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3-10-1 秦の始皇帝

2018-09-17 13:10:12 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

10 秦の始皇帝

1 奇貨居(お)くべし

 戦っては和し、和しては戦う、それが戦国の世のすがたであった。
 戦争と和平とをめぐって、めまぐるしい外交の駆けひきがあった。
 それゆえに大国のあいだでは、さかんに人質が交換された。人質といっても、弱い国から強い国へさしだすものとは限らない。
 強国であっても、和平を保障するために、人質をだすことがあった。
 秦の荘襄王(始皇帝の父)も、わかいころは人質として趙におくられ、その前半生を邯鄲(かんたん)の都においてすごしたのである。
 荘襄王は、名を子楚(しそ)という。その父は、昭襄王の太子であった。
 しかも子楚の母は、ひくい身分の出身であったから、子楚が人質にえらばれたのであった。
 子楚が趙にいる間、秦はしばしば趙を攻めた。よって趙の人が子楚を遇すること、きわめてつめたかった。
 秦からの仕送りもじゅうぶんではなかった。子楚の日常はわびしかった。
 そこに目をつけたのが、韓の大商人たる呂不韋(りょふい)である。
 「これ奇貨なり、居(お)くべし」(これは、ほり出しものだ、買い入れておいたほうがよかろう)。
 というのも、すでに昭襄王は老齢であり、つぎに秦王となるべき者は、子楚の父である。
 呂不韋は、子楚のために大金を投じ、太子の世嗣(よつぎ)にしようと考えた。
 「もし、きみの計画が成功したら、秦国をわけて、きみと共有しよう」。
 子楚は頓首(とんしゅ)していった。これより呂不韋は、しきりに運動をつづけた。
 ついに太子の愛妃に取りいって、その心をうごかし、子楚を世嗣と定めることに成功したのである。
 呂不韋は後見を託され、これより子楚の名はようやく列国に高まった。
 そのころ呂不韋は、邯鄲で一番という美女を手にいれていた。
 たまたま子楚がまねかれて、その女をみると、ひと目で気にいってしまった。女をゆずってくれ、と申しでる。
 呂不韋は、心のなかで怒った。しかし、すでに家産をかたむけてまで子楚のためにつくしている。
 それも大利を釣るためであった。そう思いなおして、その美姫を献じた。そのとき、女は身ごもっていた。
 それをひたかくしにして、女は子楚のもとにおもむいた。
 やがて月はみちて(妊娠すること、十二ヶ月という)、政(せい)という子をうんだ。
 この政こそが、のちの始皇帝である。
 ときに昭襄王の四十八年(前二五九)であった。
 その年、秦は趙を攻めて長平に勝ち、士卒四十万を穴埋めにした。
 それより秦軍は、すすんで邯鄲をかこむ。ついに趙の国では、子楚を殺そうとした。
 よつて呂不韋は、またも大金を投じて監視の役人を買収し、子楚を脱出させて秦へ送りとどけた。
 子楚の夫人と子の政(せい)は、邯鄲の民家にかくまわれた。
 それから三年の後、周の王室はほろぼされた。
 秦の進出に脅威をいだいた周の赧(たん)王は、諸侯とむすんで、秦を攻めたのである。
 おこった昭襄王は、ただちに周を討った。
 たちまちにして周の軍は敗れ、赧王はみすがら秦に走って、罪を謝した。
 ここに周の王室は、武王より三十七世、八六七年にして滅亡したのであった(前二五六)。
 それからまた三年にして、昭襄王は死んだ。子楚の父が立った。孝文王である。子楚は太子となった。
 それを知ると趙の国では、子楚の妻子を鄭重に送りとどけてきた。
 ところが孝文王は一年にして死去し、子楚が位につく(前二五〇)。すなわち荘襄王である。
 荘襄王は即位すると呂不韋を丞相(宰相と同じ)に任じ、文信候に封(ほう)じて洛陽の十万戸をあたえた。
 明くる年(前二四九)には、魯もまた、楚のためにほろぼされている。
 魯は、周公より三十四代、八五〇年であった。

聖ドミニコ・サヴィオ - 小さな巨人 5

2018-09-17 01:15:33 | 聖ドミニコ・サヴィオ
『聖ドミニコ・サヴィオ - 小さな巨人』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、5

 ドミニコは、ご聖体をいただく大人がうらやましくてなりません。当時の子どもたちの初聖体は、12才頃だったからです。とうとう神父さまの心を動かす日がやってきました。

ー そうだ、この子は、よく分っている。それに、こんなに熱心だ ー お父さまは、まだ7才になったばかりのドミニコに、ご聖体をいただくゆるしを与えました。

目に見えるのは、白い小さなパンだけど、「これはわたしの体である」とおっしゃったみ言葉で、ほんとうにイエズスのおん体にかわったのだ。これは人間にはできないことだけど、イエズスさまは神さまだからできる。それに、神さまは、決してうそをおっしゃらないのだから。

 ドミニコは、深い信仰をもって、ご聖体をいただきました。初聖体の夜、ドミニコは、かたい決心を紙に書きました。ご聖体のなかにいらっしゃるイエズスさまを、たびたびいただいて.、いつも清い心でいよう。

 ぼくの友だらは、イエズスさまと、マリアさまだ。罪をおかすよりも、死んだほうがまし」

 この決心は、生きていました。なぜなら、ドミニコは、立派に守り、友だちによい手本をみせたからです。

 ドミニコのこれほどすばらしい初聖体は、おかあさんの教育がよい影響をおよぼしたことを考えねばなりません。かの女の信仰深さは、となり村まで知られていたほどだったからです。

 長男ドミニコの聖徳は、おかあさんのりっぱな教育によってめぱえ、のちに聖ドン・ボスコの教育によって、おどろくべきみのりをみせたのです。

 おかあさんは、あと9名もの子宝がめぐまれ、末子のテレザは、ドミニコ帰天後2年目に生まれました。

聖ロベルト・ベラルミノ司教教会博士  St. Robertus Bellarmin E. et D. E.

