カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

3-10-2 呂不韋の功罪

2018-09-18 01:47:42 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

10 秦の始皇帝

2 呂不韋(りょふい)の功罪

 荘襄王は、在位三年にして死去した(前二四七)。太子の政が立って、秦王となった。
 まだ十三歳の少年であったから、政治は母なる太后(荘襄王の后)と呂不韋とにまかされた。
 呂不韋をたっとんで相国(しょうこく=宰相と同じ)とし、仲父(ちゅうほ=叔父の意、父親に準ずる待遇)とよんだ。
 ところで太后は、むかしの呂不韋の愛人である。このときになっても、太后はひそかに呂不韋と関係をつづけていた。
 さて呂不韋の執政時代に、秦はいよいよ東方に進出する。
 韓も魏も趙も、その領土の一角をうばわれ、ついに秦の領土の東端は斉国と接するにいたった。
 しかし秦は武力に強くとも、その文化は六国におよばなかった。これを呂不韋は恥じた。
 よって孟嘗君や平原君などにならい、各地から賢士をまねいて、あつく待遇した。かくて食客は三千人にたっする。
 これらの食客たちに、それぞれ見聞を述べさせ、それを編集して二十余万字にのぼる書物をつくった。
 あらゆる学派の説がたくみに総合され、天地・万物・古今のことが網羅(もうら)されているとして、『呂氏(りょし)春秋』と名づけられた。
 自分の書にあえて「春秋」の名をつけたところには、呂不韋の意気ごみが察せられよう。
 はじめて発表したとき(前二三九)、咸陽(かんよう)の市場の門前に展示し、賞金をかけて内容を批判させた。`
 「一字でも増減できる者があれば、千金をあたえよう」。
 もとより申しでる者はなかった。ともあれ、これが「一字千金」のおこりである。
 この間に、王の政(せい)はようやく成年に近づいた。しかも母太后の淫乱(いんらん)はやまない。
 呂不韋は事があらわれて、自分にわざわいのおよぶことをおそれた。
 よって別の男を推挙して、太后に近づける。局部の大きな男であり、これをもって太后の気をひいたのであった。
 しかし五体の満足な男性は、宮中で召しつかうことができない。よって呂不韋は、太后としめし合わせ、男に宮刑をほどこしたことにして、宦官(かんがん)に仕立てた。
 こうして太后の側近に侍(はべ)らせると、寵愛すること非常なものとなり、ついに二人の子をなすにいたった。
 もとより太后の出産は秘中の秘である。
 太后は口実をかまえて離宮にかくれ、奥むきのことは、その男によって決裁された。
 いまや秘密の情夫は長信侯の位をたまわり、下僕は数千人、食客も千余人におよんだ。
 政(せい)が即位して九年(前二三九)、二十二歳にたっしたので、成人たることを示す冠礼をおこなった。
 もはや親政すべき時期である。これをおそれたのが長信侯であった。
 反乱をおこして王宮を攻めようとくわだてた。
 しかし、このことは、すでに密告する者があって、王も事前に察知していたのである。
 ただちに兵を発して一党をほろぼし、長信侯らのおもだった者は車裂(しゃれつ)の刑に処した。
 太后の不義によってうまれた二子も殺された。
 この事件に呂不韋も関係あることは、あきらかであった。
 しかし王は、呂不韋が先王につくした大功をおもんぱかって、しばらく不問に付していた。
 翌年におよんで呂不韋の職(相国)を免じ、都から追放して、洛陽の領地においた。
 しかも呂不韋の声望は依然として高く、洛陽におもむく賓客は引きもきらない。
 王は謀叛(むほん)をおそれ、蜀(しょく)にうつることを命じた。
 ここにおよんで呂不韋は、その権勢のきわまったことを知り、みずから毒をあおって自殺した。
 秦王政、のちの始皇帝は、このように数奇な運命のもとに育ったのである。
 父なる王は実の父にならず、実の父は死に追いやった。
 その母は淫乱に明けくれ、その同母の弟たちは殺さねばならなかった。
 秦王政には、ほんとうの意味の肉親がなかったのである。

聖ドミニコ・サヴィオ - 小さな巨人 6

2018-09-18 00:25:52 | 聖ドミニコ・サヴィオ
『聖ドミニコ・サヴィオ - 小さな巨人』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、6

 7キロの道を歩いての蓮箪、蓬箪までは、ひとりで歩きます。

「へえ!坊や、感心だね、それにしても、こんな淋しいなかみちい田舎道を、ひとりでこわくないのかい?」

 農夫道であったひとりの農夫がききました。

「ちがうよ、おじちゃん、ぽくひとりじゃないよ」

「ええ?どうして?」

 農夫は、おどろいて、あたりをみまわしました。

「守りの天使といっしょだよ、いつも、ぼくを守ってくれるんだ!」とドミニコ。

 ある日、呼ばれて先生(神父さま)が、教室を出ました。なかなか戻ってきません。

「おい、みんな」といたずらっ子がいいました。

「雪をとってきて、ストーブに入れようや」

「わあ、おもしろいぞ!やろう、やろう」とみんな。

 たちまち教室は雪だらけ。

 火は消え、煙がもうもうと、たちこめています。大さわぎには目もくれず、ドミニコだけ本をよんでいます。

クペルチノの聖ヨゼフ証聖者   St Joseph a Cupertino C.

