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5-3 アテネの民主化

2018-02-21 03:57:21 | 世界史
『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年

5 アテネの民主政とソフィスト(賢者)―ソクラテス―

3 アテネの民主化

 アテネの国ができたころは、王政だった。
 そして伝説に近いが、アイゲウスやテセウスなどの王の名が伝わっている。
 王政はやがて、貴族たちの政治にとってかわられた。
 貴族たちは政治の権を、自分たちだけで独占したばかりでなく、裁判権も彼らだけが持っていた。
 このため貴族と一般の人々とのあいだに争いが起こると、貴族たちは自分たちに有利なように裁判を勝手にとりしきった。
 平民たちはこのことに強い不満を持っていた。
 ヘシオドスという叙事詩人が、彼の作品『仕事と日々(エルガ・カイ・ヘメライ)』のなかで、鷲(わし)とうぐいすの物語にたとえて、強い者が弱い者をいじめ、力が正義のように見えることを強く怒り、裁判の不正に強い怒りを向けている。
 ヘシオドスの歌ったのは、アテネより北のボイオティアの農民の生活だが、貴族が勝手に不正な裁判をするのはアテネでも同じことだった。
 そのうえそのころは、文字に書いた法文はなく、慣習法が行なわれていた。
 法律が文字にはっきり書かれていないので、そのあいまいさを利用して、貴族はこれが慣習だと勝手な判決をし、一度そういう判決が行なわれると、それは慣習になってしまい、貴族にはしだいに有利に、平民にはしだいに不利になる傾向があった。
 民衆の不満はしたがって裁判に集中した。
 貴族と民衆の争いは絶えず、民衆の不満はますます強まるばかりだったので、アテネではドラコンが紀元前六二一年に、とうとう成文法を作ることになった。
 このドラコンの法律はたいへんきびしい法律で、たいていのことが死刑になることになっていた。
 そのため「血で書かれた」といわれたほどだった。
 また貴族に有利で、今までよりも民衆に特別に有利になったような規則があったわけではなかった。
 しかしとにかく書かれた法文ができたので、あいまいさを利用して、むやみなことはしにくくなった。
 一応成文はできたが、これでアテネの政治・経済状態が改善されたわけではなかった。
 土地は少数の貴族の手にしだいに集中した。
 これに対して民衆は貧しくなり、彼らのなかには土地を失い、さらに自分のからだを抵当にして借りた負債のために自由を失って、奴隷になってしまう者も多かった。
 こういう傾向は強まるばかりだった。
 こういう状態だったから、貴族と民衆とのあいだには争いが絶えなかった。
 その争いを調停するために出てきたのがソロンだった。
 ソロンはたいへん賢い人だとされており、とくに金持ちでも貧乏人でもなかった。
 そのため彼に調停をまかせても、金持ちにばかり有利になるように事をきめたり、貧乏人にばかり味方することもないだろうと思われた。
 そのため紀元前五九四年に富裕者からも、貧者からも支持されて調停者として選ばれた。
 彼は調停者になると、まず、あらゆる借金を棒引きにしてしまった。
 これは「重荷おろし(セイサクティア)」とよばれた。
 この情報をいちはやく知った人々がいて、あちこちでたくさんの借金をし、金もうけしたという。
 ソロン自身もそれをやったという噂もあったらしい。
 つぎに彼は借金が返せないために奴隷になっていた人々をみな解放し、もとの自由人に返した。
 そのなかにはずっと前に外国に売られていたために、自由になって帰って来ても、アテネの言葉がしゃべれない者までいたという。
 彼はまた人々を、その財産収入の額によって四級に分け、財産収入の多い人ほど政権に多くあずかれるようにした。
 しかし最下級の「テーテス」とよばれた無産者でも、民会に出席し、裁判に参与することができた。
 この制度で、貴族の家に生まれても、財産収入のない者はあらゆる政治に参与することができるわけではなくなった。
 それに反して平民でも収入の多い者は、重要な政治にも参与できるようになった。
 そのためこの制度を「金権者政治」とか、「富裕者政治」などとよぶ人もある。
 ソロンはこのほか貨幣や度量衡(どりょうこう)制度も改め、ドラコンの法律を殺人に関するもの以外はやめ、新しい法律を作った。
