カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

4-5 サラミスの海戦

2018-02-18 19:28:26 | 世界史
『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年

4 ペルシア戦争

5 サラミスの海戦

 ギリシアでは国家のことでも、個人的なことでも、重要なことは、みな神託(しんたく)をきくならわしだった。
 ギリシアの神託所はいくつかあったが、なかでもいちばん尊崇されたのは、デルフィのアポロンの神託だった。
 ここの神託は、外国にまで知られ、リュディアのクロイソス王などもそれをきいたといわれる。
 ペルシアとの戦いに際しても、もちろん神託は問われた。
 デルフィの神託は「おお! あわれな人々よ……」という言葉ではじまり、不吉な言葉が多かった。
 そのためもういちど神託を問うてみると、「……すべてを見たもうゼウスは一つの木の城壁を汝(なんじ)らに与える。それは壊れることなく、汝と汝の子らを守るだろう。……神聖なサラミスよ、汝は女の生んだ子らを滅ぼすだろう」という言葉があった。
 この神託は人によって解釈がちがった。「木の城壁」というのは、むかし木の柵をめぐらしていたアクロポリスのことだという者もあり、いや軍艦(当時の軍艦は木造だった)のことだという者もあった。
 いちばん終わりの言葉はサラミスで海戦があり、アテネ人は全滅するのだと解釈する者もあった。
 テミストクレスは、「木の城壁」を軍艦と解釈し、もしアテネ人が全滅するなら「神聖なサラミスよ」とはいわず、「不吉なサラミスよ」とでもいうだろう、滅びるのはペルシア人にちがいないと解釈した。
 大部分のアテネ人はテミストクレスの解釈に賛成し、女、子供、老人は近くの国などに疎開させ、壮年の男子たちはみな船に乗りこんで、アテネ市を捨てた。かねて建造しておいた二百隻の大艦隊が役に立った。
 アテネ市中には、「木の城壁」をアクロポリスと解釈した少数の人々が残り、アクロポリスに立てこもった。
 ペルシア軍は、空になったアテネ市にはいって来た。
 アクロポリスを守っていた少数の人々は殺され、神殿は掠奪されて、火をかけられた。
 ギリシア軍の総指揮権を持っていたスパルタは、コリント地峡を次の守備線にして、ペロポネソス半島を守ろうと考えていた。
 そのため艦隊も、ペロポネソスのほうへまわそうとした。
 しかしテミストクレスは、アテネ前面のサラミス島の付近で決戦をしようと決心した。
 そこで逆スパイをペルシア側に送り、ギリシア艦隊はペロポネソス方面へ逃げようとしているから、その前に、サラミス島の近くに集結しているところをいっきょに襲うのがよいと、いわせた。
 ペルシア海軍は、サラミス島とアテネとのあいたの狭い水道に集結しているギリシア海軍を、夜のあいだに包囲した。
 ここで決戦か、ペロポネソスへ引き上げかと論じていたギリシア軍は、敵が包囲したことを知って驚いたが、今はここで決戦するよりしかたがなくなった。
 こうして、サラミスの海戦ははじまった。ギリシア海軍は約三百隻で、その大半約二百隻は、アテネの艦船だった。
 ペルシア海軍はその倍以上もあり、船の形も大きかった。
 しかしこれが、狭い水道での戦いには不利になった。ギリシア船は体当たりで、敵艦の船腹に突っかけた。
 ペルシア船は大型のうえに多数なので、方向転換もうまく行かず、味方同士でぶつかり、沈没するものも多かった。
 まごまごしている船には、ギリシア船が舷(げん)を近づけ、そこから兵士が飛びこんで、斬りこんだ。
 そのうえ、午後には西風が強く吹きはじめ、嵐になり、ペルシア艦隊はますます混乱した。
 外海に逃れ出ようとするペルシア船を、ギリシア船は追い、海戦の勝敗は夕方までにきまってしまった。
 紀元前四八〇年の九月末のある日のことだった。
 たまたまこの日には、地中海の西のほうでも海戦が行なわれていた。
 それはシチリア島のヒメラで、カルタゴとゲロンがたたかった戦いだった。
 ここでもゲロンが勝ち、フェニキアの植民地であるカルタゴは、シチリア島のギリシア人制圧に失敗したのだった。
 クセルクセスは、ペルシア艦隊の惨敗ぶりを見て、万一ギリシア艦隊に船橋でも切られて、退路が断たれてはたいへんだと、六万の兵をつれてアジアに逃げ帰った。
 あとをまかせられたマルドニオスは、陸軍を率いて、北ギリシアにいったんしりぞいた。
 そこから彼は和平交渉をしたが、アテネは応じなかった。そこでマルドニオスは翌年春、ふたたびアテネ市に攻め入った。
 彼らはアテネ市を徹底的に破壊した。城壁を大部分壊し、将校たちの宿舎に使用したもののほかは、民家もほとんどみなとりつぶしてしまった。
 アテネ市を破壊すると、マルドニオス軍は中部ギリシアのテーベに退いた。
 そして八月にはそのプラタイアというところで、ペルシア軍とギリシア連合軍は対峙(たいじ)した。
 ギリシア側の総司令官はスパルタのパウサニアスだった。
 神託は先に戦いをしかけたものが敗れると、ペルシア軍にも、ギリシア軍にも告げていた。

