『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
10 秦の始皇帝
2 呂不韋(りょふい)の功罪
荘襄王は、在位三年にして死去した(前二四七)。太子の政が立って、秦王となった。
まだ十三歳の少年であったから、政治は母なる太后(荘襄王の后)と呂不韋とにまかされた。
呂不韋をたっとんで相国(しょうこく=宰相と同じ)とし、仲父(ちゅうほ=叔父の意、父親に準ずる待遇)とよんだ。
ところで太后は、むかしの呂不韋の愛人である。このときになっても、太后はひそかに呂不韋と関係をつづけていた。
さて呂不韋の執政時代に、秦はいよいよ東方に進出する。
韓も魏も趙も、その領土の一角をうばわれ、ついに秦の領土の東端は斉国と接するにいたった。
しかし秦は武力に強くとも、その文化は六国におよばなかった。これを呂不韋は恥じた。
よって孟嘗君や平原君などにならい、各地から賢士をまねいて、あつく待遇した。かくて食客は三千人にたっする。
これらの食客たちに、それぞれ見聞を述べさせ、それを編集して二十余万字にのぼる書物をつくった。
あらゆる学派の説がたくみに総合され、天地・万物・古今のことが網羅(もうら)されているとして、『呂氏(りょし)春秋』と名づけられた。
自分の書にあえて「春秋」の名をつけたところには、呂不韋の意気ごみが察せられよう。
はじめて発表したとき(前二三九)、咸陽(かんよう)の市場の門前に展示し、賞金をかけて内容を批判させた。`
「一字でも増減できる者があれば、千金をあたえよう」。
もとより申しでる者はなかった。ともあれ、これが「一字千金」のおこりである。
この間に、王の政(せい)はようやく成年に近づいた。しかも母太后の淫乱(いんらん)はやまない。
呂不韋は事があらわれて、自分にわざわいのおよぶことをおそれた。
よって別の男を推挙して、太后に近づける。局部の大きな男であり、これをもって太后の気をひいたのであった。
しかし五体の満足な男性は、宮中で召しつかうことができない。よって呂不韋は、太后としめし合わせ、男に宮刑をほどこしたことにして、宦官(かんがん)に仕立てた。
こうして太后の側近に侍(はべ)らせると、寵愛すること非常なものとなり、ついに二人の子をなすにいたった。
もとより太后の出産は秘中の秘である。
太后は口実をかまえて離宮にかくれ、奥むきのことは、その男によって決裁された。
いまや秘密の情夫は長信侯の位をたまわり、下僕は数千人、食客も千余人におよんだ。
政(せい)が即位して九年(前二三九)、二十二歳にたっしたので、成人たることを示す冠礼をおこなった。
もはや親政すべき時期である。これをおそれたのが長信侯であった。
反乱をおこして王宮を攻めようとくわだてた。
しかし、このことは、すでに密告する者があって、王も事前に察知していたのである。
ただちに兵を発して一党をほろぼし、長信侯らのおもだった者は車裂(しゃれつ)の刑に処した。
太后の不義によってうまれた二子も殺された。
この事件に呂不韋も関係あることは、あきらかであった。
しかし王は、呂不韋が先王につくした大功をおもんぱかって、しばらく不問に付していた。
翌年におよんで呂不韋の職(相国)を免じ、都から追放して、洛陽の領地においた。
しかも呂不韋の声望は依然として高く、洛陽におもむく賓客は引きもきらない。
王は謀叛(むほん)をおそれ、蜀(しょく)にうつることを命じた。
ここにおよんで呂不韋は、その権勢のきわまったことを知り、みずから毒をあおって自殺した。
秦王政、のちの始皇帝は、このように数奇な運命のもとに育ったのである。
父なる王は実の父にならず、実の父は死に追いやった。
その母は淫乱に明けくれ、その同母の弟たちは殺さねばならなかった。