 ソロンの新しい法律はその後ずっと長いあいだ、アテネの国法となった。
 彼はこのように諸改革を行なったが、金持ちは貸し金がゼロになってしまったことでソロンを恨み、貧民は土地を再分配してもらえると思っていたのに、土地はもらえず不満だった。
 これらの不満にうかがえるように、ソロンの改革はアテネの社会の矛盾を徹底的に改革するものではなかった。
 そのため、貧富の争いはなおやまず、彼らはそれぞれ党派を作って争いつづけた。
 こうした党派争いのあいだから、ペイシストラトスは親衛隊を率いて、紀元前五六一年アクロポリスを占領して僣主(タイラント)になった。
 彼はタイラントで、非合法的に権力を握った独裁的支配者だったが、けっして暴君ではなかった。
 彼の時代にはむしろよい政治が行なわれ、アテネの商業や工業が盛んになり、美術・文学その他の文化も起こったことは、前に書いたとおりである。
 しかしペイシストラトスの死後(紀元前五二七年)、彼の息子のヒッピアスがタイラントになってからは、しだいに暴政になった。
 人々はヒッピアスを倒そうとしたがなかなか成功しなかった。
 しかしスパルタの力を借りて、紀元前五一〇年にとうとうヒッピアスを国外に追放することができた。
 ヒッピアスの追放後、アテネはごたごたしたが、紀元前五〇八年に、クレイステネスが改革を行なって、アテネの民主化をすすめた。
 彼は古い氏族制的な区分「部族(ピユレー)」を改めて、新しく政治的、軍事的な区分にした。
 これによって、貴族たちの権力のもとはなくなり、民主化はすすんだ。
 貴族にかわって、ソロンが財産収入で四級に分けたなかの第三級の「農民(ゼウギタイ)」級の人々が、政治的に重要な役割をするようになった。
 彼らは胸甲や丸楯などの重武装を自弁できるほどの収入のある人々だった。
 ペルシア軍が攻めて来たときに、マラトンで勇敢に戦って勝利を得たのは、この重装歩兵(ホプリタイ)たちで、彼らの密集戦術が、ペルシアの騎兵たちを打ち負かしたのだった。
 マラトンの勝利で、アテネ人は自分たちの政治体制に自信を持った。
 何十倍という敵の大軍を、わずか一万人の重装歩兵で、独力で破ることができたのは、「自分たちの民主政のおかげだったのだ。
 もし負ければ自分たちはこの自由を失って、ペルシア人王の奴隷になってしまうのだ」と考えて必死になって戦ったのだが、もともと大王の奴隷のようなペルシア兵には、失う自由がないのだから、彼らは勝っても負けてもよいという気持ちで戦ったから敗けたのだ。
 こんなふうにアテネ人は考えた。
 そしてマラトンの戦勝後は、重装歩兵の階層の人々の政治的発言力が強くなった。
 つぎのサラミスの海戦の勝利は、アテネの民主化をいっそう強めることになった。
 ギリシアでは参戦するときには、武器を自分で買いととのえねばならなかった。
 国で支給してくれるわけではなかった。したがって武器を買う力のない人は、戦争に行くことができなかった。
 戦争に行くことができない人は、政治上の発言力を持つこともできなかった。
 しかし軍艦を漕ぐことは、力さえあればよかった。
 よろいなどをつけて乗船することは、むしろ重くてじゃまだった。
 したがって武器を買えないような「無産者(サーテス)」でも水夫になって、海戦に参加することはできた。
 アテネは、その無産者たちが乗り組んで戦ったサラミスの海戦に勝ち、ペルシアとの戦争に勝つことができた。
 自分たちの力が祖国の国難を救ったのだという自信を無産者たちは持ち、彼らは政治に参与することを要求するようになった。
 こうしてアテネの民主化は、ペルシア戦争の勝利とともに、無産者にまで徹底していくことになった。
 徹底した民主政では、民会(エクレシア)が最高・最終の議決機関になった。アテネの民会は、市民ならみな出席することができた。
 当時のアテネ市民の数は三万人といわれるが、三万人全部が出席することは、ほとんどなかった。
 六千人出席すれば、定足数だったが、それも集まらないことがよくあったので、出席者には日当を出すようになった。
 しかし、とにかく六千人でもたいへんな数である。
 大きな美しい声で上手(じょうず)にしゃべることが大切になってきたわけである。
 雄弁の先生のソフィストに、高い授業料を払ってでも、弁論術を学ぼうとしたのは、そのためだった。
 民会で民衆の心をとらえることができれば、自分の思うように国の政治をうごかすことは容易だった。