 そのため両軍はにらみあいをつづけていたが、ついにしびれをきらしたペルシア軍が戦端を開き、神託どおり、ペルシア軍の敗戦に終わり、マルドニオスは戦死した。
 こうしてペルシアは海・陸ともに敗戦のうきめを見た。
 この後も小アジア海岸のミュカレなどで小規模な戦いが行なわれるが、ペルシア戦争は事実上はここに終わったといえる。
 ペルシアはこの後は、ギリシア遠征をもはや企てなかった。

『旧約のはなし』第1期アダムからアブラハムまで:第1課:天地の創造

2018-02-18 05:10:20 | 新・旧約聖書まとめ
『旧約のはなし』「第1期アダムからアブラハムまで:第1課:天地の創造」浦川和三郎司教、天主堂出版、1927年

第1期  アダムからアブラハムまで
第1課  天地の創造

1 世界のはじまり

 天も地も草木から禽獣、人間に至るまで、みなひとりでに生じたものではありません。永遠の存在であって、始めもなく終わりもなく、いつでもどこにでもおられるのは、ただ神様だけです。その神様によって一切のものは造られたのであります。しかし、創造の年代は、聖書に一言も記してない。現代科学の憶測によると、幾百万年、あるいはそれ以上の昔であろうということです。同じように、人間が初めて地上に現れた年代についても、聖書は何とも教えていない。科学上から推し測るよりほかはないのですが、今日では、科学者の言うところもまちまちで、一向あてになりません。確かなところは分らないと言うよりほかはありません。

2 見えない世界

 世界は、目に見えるのも見えないのも、すべて無から造られました。神様がだた一言おっしゃっただけで、一切のものは出来たのであります。まず神様は、いわゆる天使をお造りになりました。天使は色もなく、形もない、しかも知恵と自由を備えた霊であります。その天使に、永遠の福楽を与える前に、神さまは一応天使をお試しになりました。もちろん、どんな種類の試しであったか、その辺は何ともわからないが、天使の多くは固く忠節を守って動きませんでした。しかし、中には柄にもない傲慢を出して神さまに背き、地獄に罰されたのもありました。彼らのなれのはてが悪魔で、その頭(かしら)をサタンと呼びます。
 悪魔らは常に神様を怨み、人を悪に誘うて止みません。善と悪との戦いはここに始まったのであります。

3 見える世界

 次に神様は、見える世界、すなわち天と地とをお造りになりました。しかし、初めてお造りになったのは、今のように整った世界ではない、ただ、行く行く天となり、地となり、万物ともなるべき材料の大きな塊で、それと定まった形すらない。その塊を真暗な闇が包んで居ました。神様は6日の間にこの材料をそれぞれに整えて、こんな見事な世界となし給うたのであります。もとより6日といっても、24時間を1日としたそれではなく、数えられもしないほどの長い長い歳月を、大きく6つに区分けしたまでに過ぎないのであります。

4 6日間の御業

 神様は、第1日に光を造って、これを暗と分かち、光を昼と呼び、暗を夜と名づけなさいました。2日目には青空を造り、これを天とお呼びになりました。3日目には陸と海とを引き分け、陸には色々の草木を茂らせなさいました。4日目には日、月、星を造って夜を昼とを区別し、季節や日や年を分かつための象(しるし)ともなさいました。5日目には水に泳ぐ魚とか、空に翔ける鳥とかをお造りになりました。6日目に造られたのは、家に畜う牛馬や野山に駆け回る獅子、虎、象などの類でした。このような天地万物は、すべて神さまの御手に造られたのですから、その間には感心するような見事な秩序が立ち、それぞれ神様の全能、全智、全善等の美しい御徳を物語っていたのであります。だが無神主義の先生たちは、その見事な秩序を眺めたくないのです。何とかして天地万物に記されてある神さまの御足跡を磨り消したいものと考えています。「物というものは、ひとりでに出来、ひとりでに進化して無生物から生物へ、劣等生物から高等生物へと進んでいったのだ」
と、口癖のように叫んで止みません。彼らは被造物の上に反射している神さまの偉大さをば、わざと目をつぶって見ないように、見ないようにと努めているのであります。

