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9-4-1 イギリスの王政復古から名誉革命へ

2024-05-11 22:21:12 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
4 イギリスの王政復古から名誉革命へ
1 チャールズ二世の帰国

 イギリスでは護国卿オリバー・クロンウェルの死(一六五八)後、事態は共和制から王政復古にむかった。
 一六六〇年五月二十五日、たくさんの人びとがドーバーの海岸に集まっていた。帰ってくるチャールズ二世(在位一六六〇~八五)を一目でも見るためである。
 船から下りたった王の肉欲的な厚い唇、頑丈な鼻、人を茶化すような目は、今までのピューリタンになれていた国民感覚には、まったくそぐわないものであった。
 チャールズは国王軍の敗北後大陸に走り、一六五〇年スコットランドからイギリスに侵入することに失敗してからは、王政復古まで亡命をつづけた。
 彼は放縦な生活をおくり、オランダで若い女と関係して一人の庶子をもうけ、これをモンマス公(一六四九~八五)に叙した。のちのモンマスの乱の主人公である。
 亡命中チャールズを忠実に補佐したのが、バイト(のちのクラレンドン伯、一六○九~七四)で、一六五八年大法官の称号をあたえられた。
 チャールズの帰国前、イギリスでは四月に選挙が行なわれ、暫定議会が召集された。新議員には国王派や長老派が多く、九〇パーセントは、王の復位を支持していたといわれる。             
 この議会に対して、王の使者が復位のための条件を提示した。
 これが「プレダの宣言」で、バイトの筆になり、王がオランダの同市で声明したものである。
 この宣言はピューリタン革命中の行動に対する大赦、土地購入者の権利、信仰の自由の三点を確認し、しかも絶対君主の復活ではなく、王と議会という伝統的体制の復活を約束していた。
 そこで議会はただちに宣言の受諾を決定し、王のイギリス上陸が実現したわけである。
 復位した王は、三つの約束に忠実であったろうか。
 大赦については、主としてチャールズ一世の裁判に参加したものが除外され、十三名が処刑された。
 クロンウェルの墓が十二年目にあばかれて、遺体を刑場につるしたのち、首をウェストミンスター・ホールでさらしものにした。
 革命中に没収された王や教会の土地は、もとにかえった。
 国王派で土地を没収されたものは特別の請願もしくは普通の訴訟で、これをとりもどす権利をあたえられた。
 しかし自発的に土地を売り払ったものには、補償がなかった。
 土地をえた側では長老派は国王派が売り払った土地を手に入れていたので、所有権をみとめられた。
 ところが独立派は王や教会の没収地を購入したので、無償で土地を旧所有者にかえさなけれぜならず、大打撃をうけた。
 宗教問題では、王政復古に大きい役割を果たした長老派が期待をよせたが、王は彼らをイギリス国教会のなかへ包括しようとした。
 しかし一六六一年五月ひらかれた議会は「騎士議会」とあだ名されたことからもわかるように、長老派が減少して国王派が大多数を占め、ピューリタンに竍する弾圧立法を行なった。
 第一の「都市自治体法」(一六六一)は、「イギリス国教会の儀式にしたがって聖餐(せいさん)の聖礼典をうけないものは、都市の公職に任命もしくは選出されない」と規定している。
 都市が、ピューリタンの勢力の中心であったからである。
 第二の「礼拝統一法」(一六六二)によって、ピューリタニズムを国教とすることには終止符がうたれた。
 すべての聖職者や教師に、国教の一般祈祷書の使用が命ぜられ、約二千名の聖職者が追放された。
 第三の「宗教集合法」(一六六四)は、同一家族に属しない五名以上のものが、イギリス国教会の方式によらない宗教上の集会に出席することを禁止し、累犯(るいはん)者を七年間植民地に追放することにした。
 最後に「五マイル法」(一六六五)が制定され、「本王国の法律に違反して非合法な宗教集会において説教しようとするものは、従来、牧師、副牧師、牧師補であった都市の五マイル以内にきてはならない」ことになった。
 これは彼らを、支持者である大衆から隔離するものである。


聖イシドロ農夫         St. Isidorus C. 