2018-09-17 01:09:15 | 聖人伝
聖ロベルト・ベラルミノ司教教会博士  St. Robertus Bellarmin E. et D. E.  記念日 9月17日


 イタリアのベラルミノ家より出でたこの聖人は、聖ペトロ・カジニオと同様イエズス会の司祭修士であって、16世紀新教の異端が跋扈する時に当たり、聖教の真理を擁護すべく天主の御選びを蒙った方である。
 彼は1542年10月4日、フィレンツェ州のモンテ・プルチアノ市に生まれた。つとに故郷の中学に通学していた頃から、その卓越した才智と勉学と熱心とは、しばしば教師達の舌を捲かしめた。彼は18の歳を迎えて、イエズス会に入会を申し込んだが、彼の英才の誉れを聞き知っていた長上は快くそれを許可した。20歳に達するや、早くも修辞学の教授を命ぜられ、暫くその任を全うした後、更に哲学神学研究の為、去ってベルギーのルーヴァンに赴き、そこで28歳の時叙階の秘蹟を受けて司祭となった。
 然し彼が説教を試み、その博学と雄弁に世人を驚かしたのは、叙階前神学研究の頃からで、わけても公教の真理を説くに極めて明快であったから、新教徒で彼の名声を慕って遙々英国から説教の聴聞に来、諄々たる彼の説明に永年の迷妄を晴らし、帰正した者も少なくなかった。
 ルーヴァン大学を卒業したベラルミンは、直ちに母校の教授に挙げられ、六年間神学の講座を担当した。その間に彼の評判は遠くローマにまで聞こえ。1576年グレゴリオ13世教皇は、彼を招いて同市の大学の、弁証学教授に任命した。彼はその職に在ること12年、よく弁証護教の学を講じ、当時起こった新異端説の誤謬を指摘論破するや、恰も快刀に乱麻を断つ如く、なお筆を執っては「現代異端に対するキリスト教の弁駁書」という一書をものし、人々に教える所があったが、その明晰な論旨と温和な筆致とは、読む者をして心より同感せしめ、真理を求める誠心ある者ならば一読どうしても公教に帰正せざるを得ぬという定評まであり、新教徒より多数の改宗者を出したから、異端者は大いに驚き、カルヴィン派の首長ベザの如きは急遽その書の閲読を禁ずるという有り様で、公教徒側では大いに快哉を叫んだ次第であった。
 彼の講義は常に数多の学生を吸収し、中には新教各国から聴講に来る者も沢山あり、彼に依って永遠の真理を悟った者はどれほどあったか知れぬのである。
 そしてその学生達は後故郷の人々にまた公教の真の宗教なる事を伝えたから、その影響は益々大きく、ベラルミノの聖会に対する功労は実に計り知れぬものがあった。聖アロイジオも彼の教え子の一人で、この純潔の青年があれほど早く列聖せられたのは、主として恩師ベラルミノの熱心な奔走による。
 後に彼はナポリ王国にあるイエズス会修道院の管区長に選ばれたが、教皇クレメンス8世は間もなく彼をローマに呼び戻し教皇庁の顧問に任じ、1599年には聖会最高の顕職なるカルヂナルに挙げた。なお、ベラルミンは二回も教皇の候補者に推されたが、共に謙遜の心から之を辞退した。
 ベラルミノの著書は相当多数あり、その中には学問に関するものあれば、「善終の途」などという心霊修養書もあるがわけても有名なのは公教要理で、之は実に六十ヶ国語に訳され、四百回以上も刊行された記録を持っている。
 ベラルミノはかように聖会の為尽瘁すること多年、79歳の高齢に達して終焉の間近きを知り、切に修道院の小部屋に於いて死ぬことを望み、幸いに願い適って1621年8月の末に、憧れの修道院に帰り、9月17日そこで永遠の眠りに就いた。その終油の秘蹟を授かる時、彼はどうしても仰臥のまま受けるを肯んぜず、衰え切った身体を無理に起こして床に跪いたとの事であるが、以てその敬虔さの一半を知ることが出来よう。
 彼が臨終に身につけていたカルヂナルの衣は、二十年前教皇より与えられたままのものであった。彼はその長年月の間一度もそれを新調しなかったのである。また彼は自分の財産を、その生前にことごとく貧民、苦学生、経営困難の病院、修道院等の為に寄付してしまい、為に死後葬儀の費用すら残っていなかった。聖人がいかに修道者らしい清貧に徹していたかが察せられて床しい極みである。
 ロベルト・ベラルミノの列聖調査は早くも1627年に開始された。然し之に反対する者もない訳でなく、その為暫く列聖の儀は沙汰やみになっていたが、遂に1930年6月29日、聖ペトロ、聖パウロ両大使徒記念の吉日を卜して荘厳盛大な儀式が行われ、彼は公然聖人の栄位を贈られるに至った。その遺骨は本人の意志により、1923年ローマなるイグナチオ大聖堂に移され、聖アロイジオの祭壇の傍らに葬られた。

教訓

 聖ロベルト・ベラルミノは聖会を心から熱愛していた。彼が心身の全能力を尽くして破邪顕正に努め、護教に当たったのは実にこの愛の為である。我等は母なる聖会に対する犠牲的の愛を彼から学ばねばならぬ。


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