『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
10 秦の始皇帝
1 奇貨居(お)くべし
戦っては和し、和しては戦う、それが戦国の世のすがたであった。
戦争と和平とをめぐって、めまぐるしい外交の駆けひきがあった。
それゆえに大国のあいだでは、さかんに人質が交換された。人質といっても、弱い国から強い国へさしだすものとは限らない。
強国であっても、和平を保障するために、人質をだすことがあった。
秦の荘襄王(始皇帝の父)も、わかいころは人質として趙におくられ、その前半生を邯鄲(かんたん)の都においてすごしたのである。
荘襄王は、名を子楚(しそ)という。その父は、昭襄王の太子であった。
しかも子楚の母は、ひくい身分の出身であったから、子楚が人質にえらばれたのであった。
子楚が趙にいる間、秦はしばしば趙を攻めた。よって趙の人が子楚を遇すること、きわめてつめたかった。
秦からの仕送りもじゅうぶんではなかった。子楚の日常はわびしかった。
そこに目をつけたのが、韓の大商人たる呂不韋(りょふい)である。
「これ奇貨なり、居(お)くべし」(これは、ほり出しものだ、買い入れておいたほうがよかろう)。
というのも、すでに昭襄王は老齢であり、つぎに秦王となるべき者は、子楚の父である。
呂不韋は、子楚のために大金を投じ、太子の世嗣(よつぎ)にしようと考えた。
「もし、きみの計画が成功したら、秦国をわけて、きみと共有しよう」。
子楚は頓首(とんしゅ)していった。これより呂不韋は、しきりに運動をつづけた。
ついに太子の愛妃に取りいって、その心をうごかし、子楚を世嗣と定めることに成功したのである。
呂不韋は後見を託され、これより子楚の名はようやく列国に高まった。
そのころ呂不韋は、邯鄲で一番という美女を手にいれていた。
たまたま子楚がまねかれて、その女をみると、ひと目で気にいってしまった。女をゆずってくれ、と申しでる。
呂不韋は、心のなかで怒った。しかし、すでに家産をかたむけてまで子楚のためにつくしている。
それも大利を釣るためであった。そう思いなおして、その美姫を献じた。そのとき、女は身ごもっていた。
それをひたかくしにして、女は子楚のもとにおもむいた。
やがて月はみちて(妊娠すること、十二ヶ月という)、政(せい)という子をうんだ。
この政こそが、のちの始皇帝である。
ときに昭襄王の四十八年(前二五九)であった。
その年、秦は趙を攻めて長平に勝ち、士卒四十万を穴埋めにした。
それより秦軍は、すすんで邯鄲をかこむ。ついに趙の国では、子楚を殺そうとした。
よつて呂不韋は、またも大金を投じて監視の役人を買収し、子楚を脱出させて秦へ送りとどけた。
子楚の夫人と子の政(せい)は、邯鄲の民家にかくまわれた。
それから三年の後、周の王室はほろぼされた。
秦の進出に脅威をいだいた周の赧(たん)王は、諸侯とむすんで、秦を攻めたのである。
おこった昭襄王は、ただちに周を討った。
たちまちにして周の軍は敗れ、赧王はみすがら秦に走って、罪を謝した。
ここに周の王室は、武王より三十七世、八六七年にして滅亡したのであった(前二五六)。
それからまた三年にして、昭襄王は死んだ。子楚の父が立った。孝文王である。子楚は太子となった。
それを知ると趙の国では、子楚の妻子を鄭重に送りとどけてきた。
ところが孝文王は一年にして死去し、子楚が位につく(前二五〇)。すなわち荘襄王である。
荘襄王は即位すると呂不韋を丞相(宰相と同じ)に任じ、文信候に封(ほう)じて洛陽の十万戸をあたえた。
明くる年(前二四九)には、魯もまた、楚のためにほろぼされている。
