その時から、スカンジナビア人の侵入以来中断していたイングランドにおける組織化された修道院生活の復興が起こった。聖エテルウォルドとウースターの聖オズワルドは、エドガー王の十分な支援を受けたこの仕事にあたって、ダンスタンに協力した。この王子が957年に権力の座に着くと、ダンスタンは多くの修道院を創設したり再興したりした。そして970年頃司教、修道院長、女子修道院長の会議は、修道院のしきたりの国家的な規則を作製した。それは大陸の慣行と聖ベネディクトの会則と一致していたが、君主の保護と日常の御聖体の重要性といったような独自の特色を持つものであった。

 聖ダンスタンは、彼の時代のウェセックスのすべての王にとって第一の相談相手であった。若いエドウィの統治下で国外に追放されたが、エドガーが彼を呼び戻し、959年にはカンタベリーの大司教とされた。現在のイギリス国王の戴冠式は、973年にバースでイングランド全土の王としてのエドガーの即位式のためにダンスタンによって編纂され用いられたものに由来している。しかし神聖な職務、修道院の組織化、教会生活の改革また世俗的な政治的手腕は、この多才な人間の種々の側面を語り尽くしているものではない。彼は、金属細工人や、鐘の鋳造者としての器用さを信頼されていた。彼はまた、熟練した写本筆記者また製図家であったように思われる。また彼はハープを演奏し、人間の声による音楽を愛好していた。彼が祭壇で歌ったとき、「彼は主と顔と顔を合わせて語っているように見えた」と同時代人は書いている。カンタベリーでは、一人の老人として、聖堂学校の少年達を教えるのが、彼の喜びであった。彼は温和な教師であったので、その記憶は彼の生徒達によって大事にされたことであろう。彼の図像上の表象は、一対のはさみである。後の伝説によれば、襲いかかる悪魔の鼻をそれでつかまえたという。彼は988年にカンタベリーで死去。