カトリック情報 Catholics in Japan

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イスラエル大使、国連憲章をシュレッダーで細断!

2024-05-12 03:05:44 | 時事
 イスラエル大使が、国連総会で演説中に、国連憲章をシュレッダーで細断しました。イスラエルは、何をやっているか、わからないのでしょうか?
 パレスチナの国連加盟が承認されそうなことに激高したようですが。これで一段と欧米各国もイスラエルから距離を置くし、アラブ諸国の結束も進むでしょう。

 



テカクウィサの遺言

2024-05-12 03:04:57 | 格言・みことば
私は死のうとしています。私たちが知り合って以来、一緒にやってきたことを、いつも思い出してください。もし、あなたが変わってしまうなら、私は神の裁きの席であなたを非難するでしょう。

聖カテリ・テカクウィサ




9-4-2 ドーバーの密約

2024-05-12 03:02:02 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
4 イギリスの王政復古から名誉革命へ
2 ドーバーの密約

 一六六〇年、チャールズ二世はクロンウェルの航海法を更新、拡充した。
 当時はロンドンの実業界ばかりでなく、宮廷も貿易には熱心で、親王、大臣や上流社会のめんめんが貿易会社に出資した。たとえば王の弟で、海軍総司令官であったヨーク公ジェームズ(一六三三~一七〇一)が、王立アフリカ会社の初代総裁となり、東インド会社の株を買っている。
 一六六四年、イギリスはアフリカ西岸のオランダの根拠地を占領し、アメリカ大陸でもニュー・ネーデルラントをとって、ニュー・アムステルダムをニュー・ヨークと改めた。

戦争とペストに痛みつけられて、さらにロンドンに大火事が起った

 そして、第二次イギリス・オランダ戦争(一六六五~一六六七)がおこったのである。
 ところが戦争の最中、一六六五年の春から六六年末にかけて、猛烈なペストがイギリスをおそった。
 西アジア方面からオランダをへてきたものである。
 ロンドンが中心で、ひどいときには死亡者が、一週間に七千名におよぼうとするありさま。
 人口五十万のうち、七万が死んだという。
 宮廷はハンプトン・コートからソールズベリーに避難し、少なからぬ聖職者が信者たちを見すてて逃げだした。
 このときピューリタンの牧師が生命の危険をおかして、そのあとをうめたが、だれも法律違反であるとして訴えうるものはなかった。
 悪いことはつづくものだ。ペストがおとろえだしたころ、大衆にとって、「神の怒り」の証拠とも見られる不幸がおこった。
 一六六六年九月の第一週、東風のもとでロンドンに火事がおこり、四日間で一万三千戸を焼いたのである。
 この大火によって、イギリスの戦時財政は極度に悪化した。
 一六六七年六月、オランダの艦隊がテムズ川河口に攻めこみ、ケント州のチャタム港をおそって四隻を焼き払い、旗艦を曳き去り、イギリスはブレダの和を講ずることをよぎなくされた。
 このように戦争指導がうまぐゆかなかったことから、クラレンドンは議会の攻撃をうけ、ペストや大火まで彼のせいにされ、一六六七年八月辞職した。
 そのあとはクラレンドンのような一人の大臣ではなく、一団の大臣が王をたすけて政治を指導することになった。
 この一団は彼らの頭文字をとって「キャバル」とよばれ、一種の内閣であった。
 しかし連帯責任ではなく、大臣が個々別々に王と交渉をもち、王からの信頼度もさまざまであった。
 王は「キャバル」を利用して、外交の二面政策を実行した。
 一方ではフランスのルイ十四世に対抗するため、一六六八年オランダ、スウェーデンと三国同盟をむすぶとともに、他方では一六七〇年ルイ十四世と「ドーバーの密約」をむすんだ。
 これは正規の外交ルートをとおさず、王の極秘の個人的交渉にもとづき、「キャバル」のなかでも知っていたのは、カトリック教徒の連中だけであった。
 この条約によって、イギリス王はルイ十四世の対オランダ戦争(一六七二~七八)に参加するとともに、カトリシズムの真理を確信するむねを宣言し、イギリスの事態がゆるせば、カトリシズムに改宗することになり、フランス王はこれに対して友情をあらわすため、金を支払い、必要がある場合は、軍隊を派遣することを約束した。
 チャールズはルイ十四世との密約にしたがって、国内ではカトリシズムを復活させるため、宗教上の寛容というかくれみのを利用した。
 すなわち王は一六七二年、寛容宣言を発したが、議会は王の真意を見抜いて、七三年これを撤回させた。
 そして「審査法」を制定し
 「文武の官職をもつものは、いかなるものも国王至上権をみとめ、国王に対する忠誠を誓わなければならない。
 上記の官職にあるものは、イギリス国教会の慣例にしたがって、聖餐(せいさん)の聖礼典をうけなければならない」
 とし、カトリック教徒を官職からしめだした。



聖ネレオ、聖アキレオ兄弟、聖ドミチラおとめ、聖パンクラチオ殉教者   Sts. Nereus, Achilleus, Domitilla et Pancratius M.M.