魯は、周公より三十四代、八五〇年であった。
10 秦の始皇帝
1 奇貨居(お)くべし
戦っては和し、和しては戦う、それが戦国の世のすがたであった。
戦争と和平とをめぐって、めまぐるしい外交の駆けひきがあった。
それゆえに大国のあいだでは、さかんに人質が交換された。人質といっても、弱い国から強い国へさしだすものとは限らない。
強国であっても、和平を保障するために、人質をだすことがあった。
秦の荘襄王(始皇帝の父)も、わかいころは人質として趙におくられ、その前半生を邯鄲(かんたん)の都においてすごしたのである。
荘襄王は、名を子楚(しそ)という。その父は、昭襄王の太子であった。
しかも子楚の母は、ひくい身分の出身であったから、子楚が人質にえらばれたのであった。
子楚が趙にいる間、秦はしばしば趙を攻めた。よって趙の人が子楚を遇すること、きわめてつめたかった。
秦からの仕送りもじゅうぶんではなかった。子楚の日常はわびしかった。
そこに目をつけたのが、韓の大商人たる呂不韋(りょふい)である。
「これ奇貨なり、居(お)くべし」(これは、ほり出しものだ、買い入れておいたほうがよかろう)。
というのも、すでに昭襄王は老齢であり、つぎに秦王となるべき者は、子楚の父である。
呂不韋は、子楚のために大金を投じ、太子の世嗣(よつぎ)にしようと考えた。
「もし、きみの計画が成功したら、秦国をわけて、きみと共有しよう」。
子楚は頓首(とんしゅ)していった。これより呂不韋は、しきりに運動をつづけた。
ついに太子の愛妃に取りいって、その心をうごかし、子楚を世嗣と定めることに成功したのである。
呂不韋は後見を託され、これより子楚の名はようやく列国に高まった。
そのころ呂不韋は、邯鄲で一番という美女を手にいれていた。
たまたま子楚がまねかれて、その女をみると、ひと目で気にいってしまった。女をゆずってくれ、と申しでる。
呂不韋は、心のなかで怒った。しかし、すでに家産をかたむけてまで子楚のためにつくしている。
それも大利を釣るためであった。そう思いなおして、その美姫を献じた。そのとき、女は身ごもっていた。
それをひたかくしにして、女は子楚のもとにおもむいた。
やがて月はみちて(妊娠すること、十二ヶ月という)、政(せい)という子をうんだ。
この政こそが、のちの始皇帝である。
ときに昭襄王の四十八年(前二五九)であった。
その年、秦は趙を攻めて長平に勝ち、士卒四十万を穴埋めにした。
それより秦軍は、すすんで邯鄲をかこむ。ついに趙の国では、子楚を殺そうとした。
よつて呂不韋は、またも大金を投じて監視の役人を買収し、子楚を脱出させて秦へ送りとどけた。
子楚の夫人と子の政(せい)は、邯鄲の民家にかくまわれた。
それから三年の後、周の王室はほろぼされた。
秦の進出に脅威をいだいた周の赧(たん)王は、諸侯とむすんで、秦を攻めたのである。
おこった昭襄王は、ただちに周を討った。
たちまちにして周の軍は敗れ、赧王はみすがら秦に走って、罪を謝した。
ここに周の王室は、武王より三十七世、八六七年にして滅亡したのであった(前二五六)。
それからまた三年にして、昭襄王は死んだ。子楚の父が立った。孝文王である。子楚は太子となった。
それを知ると趙の国では、子楚の妻子を鄭重に送りとどけてきた。
ところが孝文王は一年にして死去し、子楚が位につく(前二五〇)。すなわち荘襄王である。
荘襄王は即位すると呂不韋を丞相(宰相と同じ)に任じ、文信候に封(ほう)じて洛陽の十万戸をあたえた。
明くる年(前二四九)には、魯もまた、楚のためにほろぼされている。
魯は、周公より三十四代、八五〇年であった。