中国に歩み寄るローマ法王、香港枢機卿が痛烈批判 中国任命司教の承認は「羊の群れの前にオオカミ置くようなもの」(WSJ)

2018-02-21 03:40:15 | 時事
中国に歩み寄るローマ法王、香港枢機卿が痛烈批判
中国任命司教の承認は「羊の群れの前にオオカミ置くようなもの」
By Eva Dou
2018 年 2 月 16 日 08:33 JST The Wall Street Journal

(写真  中国・河北省の石家荘近郊の地下教会で行われるミサの様子 Photo: Kevin Frayer/Getty Images )

 【香港】香港カトリック教会の陳日君・枢機卿(86)は1980年代、数十年続いた共産党政府による宗教弾圧の後、バチカン(ローマ法王庁)と中国のカトリック教徒の絆を復活させるのに一役買った。司教を既に引退した同枢機卿だが、今度はローマ法王フランシスコと中国政府のデタント(緊張緩和)を何とか阻止しようとしている。

 陳氏は中国政府が任命した国内司教7人を承認するバチカンの意向について、中国カトリック教徒への裏切り行為だと批判した。政府公認教会の正統性を認めることを拒否し、法王に忠誠を誓う「地下教会」に参加することで、迫害にさらされてきたカトリック教徒を指す。

 陳氏はインタビューで「『これほど長年にわたり忠誠を尽くすのは愚かなことだ。さあ降伏しなさい』と告げているのも同然」と語った。インタビューが行われた場所は、同氏が70年前に通った香港の神学校だ。

 バチカン当局者や中国国内の支持者は、70年に及ぶ中国政府との亀裂を修復することは、政府公認教会と非公認の地下教会が一つにまとまることにつながると話す。

 かつて破門された中国の司教7人の正統性をローマ法王が認めれば、交渉中の合意案を中国政府が受け入れるための道を開く。バチカンが提案する合意案では、将来の中国国内の司教候補について法王に拒否権を与えることになっている。

 陳枢機卿のブログ投稿やインタビューでの発言、中国政府に屈しないよう先月ローマで直訴したことは、バチカンを守勢に立たせるとともに、アジアのカトリック教会全体に議論を巻き起こした。

 バチカンが昨年12月、地下教会の司教2人に対し、中国政府が任命した司教にポストを譲るよう求めたことから、陳氏は一段と反発を強めた。

 「彼らは羊の群れの番人に不適切な者たちを任命しようとしている。一体どういつもりなのか」と同氏はインタビューで語り、目を閉じて両手の拳を振り上げた。「羊の群れの前にオオカミを置けば、オオカミは大虐殺を始めるだろう」

 さらに陳枢機卿は、バチカンが中国に対し、冷戦時代に東欧の共産主義諸国に譲歩したのと同じ過ちを犯す可能性があると指摘した。ただ同氏に批判的な向きは、こうした強硬な反共産主義的姿勢を過去の遺物と呼んでいる。