5 人間の創造

 天地万物は美しく整ってきた。しかし、いくら美しく整ってきても、まだこれだけでは物足りない。なおその上に知恵を持ち、意志を備えた何者かがあって、天地万物の美をたたえ、あわせてこれが創造主である神様を認め、讃め、愛し、神さまに仕え奉らなくては、それこそ龍を描いて眼を入れないようなものです。よって神様は、6日目に土をもって体を作り、これに魂を与えて立派な人間となし給うた。これこそ、わたしたちの元祖アダムで、世界の美を一身に集めたものでありました。そうして、創世の業はめでたく終わりました。神様はその天地万物をご覧になると、いかにも美しく見事にできている。よって7日目にはお休みになり、この日を祝して聖日となし給うた。旧約時代には土曜日を、今日では日曜日を安息日となし、労働を休んで祈祷をとなえ、祭礼にあずかるのは、ここに基づくのであります。

6 教訓

 国王がどこかにお行幸になるという時は、下検分のために、まえもって人が遣わされ、諸般の準備をしておくものです。今、人間は万物の霊長ですから、神さまは住所から食物までの必要なものを一切備えたうえで、ようやくこれをお造りになりました。で、人たるものは、あくまで己の品位を高め、万物の霊長たる身を持ちながら、自ら己を賤しめて万物の奴隷となるようなことをしてはならないのであります。

他界からの手紙:運命の日

2018-02-18 05:02:19 | 天国・地獄
ミカエル・モスカ神父訳『わたしは亡びた』、14

 一週間前、わたしは、かれと最後になったドライブに出かけました。それは本当にすばらしい日でした。でもなぜか心のうずく日でした。車を走らせていると、突然横合いから車がぶっかって来ました。わたしの乗った車はその瞬間、宙に浮いていました。そして激痛が全身奇走り、わたしは意識を失ってしまいました。

 不思議なことに、ドライブに出かけるその朝、「ミサに行きましょう」という声が訴えるように心をかすめていったのです。「くだらないことを!」わたしは心の中でつぶやき返したのです。そのために今、わたしは地獄にいるのです。わたしの死後のことは、あなたも知っています。わたしの夫と母、わたしの遺体と葬式、ここでは自然にそれが分かるのです。でも、あなたたちの世界で起こる出来事は、ただ夢のように見ているに過ぎません。あなたがどこにいるかを知るように、親しい人たちがわたしのためにしてくださっていることも知っています。

 意識を失ったわたしは、次の瞬間、深い暗黒から目覚めたのです。さんさんと光がふりそそぐ庭に投げ出されたようです。そこは、わたしが死体となって転っている所でした。ちょうど劇場にいるようでした。突然一条の光が輝いて、どん帳が切って落され、舞台の上に赤々と照らし出されたのは、考えもしなかった光景、わたしの生涯でした。

 瞬時に、わたしは自分のすべてを見たのです。少女の頃からあの最後の否みに至るまで、踏みにじりつづけた神の恵みの数々・・・。わたしは、自分を殺害者のように感じました。審判の間、わたしは、自分が手にかけた犠牲者を目の前に置いていたのです。

 クララ、わたしが後悔したり、恥ずかしく思ったりしたと思ったら、とんでもありません。でもわたしは、わたしを払い退けた神のみ前にいることはできませんでした。わたしに残された道は、ただ逃亡です。カインがアベルのしかばねから逃れたように、わたしの魂も、この戦慄から一刻も早く逃れたかったのです。

 私審判は終わりました。目に見えない審判者は、「わたしから離れよ」と宣告しました。そのときわたしの魂は、硫黄の煙の立ちこめる永遠の苦しみへと落ちていったのです。

隣人を助ける方法  聖イグナチオ・ロヨラ

2018-02-18 04:59:41 | 格言・みことば
隣人を助ける第四の方法は、はるか遠くまで達するもので、聖なる望みと祈りによるものです。勉学は、あなたがたに長い祈りをする時間の余裕を与えないでしょう。それでも、望みによってその時間を補い、すべての務めをひたすら神への奉仕のために行ない、それを絶えまない祈りと化することができます。ところで、この点についても、その他どのような事柄についても、もっと詳細に相談できるかたがたが、皆さんの身近におられます。ですから、いままで書き連ねてきたことのいくぶんかは、省くこともできたかもしれません。でも、私はめったに手紙を差し上げませんので、このたびは長くしたためて、皆さんとともに私自身の慰めともしたいと思った次第です。

聖イグナチオ・ロヨラ 「コインブラのイエズス会士への書簡」1547年5月7日