秦王政には、ほんとうの意味の肉親がなかったのである。
10 秦の始皇帝
2 呂不韋(りょふい)の功罪
荘襄王は、在位三年にして死去した(前二四七)。太子の政が立って、秦王となった。
まだ十三歳の少年であったから、政治は母なる太后(荘襄王の后)と呂不韋とにまかされた。
呂不韋をたっとんで相国(しょうこく=宰相と同じ)とし、仲父(ちゅうほ=叔父の意、父親に準ずる待遇)とよんだ。
ところで太后は、むかしの呂不韋の愛人である。このときになっても、太后はひそかに呂不韋と関係をつづけていた。
さて呂不韋の執政時代に、秦はいよいよ東方に進出する。
韓も魏も趙も、その領土の一角をうばわれ、ついに秦の領土の東端は斉国と接するにいたった。
しかし秦は武力に強くとも、その文化は六国におよばなかった。これを呂不韋は恥じた。
よって孟嘗君や平原君などにならい、各地から賢士をまねいて、あつく待遇した。かくて食客は三千人にたっする。
これらの食客たちに、それぞれ見聞を述べさせ、それを編集して二十余万字にのぼる書物をつくった。
あらゆる学派の説がたくみに総合され、天地・万物・古今のことが網羅(もうら)されているとして、『呂氏(りょし)春秋』と名づけられた。
自分の書にあえて「春秋」の名をつけたところには、呂不韋の意気ごみが察せられよう。
はじめて発表したとき(前二三九)、咸陽(かんよう)の市場の門前に展示し、賞金をかけて内容を批判させた。`
「一字でも増減できる者があれば、千金をあたえよう」。
もとより申しでる者はなかった。ともあれ、これが「一字千金」のおこりである。
この間に、王の政(せい)はようやく成年に近づいた。しかも母太后の淫乱(いんらん)はやまない。
呂不韋は事があらわれて、自分にわざわいのおよぶことをおそれた。
よって別の男を推挙して、太后に近づける。局部の大きな男であり、これをもって太后の気をひいたのであった。
しかし五体の満足な男性は、宮中で召しつかうことができない。よって呂不韋は、太后としめし合わせ、男に宮刑をほどこしたことにして、宦官(かんがん)に仕立てた。
こうして太后の側近に侍(はべ)らせると、寵愛すること非常なものとなり、ついに二人の子をなすにいたった。
もとより太后の出産は秘中の秘である。
太后は口実をかまえて離宮にかくれ、奥むきのことは、その男によって決裁された。
いまや秘密の情夫は長信侯の位をたまわり、下僕は数千人、食客も千余人におよんだ。
政(せい)が即位して九年(前二三九)、二十二歳にたっしたので、成人たることを示す冠礼をおこなった。
もはや親政すべき時期である。これをおそれたのが長信侯であった。
反乱をおこして王宮を攻めようとくわだてた。
しかし、このことは、すでに密告する者があって、王も事前に察知していたのである。
ただちに兵を発して一党をほろぼし、長信侯らのおもだった者は車裂(しゃれつ)の刑に処した。
太后の不義によってうまれた二子も殺された。
この事件に呂不韋も関係あることは、あきらかであった。
しかし王は、呂不韋が先王につくした大功をおもんぱかって、しばらく不問に付していた。
翌年におよんで呂不韋の職(相国)を免じ、都から追放して、洛陽の領地においた。
しかも呂不韋の声望は依然として高く、洛陽におもむく賓客は引きもきらない。
王は謀叛(むほん)をおそれ、蜀(しょく)にうつることを命じた。
ここにおよんで呂不韋は、その権勢のきわまったことを知り、みずから毒をあおって自殺した。
秦王政、のちの始皇帝は、このように数奇な運命のもとに育ったのである。
父なる王は実の父にならず、実の父は死に追いやった。
その母は淫乱に明けくれ、その同母の弟たちは殺さねばならなかった。
秦王政には、ほんとうの意味の肉親がなかったのである。