 バチカンの国務長官であるピエトロ・パロリン枢機卿は先月、イタリア紙ラスタンパとのインタビューで、中国政府との関係が修復されれば、同国の全てのカトリック教徒が相互間および法王との絆を深めるのに役立つと述べた。

 陳氏もかつては同じ考えだった。1980年代にローマ法王ヨハネ・パウロ2世が毛沢東時代の迫害を乗り越え、中国のカトリック教徒同士が和解するよう呼びかけた際、陳氏は政府公認教会との関係を構築し、公認の神学校で指導に当たるなどした。

 当時、同氏は双方の歩み寄りは可能だと楽観的に構えていた。ヨハネ・パウロ2世の後任法王に就いたベネディクト16世(2006年に陳氏を枢機卿に任命)の下で、同氏は中国政府との関係改善に向けた突破口を開こうと交渉を続けた。

 陳氏は国内のカトリック教徒を監視する2つの政府機関を、バチカンにとって容認可能な形に修正できると考えていた。だが後に中国政府がそれを許さないことを確信するに至る。

 「私はバチカンに対し、地上にある(政府公認)教会の立場をいち早く擁護した人間の一人だった」と2012年2月のブログで振り返っている。

 同氏はその頃にはすっかり幻滅し、中国はバチカンにどのような実質的権限も譲り渡す気はないという結論に達した。その見方は今も変わらない。

 「無神論者の政府は、宗教を全面的に支配する方針を断固変えなかった」。当時、同氏はこう記した。

 陳氏は1932年に上海でカトリック教徒の家庭に生まれた。国共内戦のさなかに成長し、中国共産党が勝利を収める直前に出国した。サレジオ修道会の一員として香港に戻ったのは1948年のことだ。

 挑発的な見解を公言するのはいつもの役回りだ。長年の知人によると、サレジオ修道会の同僚はその鋭い舌鋒(ぜっぽう)にちなんで同氏を「トラ(荒くれ者)」と呼んだという。

 香港の中国返還を間近に控えた1996年、香港カトリック教区の司教補佐(および次期司教)に任命された同氏は、新たな支配者に対抗し、市民としての自由を守ろうと人々に呼びかけた。

 79歳で3日間のハンガーストライキを実行した。香港政府がカトリック系の学校を監視する新たな方針に抗議するためだった。

 「私がこれほど冗舌である理由は、残念ながら近い将来、もう話せなくなる日が来るからだ」

http://jp.wsj.com/articles/SB10975626634061694908804584046381198070094

日本の武士たち  聖フランシスコ・ザビエル

2018-02-21 03:37:29 | 格言・みことば
新しく信者となった人々の中に、多くの武士があり、彼等は一旦信者となった後は、私が諸兄に書きあらわすことのできない位に、私達の親しい友となった。そして、私逡に、不信者の宗旨の教えを、丹念に説明してくれた。前にも言ったように、違った宗旨が九つある。その内容が詳しくわかってから、その教えの誤謬を明らかにするために、随分解読を探し求めた。それで私達は、毎日のように、その教えとその根抵とする所とについて質問した。これに対して坊さんや尼さんをはじめ、魔術師や神の教えを守ることのできない人々も、ろくに答えることができなかった。信者達は、坊さんが答えに窮すると大いに喜んだ。こうして毎日神への信仰が成長して行った。討論に加わる不信者の人々も、今までの宗旨の教えに対して信頼を失った。