2018-09-18 00:24:40 | 聖人伝
クペルチノの聖ヨゼフ証聖者   St Joseph a Cupertino C.   記念日 9月18日


 聖人はいずれもこの世から天主と一致した方々であるが、主が御自分への一致に招き給う途は必ずしも一つではない。ある聖人方は人目を引かぬ平凡な日常生活により、ある聖人方は神秘的な特恩、例えば奇蹟、脱魂、受痕等により主への一致を成就された。それは皆天主の思し召しによることで何れを優り、何れを劣るとすることは出来ないが、本日祝うクペルチノの聖ヨゼフの如きは、この中の後者に属し、常人の望むべからざる賜物を恵まれ、特別な途によって聖人となった方である。
 彼は1603年6月17日南イタリアの田舎町クペルチノに生まれた。両親は貧しかったから彼も少年の頃からある靴屋へ徒弟に入れられたが、病気になって間もなく家に帰らねばならなかった。
 再び健康を快復すると、ヨゼフはその感謝の為修道者になる決心をし、17歳の時聖フランシスコの戒律を厳守するカプチン会に入った。しかし不幸またも病を得て幾程もなく退会の已むなきに至ったのである。
 ところが父母親戚はそれを非常な恥辱としてヨゼフを穀潰しと罵り、さまざまの酷遇を与えた。けれども彼は先の修道生活中に謙遜、犠牲、忍耐等を学んだので、よく一切を甘受し、暫く養生してから、今度はやや戒律の寛なるミノリト会に入会を願い、許されてそのデラ・グロテラ修道院に徳を磨くこととなった。
 平修士のヨゼフは院内の最も賤しき仕事をもつゆ厭う気色なく、誠心誠意働いたから、いつか長上の目に留まり聖職者にせぬは惜しい者と叙階の秘蹟を受ける準備を命ぜられた。学問の勉強は彼にはなかなか容易ではなかったが、それでも努力は恐ろしいもの、叙階資格を獲る為の試験には予想外の好成績で及第することが出来た。かくていよいよ叙階されて初ミサを立てたのは25歳の時であったが、その折り彼はしばしば脱魂状態に陥ったという。以てその敬虔の程も窺われるではないか。
 この脱魂はその後も度々起こり、ついには殆ど習慣の如くになって、祈祷の際、殊に十字架像の主イエズス・キリストの御脇腹の傷さえ見れば造作もなくその法悦境に入ることが出来るようになった。脱魂中は身体が中に浮かび、外界に対する意識が全く失われ、魂にえも言われぬ天上の喜びを感ずるのであるが、ただ長上に呼びかけられると、すぐに我に帰り気がついたそうである。そしてかような特別の恵みを天主に賜るに及び、彼は未来の事にも通じ、また人の心の奥底までも見抜き得るようになった。
 こうした不思議の力を具えているヨゼフが世の噂に上らぬ筈はない。やがて人々は霊魂上の指導を仰ぎに、その代祷を願いに、病を治して貰いに、、悩みの解決を求めに、豊かな慰めを蒙りに、四方八方から彼を目指して押し寄せて来た。嘗て新教徒であったドイツのブラウンシュワイヒ公ヨハネ・フレデリコがカトリックに改宗したのも、1650年アッシジに来てヨゼフの執行したミサ聖祭に与り、感動した結果に他ならなかった。
 常に正しき信仰の保存に努めて已まぬ聖会は、ヨゼフの評判を聞くにつけ、民衆を惑わす欺瞞者ではないかと厳重な調査を開始した。為に彼は随分つらい立場におかれ、デラ・グロテラからアッシジへ、アッシジから寂しいピエトラ・ロッサへ、そこからフォッソンブローネへ、ついにはアンコナ付近のオシモへと、転々と諸々の修道院に移されたが、少しも不平がましい言葉など漏らさなかった。その中に彼に対する疑惑の雲も晴れ、今度は聖会の高位聖職者から教皇までヨゼフの謙遜に感じ彼が天主の特恩を蒙っている聖人であることを認めて、その代祷、忠告を希うに至ったから、その名声は益々隆々として四辺を圧するばかりであった。
 さてヨゼフは60の年を迎えるや、日頃の激しい苦行と活動に力弱った為であろう、病床に就き、死後は知る人もない所に葬って下さるようと長上に遺言して、眠るが如くこの世を去った。


教訓

 クペルチノの聖ヨゼフは天主に戴いた不思議な能力の為、誉れと共に大いなる苦痛をも蒙ったが、よくこれを耐え忍んだ。聖人の途はやはり十字架の道であり荊棘の道である。故に我等も如何なる艱難辛苦に逢ったとて、決して絶望してはならない。


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。