『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
9 富国と強兵
2 完璧(かんぺき)の使者
趙は恵文王の代になっても、依然として強国であった。
この時期に名将として聞こえたのが、廉頗(れんぱ)である。
斉を攻めて破り、恵文王の十六年(前二八三)には、功によって上卿に任ぜられている。
以来、趙の国の重鎮(じゅうちん)であった。
ちょうどそのころ、恵文王は楚の国から和氏(かし)の璧(たま)という名玉を手にいれた。
これをきいた秦の昭襄王は、使者をつかわし、十五城をもって璧と交換したい、と申しいれた。
恵文王は、廉頗や大臣たちをあつめて評定(ひょうじょう)した。
璧を秦にあたえても、おそらく十五城はえられず、あざむかれるだけであろう。
しかし、あたえなければ、これを口実に秦は攻めてくるに違いない。
使者の役はむずかしかった。しかも、これを進んで引きうけたのが、藺相如(りんそうじょ)である。
藺相如が、璧をささげて秦の都におもむくと、秦王はただちに引見した。璧をさしだすと、よろこんで受けとり、宮女や左右の者にみせた。
みな、万歳をとなえた。相如は、秦王が城をくれるきもちのないことを、みやぶった。
そこで進みでると、いった。「壁には瑕(きず)があります。お教えいたしましょう」。
秦王は璧をわたした。相如は璧を持ってしりぞきながら、柱を背にして立った。
怒りのために髪はことごとく立ち、冠をつきあげた(怒髪(どはつ)、冠を衝(つ)く)。
かくて秦王にむかっていう。
「わが国の評定では、みな申しました。秦は貪欲(どんよく)で、強大をたのみに、空言をもって璧を求めたのだと。
かわりの城も、おそらくは手に入らぬであろうから、璧をわたさぬがよい、と申したのです。
しかし私は反対しました。名もなき民のまじわりでさえ、あざむき合いはしない。
ましてや大国においてをや。かつ璧ひとつのために、強秦にさからうべきではない、と。
そこで趙王は斎戒すること五日、私に命じて璧をとどけさせたのです。
大国の威光をはばかり、敬意をはらうからであります。
しかるに大王が私を引見されて、儀礼はなはだ傲慢(ごうまん)、璧を手にするや女官にわたし、たわむれ、もてあそぶ。
城を引きかえにする気持など、さらに認められぬ。されば璧を取りもどしたのだ。
もし大王が、あくまでも私から璧をうばい取ろうとするならば、わが頭を、この璧もろとも柱に打ちつけ、くだいてしまおうぞ」。
相如(しょうじょ)は璧(たま)を持って柱をにらみ、いまにも柱に打ちあたらんばかりであった。
秦王は璧がくだかれることをおそれ、無礼をわびて、璧を請うた。
さらに役人を召して、図上に十五城をしめし、これを趙に与えようと、ゆびさした。
しかし相如は、なお秦王の不実を疑って、述べたてた。
「和(か)氏の璧は、天下が共に伝えて宝とするものであります。よって趙王も五日の斎戒をなされました。
大王もまた、五日の斎戒をなされ、しかるべき儀礼をととのえていただきたい」。
ついに昭襄王も、五日間の斎戒を承諾し、相如を宿舎にかえらせた。相如は、それでも秦王を信用しない。
自分の従者にそまつな服を着せて、璧を持たせて、間道(かんどう)から、趙に帰らせてしまった。
五日たって秦王は、最高の礼をもって相如を引見した。相如は、すでに璧は手もとにないことを告げ、そしていった。
「私は大王をあざむきました。その罪は死にあたることを承知しております。どうぞ、かまゆでの刑に処していただきましょう」。
一同はおどろいた。相如を引ったてようとする者があったが、さすがに秦王はおさえた。
いま相如を殺したとて、璧がえられるわけではない。しかも両国のあいだは絶たれよう。
むしろ厚遇して、趙にかえしたほうがよい。
こうして藺相如は、ぶじに帰国することができたのである。
趙王は、その功をたたえて、上大夫(じょうだいふ=上席の大臣)に取りたてた。