2024-05-11 19:05:11 | 聖人伝
聖イシドロ農夫         St. Isidorus C.                   記念日 5月 11日



 天主は社会のあらゆる階級、あらゆる方面の人々に、それぞれ模範となり保護者となるようなさまざまの聖人を起こし給うが、本日祝う聖イシドロは生前農業を生業としていた所から全世界農民の保護者と仰がれている聖人であって、4月4日のくだりに述べたあのイシドロとはもとより別人である。即ちこの二人は奇しくも同国のスペイン人ではあるが、彼は司教であり教会博士であり、これよりおよそ600年も前に世に出た人なのである。

 農夫の聖イシドロは1070年スペインの首都マドリッドに生まれた。家は貧しく通学の余裕がなかった彼は、読み書きの術こそ知らなかったが、救霊に必要な真理に就いては、或いは祈りの中に直接天主より教わり、或いは説教を聴聞して会得する所があり、博士方にもおさおさ劣らぬほどの知識をそなえていた。

 彼は父母の負担を少しでも軽からしめる為に、少年の頃からマドリッド付近の、ヨハネ・ダ・ヴェルゴスという人の農場に雇われる身となったが「祈り、かつ働け!」というトラピストの標語の如く、労働時間には懸命に働いたけれど、また毎朝ミサ聖祭にあずかって祈りを献げる事も決して怠らなかった。それ位であるから日曜日はどんな事があっても、天主の為の聖日として労働を休んだ。所が仲間達は彼のあまりに真面目なのが気にくわぬのか、イシドロは信心に凝って、兎に角小作仕事をおろそかにしますと主人と告げたから、主人に告げたから、主人も彼に対して「お前のような怠け者はない!」とか「朝そう畑に出るのが遅くては、定めし仕事も渉がゆくだろう」などと、小言や皮肉を浴びせかけることが珍しくなかった。
 するとある時イシドロが「それでは私の耕した畑と、他の人の畑と、どちらが余計作物がとれますかお比べ下さいまし」と願うので、試しに調べてみると、驚いたことには、主日も休み、朝晩も長く祈祷するイシドロの耕地の方が、働きづめに働いている他の人たちのそれよりも、ずっと収穫の多いことが解った。これは天主の御祝福が敬虔なイシドロの上に豊かであった為であろうが、そうした事実から彼が働く時には天使が手伝いに来るとか、彼が祈っている間には天使が代わって仕事をしてくれるとかいう噂まで生まれるに至った。
 されば最初イシドロの信心深いことを好まなかった主人も、後にはかえって之を喜ぶようになり、同様篤信のマリア・デ・ラ・カベザという女を彼に娶せてやったが、二人は極めて仲睦まじく、やがて生まれた一子が早く死ぬと、それからは兄妹の如く清い愛の生活を送ったと伝えられている。

 彼は一生貧しく質素に世を過ごしたけれど、困っている人を助けたり、旅人を宿しいたわったりする慈善の業を何よりも好んでいた。そしてその慈しみは禽獣にまで及び、冬の最中に餌の乏しいのを憂えて、小鳥に麦粒を蒔いてやったなどの話もある。
 マドリッド市郊外にあった彼の畑は、山の斜面に位する痩せ地で、唯でさえ耕作に骨が折れるのに、夏の真昼の太陽がじりじり照りつける時などは、全く耐え難い苦しみであったが、彼はそれを罪の償いに献げ、克己忍耐の徳を積むよすがとした。そして人目に立たぬ農の業を天主に仕え奉る無上の務めと満足し、種まく時には主の種まきのたとえを、小鳥のさえずりを聞いては空の鳥のたとえを思い起こして、その中に含まれる真理を黙想し、大空を仰いでは天国の光栄を思うという風に、平和な日々を送り迎えて60歳に至り、遂に主の思し召しにより1130年の5月15日にこの世を去ったが、その死に顔は得も言われぬ神々しい光に満ち見る人をして思わずも「ああこの人は聖人であった!」と叫ばしめたほどであったという。
 その後彼の取り次ぎによる奇跡が数多起こった中でも、スペイン国王フィリポ三世は彼の代願によって大病が快癒したのを徳として、彼をスペイン王室の保護者と尊び、その列聖を願っていたが、果たして1622年グレゴリオ15世教皇の御世に、イグナチオ、テレジア、フランシスコ・ザベリオ及びフィリポ・ネリ達と共に聖位を送られる光栄をになうに至ったのである。