聖フランシスコ・ザビエル 「書簡」30:17、1552年1月29日

他界からの手紙:聖母マリアは救いの恵みの仲介者

2018-02-21 03:33:49 | 天国・地獄
ミカエル・モスカ神父訳『わたしは亡びた』、17

 マリアの熱愛者、聖ルイ・グリニョン・ド・モンフォールが書いた次のことばを読みましょう。

◆4-2、聖母マリアは救いの恵みの仲介者

 仲介者なしに、直接神に近寄るのをひかえるのは、謙遜な心のしるしです。

 わたしたちの心の奥底は腐敗しているのであるから、わたしたちだけの業をもってしては、とうてい神にうけ入れられる値打ちがありません。神が、そのみ前に出る仲介者を定められたのには、それ相当の理由があったはずです。わたしたちをあわれまれた神は、ご自分のあわれみにふさわしい者とならせるために、権力ある仲介者を、人間のために定められたのです。その仲介者をないがしろにして、その推薦を退けて、至高の座に近よろうというのは、明らかに謙遜の不足であり、神への崇拝の不足です。この世の王であってさえも、その前に出るには適当な取りつぎ者がいるのであるから、まして「王の王」のみ前に出るには、そうなければ不敬の罪に当るでしょう。

 主イエズス・キリストは、いと高き神のみ前にあって、わたしたちの弁護者であり、救いの仲介者である。わたしたちは、「勝利の教会」と「戦う教会」と共に、イエズスを通して祈らなければなりません。わたしたちが、いと高き者のみ前に立つことができるのはイエズス」によってです。イエズス・キリストの功徳によりかかり、その功徳を着て、いと高き者のみ前に立てるのです。

 しかし、わたしたちにとっては、この取りつぎ者のイエズス・キリストのみ前に立つのに、もうひとりの取りつぎ者を必要とするのではないでしょうか? わたしたちは、直接イエズス・キリストのみ前に立てるほどに清いものでしょうか? イエズスは、万事においておん父と平等な神ではありませんか? とすれば、おん父と同様に尊敬しなければならない至聖なるお方ではありませんか?

 イエズス・キリストが、その無限の愛徳によって、おん父の怒りをなだめ、人間の負債を支払うあがない者となり仲介者となったとしても、それだからといって、「イエズス」をおん父よりも畏敬しなくてよいというわけではありません。

 では、わたしたちも、聖ベルナルドと共に、仲介者イエズス・キリストに対して、わたしたちには、もうひとりの仲介者が必要であり、その愛徳の役目を果すには、マリアがもっとも適当であると断言しましょう。イエズス・キリストは、マリアを通してこの世にくだったのであるから、わたしたちがイエズス・キリストに達するにも、やはりマリアを通してでなければなりません。

 イエズス・キリストの無限の偉大さを考え、わたしたち自身の卑小さをかえり見て、直接イエズスに向かうのを恐れるなら、わたしたちは、聖母のとりつぎを乞い願いましょう。マリアには、近寄りがたい程に厳しいところも、目がくらむばかりに輝しい所もありません。わたしたちは、罪に汚れない以前の人間を、マリアにおいて見つけます。マリアは、わたしたちの目が弱く、その光が強いために、目をくらまさせてしまう程の太陽ではありません。太陽の光線をうけて、わたしたちの弱さ小ささにふさわしいようにその光を和らげる、月のように美しく、やさしいお方です。

 愛にとむマリアは、とりつぎを願う者を、ひとりとして退けることはありません。聖人たちも云っているとおり、この世が初まって以来、ゆだねる心と忍耐つよさをもってマリアにより頼んだ人々の中で、その願いを聞き届けられなかった者はないのです。

 また、マリアの願いは、いつも神のみ前に聞き届けられます。おん子のみ前に立ちさえすれば、イエズス・キリストは、すぐマリアの願いを入れられます。イエズス・キリストは、愛する母の願いに、すぐ負けてしまわれるのです。

 今まで書いてきたのは、聖ベルナルドと、聖ボナヴェントゥーラとの言葉です。かれらは、神にのぼるためにわたしたちには三段階があると云っています。その第一段は、わたしたちにもっとも身近く、わたしたちの能力にもっともふさわしいマリアであり、第二段は、イエズス・キリストであり、第三段は、おん父である神であります。

 イエズス・キリストにとどくためには、とりつぎ者マリアを通さなければなりません。永遠のおん父にのぼるためには、わたしたちの救いの仲介者であるイエズス・キリストを通さなければなりません。