璧(たま)を完(まっと)うす、すなわち「完璧(かんぺき)」という語は、ここからうまれた。
9 富国と強兵
2 完璧(かんぺき)の使者
趙は恵文王の代になっても、依然として強国であった。
この時期に名将として聞こえたのが、廉頗(れんぱ)である。
斉を攻めて破り、恵文王の十六年(前二八三)には、功によって上卿に任ぜられている。
以来、趙の国の重鎮(じゅうちん)であった。
ちょうどそのころ、恵文王は楚の国から和氏(かし)の璧(たま)という名玉を手にいれた。
これをきいた秦の昭襄王は、使者をつかわし、十五城をもって璧と交換したい、と申しいれた。
恵文王は、廉頗や大臣たちをあつめて評定(ひょうじょう)した。
璧を秦にあたえても、おそらく十五城はえられず、あざむかれるだけであろう。
しかし、あたえなければ、これを口実に秦は攻めてくるに違いない。
使者の役はむずかしかった。しかも、これを進んで引きうけたのが、藺相如(りんそうじょ)である。
藺相如が、璧をささげて秦の都におもむくと、秦王はただちに引見した。璧をさしだすと、よろこんで受けとり、宮女や左右の者にみせた。
みな、万歳をとなえた。相如は、秦王が城をくれるきもちのないことを、みやぶった。
そこで進みでると、いった。「壁には瑕(きず)があります。お教えいたしましょう」。
秦王は璧をわたした。相如は璧を持ってしりぞきながら、柱を背にして立った。
怒りのために髪はことごとく立ち、冠をつきあげた(怒髪(どはつ)、冠を衝(つ)く)。
かくて秦王にむかっていう。
「わが国の評定では、みな申しました。秦は貪欲(どんよく)で、強大をたのみに、空言をもって璧を求めたのだと。
かわりの城も、おそらくは手に入らぬであろうから、璧をわたさぬがよい、と申したのです。
しかし私は反対しました。名もなき民のまじわりでさえ、あざむき合いはしない。
ましてや大国においてをや。かつ璧ひとつのために、強秦にさからうべきではない、と。
そこで趙王は斎戒すること五日、私に命じて璧をとどけさせたのです。
大国の威光をはばかり、敬意をはらうからであります。
しかるに大王が私を引見されて、儀礼はなはだ傲慢(ごうまん)、璧を手にするや女官にわたし、たわむれ、もてあそぶ。
城を引きかえにする気持など、さらに認められぬ。されば璧を取りもどしたのだ。
もし大王が、あくまでも私から璧をうばい取ろうとするならば、わが頭を、この璧もろとも柱に打ちつけ、くだいてしまおうぞ」。
相如(しょうじょ)は璧(たま)を持って柱をにらみ、いまにも柱に打ちあたらんばかりであった。
秦王は璧がくだかれることをおそれ、無礼をわびて、璧を請うた。
さらに役人を召して、図上に十五城をしめし、これを趙に与えようと、ゆびさした。
しかし相如は、なお秦王の不実を疑って、述べたてた。
「和(か)氏の璧は、天下が共に伝えて宝とするものであります。よって趙王も五日の斎戒をなされました。
大王もまた、五日の斎戒をなされ、しかるべき儀礼をととのえていただきたい」。
ついに昭襄王も、五日間の斎戒を承諾し、相如を宿舎にかえらせた。相如は、それでも秦王を信用しない。
自分の従者にそまつな服を着せて、璧を持たせて、間道(かんどう)から、趙に帰らせてしまった。
五日たって秦王は、最高の礼をもって相如を引見した。相如は、すでに璧は手もとにないことを告げ、そしていった。
「私は大王をあざむきました。その罪は死にあたることを承知しております。どうぞ、かまゆでの刑に処していただきましょう」。
一同はおどろいた。相如を引ったてようとする者があったが、さすがに秦王はおさえた。
いま相如を殺したとて、璧がえられるわけではない。しかも両国のあいだは絶たれよう。
むしろ厚遇して、趙にかえしたほうがよい。
こうして藺相如は、ぶじに帰国することができたのである。
趙王は、その功をたたえて、上大夫(じょうだいふ=上席の大臣)に取りたてた。
璧(たま)を完(まっと)うす、すなわち「完璧(かんぺき)」という語は、ここからうまれた。