2024-05-12 00:00:05 | 聖人伝
聖ネレオ、聖アキレオ兄弟、聖ドミチラおとめ、聖パンクラチオ殉教者              記念日 5月 12日
       Sts. Nereus, Achilleus, Domitilla et Pancratius M.M.



 聖会は本日4人の聖なる殉教者を併せ記念する。その天国への凱旋の日は必ずしも同一ではないが、共にローマ帝国のキリスト教迫害の犠牲者たる点においては変わりがないからである。

 ネレオ及びアキレオの聖兄弟は1世紀の中頃ローマの軍隊に入り、市内警備の任に当たっていたが、皇帝の命令により心にもない残酷な刑を行わねばならぬことがしばしばなので、嫌気がさし、軍籍を退いて皇帝の近親フラヴィオ家の姫君、ドミチラの侍従となった。そして時こそ定かではないが使徒聖ペトロから洗礼を受けたと伝えられている。

 ドミチラはネレオ兄弟の影日向ない奉公ぶりに感心し、調べてみるとキリスト教信者である事がわかった。そうなると今度はかくも立派な行いに導く宗教が慕わしくなり、姫は二人に自分も信仰に入りたい旨を打ち明けたのである。この思いもかけぬ主人の言葉を耳にした兄弟の喜びは言うまでもない。早速姫を教皇の許に連れ行き、教理を研究させ、洗礼の恵みを受けしめたのであった。
 ドミチラ姫はかねてよりアウレリアノという貴族の一青年と許嫁の間柄であったが、もちろん相手は異教徒でもあるので、これと結婚すれば或いは姫の救霊にも妨げが生ぜぬかと心配した兄弟は、誠意を披瀝して忠告を与えた。すると姫もその危険を悟り、アウレリアノとの婚約を破談とし、終生童貞を守る決心を立て、教皇クレメンスから童貞のヴェールを授かったのである。
 一族の中から、またローマの名誉ある軍人の中から、禁制のキリスト教を奉ずる者が現れたと知った時の、ドミチアノ皇帝の驚きはどれほどであったろう!彼は早速ドミチラとネレオ兄弟とを呼び寄せ、棄教を命じたが、信仰堅固にしてその意を動かすことの出来ないと見てとると、之をポンザという島に流しものにすることにした。
 栄耀栄華、何の不自由のない都の生活に慣れたドミチラにとって、この配流はどんなに淋しく味気ないことであったか解らない。しかし彼女は主と仰ぐキリストの御為に一切を耐え忍んだのであった。
 その内にもキリスト教に対する迫害は、益々厳しさを加えて来た。ポンザ島には新たにミヌチオ・ルフォという者が来て信者の糾明を行ったが、もちろんドミチラ主従3人は決して初志を翻さない。ただ「聖教の為ならば、一命を献げても更に悔いる所がありません」と答えるばかりである。そこでネレオ兄弟は拷問でかけられたが、それでも棄教をしないので、遂にテラチナという島に送られ、そこで首を斬られて殉教した。
 ドミチラ姫に対しては、先の婚約者アウレリアノが更に説得を試みる為にテオドラ及びオイフロシナという二婦人をローマから遣わし、種々甘言を以て誘わせたが、やはりどうしても意を翻さない。のみならず却って姫の方で二人を説きつけて信者にしてしまったからルフォは彼等3人をテラチナに送り、そこで一軒の家に閉じ込めたまま焼き殺したと伝えられている。
 ドミチラ及びネレオ、アキレオ兄弟の遺骨は後にローマに移されてフラヴィオ家の墓地に埋葬され、聖会信者の崇敬の的となった。

 聖パンクラチオはヂオクレチアノ皇帝の御代に、斬罪に処せられて殉教した少年である。彼は聖会において昔から特別に崇め尊ばれ、14人の救難聖人中に加えられており、ローマには今も彼に献げられた聖堂があって、枢機卿座の高い格式が与えられている。
 聖パンクラチオは小アジアのフリジアに生まれた。両親に死に別れて孤児となってからは、伯父ヂオニジオに伴われてローマに赴き、そこでキリスト信者であった知り合いの紹介で教皇マルチェリノに謁見し、研究の後聖教の真理なる事を認めて受洗、熱心な信者となり、まだようよう14歳、花ならば蕾にも喩えるべき紅顔可憐の身を、勇ましく血を流して信仰を証したのであった。


教訓

 聖ドミチラも聖パンクラチオも、その入信の始めは共に他の信者の導きによったものである。之を見てもいかに信者一人一人の熱心な信仰が、他人の救霊に役立つか解るであろう。されば我等も未信の人々に真理や永福の宝を与えたいと望むならば、すべからくわが信仰の火を燃やし、善徳の輝きを放って彼等を照らすように努めねばならないのである。