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カトリック情報 Catholics in Japan

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キリスト以後の過失は重く罰せられる シエナの聖カタリナ

2021-06-27 06:10:41 | 対話(聖カタリナ)
キリストのご受難以後、過失は以前よりも重く罰せられることについて。──神はそのしもべたちの祈りと苦しみとを介して世と聖なる教会とにあわれみを注ぐことについて。

 いとしいむすめよ、あなたに知ってほしいのは、人間は、さきに話したように、わたしの「ひとり子」の血のなかで再生させられ、人類を回復させる恩寵を受けたのちも、以前に劣らず、わたしが示した寵愛を無視しているということである。かれらは、相変わらず、悪から悪へ、過失から過失へと渡り歩き、わたしがかれらに与えたたまもの、与えつづけているたまものを少しも考えないで、絶えずわたしを侮辱しつづけている。かれらは、このたまものを恩寵とみなさないばかりか、ときには、これを不正義以外のなにものでもないと考えて、わたしがかれらの成聖以外のものを望んでいるかのように思っている。そこで、わたしは言いたい。かれらはもっとかたくなになり、もっと大きな罰を受けるにふさわしい者となる。なぜなら、贖い以前には、アダムの罪の汚れは消せなかったのに、今は、わたしの「子」の血の贖いを受けているからである (10) 。
 より多く受けた者がより多く返し、より多く与えてくれた者に対しては、より多くの負い目をもつというのが、道理である。わたしは、人間をわたしの似姿に造って、これに存在を与えた。それゆえ、人間はわたしに対して多くの負い目をもっていた。だから、わたしに光栄を帰すべきであった。ところが、この光栄をわたしから盗んで自分自身に与えた。わたしが服従を命ずると、これに反抗して、わたしの敵となった。しかし「わたし」は、みずから卑下して、あなたがたの人性をとり、謙遜によって、かれの傲慢を砕いたし、あなたがたを悪魔の束縛から解放して、自由にした。しかも、わたしは、あなたがたに自由以上のものを与えた。よく見てほしい。神の本性と人間の本性との一致によって、人間は神になり、神は人間になったではないか。
 人間は、かれらを恩寵のなかで再生させた「血」の宝を与えられていて、わたしに対しなんの負い目もないと言えるであろうか。あなたは、贖い以後、人間がわたしに対して、贖い以前よりも大きな負い目をもっていることを、わかると思う。だから、人間は、肉となった「ことば」、わたしの「ひとり子」の跡にしたがって、わたしに栄光と賛美とをささげなければならない。ところが、人間は、このわたしに対する愛と隣人に対するいつくしみとの負い目を、さきに話したように、真実な善徳をもって返すことをしない。
 かれらはわたしに多くの愛を負っているのであるから、それを返さないならば、もっと大きな罪におちいる。それで、わたしは、神的正義によって、もっと重い罰を課し、永遠の亡びに処するのである。にせのキリスト教徒は、異教徒よりも、きびしい罰を受けなければならない。神的正義により、決して焼きつくすことのない火によって、もっと焼かれなければならない。すなわち、もっと拷問を受けなければならない。そして、この拷問のなかで、良心のうじ虫に喰われるのを感じなければならない (11) 。しかしながら、この火は焼きつくすことがない。なぜなら、亡びた者は、その受ける拷問がどんなものであっても、決してその存在を失うことがないからである。それで、あなたに言うが、かれらは死を願う。しかし、与えられない。なぜなら、その存在を失うことができないからである。かれらは、その罪によって恩寵の存在を失う。けれども、自然の存在は失うことがない。
 それゆえ、「血」による贖い以後、罪は、以前よりも、はるかに重く罰せられる。なぜなら、もっと多く受けたからである。ところが、かれらは、その悪を認めず、これを意識していないかのようである。かれらは、わたしの「子」の血によって、かれらを和解させた「わたし」の敵となっているのである。
 しかし、わたしの怒りをなだめるくすりがある。それは、わたしのしもべたちである。かれらが十分な熱誠をもち、その涙によってわたしに強要し、その望みのくさりによってわたしをしばることである。あなたがどのようなくさりによってわたしをしばったかは、あなたの知る通りである。しかし、このくさりをあなたに与えたのはわたし自身である。わたしは世にあわれみをかけたかったのである。たしかに、わたしの誉れと霊魂の救いとに対するこの飢えと望みとをわたしのしもべたちに起こせたのは、わたしである。それは、かれらの涙に負けて、わたしの神的正義の怒りをやわらげるためであった。
 あなたの涙と汗とを取るがよい。これをわたしの神的仁愛の泉から汲み取るがよい。そして、わたしの他のしもべたちといっしょに、わたしの浄配の顔を洗うがよい。このくすりは、たしかに、かの女の美を取り戻させるであろう。その美を取り戻させるのは、剣でも、戦争でも、暴力でもない。むしろ、平和であり、謙遜で絶え間ない祈りであり、わたしのしもべたちが熱烈な望みによって流す汗と涙である。
 多く苦しみたいというあなたの願いは、このようにして成就するであろう。あなたがたは、忍耐の光明をこの世の邪悪な人々の暗黒の上に注ぐであろう。だから、恐れてはならない。もしも世があなたがたを迫害するならば、わたしはあなたがたに味方するであろう。なにごとにつけても、わたしの「摂理」があなたがたに欠けることはないであろう 。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)



神は聖職者の状態を嘆かれる

2021-06-19 06:49:38 | 対話(聖カタリナ)
神はキリスト教民とくにその聖職者の状態を嘆かれることについて。──聖体の秘跡とご託身の恩恵とについて。

 すると、神は、そのあわれみのまなこを、この霊魂に向けられた。そして、その涙に負け、その聖い望みのくさりにしばられて、つぎのように嘆かれた。
 ──いとしいむすめよ、わたしはあなたの涙に負けた。なぜなら、この涙は、わたしの仁愛に一致しており、また、あなたがわたしに対して抱いている愛によって流されたからである。わたしは、あなたの痛ましい望みのくさりにしばられている。しかし、眺めるがよい。見るがよい。わたしの「浄配」の顔がどんなによごれているか、不浄と自愛心とによって、どんなに癩にかかっているか、どんなに貪欲と傲慢とにふくれあがっているかを。普遍的な「体」すなわちキリスト教と、聖なる教会の神秘的体すなわちわたしの聖職者たちとは、罪によって肥満している。わたしの聖職者たちは、自分自身に食べさせ、自分自身に乳房を吸わせている。しかし、かれらは、自分たちだけに食べさせるべきではなく、キリスト教民の普遍的体と、無信仰の暗黒から脱け出てわたしの教会の成員に加わりたいと望むすべての人々とに食べさせ、これに乳房を吸わせなければならないのである。
 わたしの「浄配」の光栄ある乳と血とが、どれほどの無知、どれほどの暗黒、どれほどの忘恩、どれほどのよごれた手によって分配されているかを見るがよい。かれらは、どれほど図々しく、どれほど不敬に、これをさずかったことであろうか。生命を与える「血」が、かれらの過失によって、しばしば死を与えるのである。しかも、それは、死を滅ぼし、暗黒を払い、真理と光明とを放ち、欺瞞を恥じ入らせるわたしの「ひとり子」の貴い「血」である。
 この「血」は、これを受ける心構えのある人間の救いと完徳とのために、あらゆるものを与え、有効にはたらく。この「血」は、これをさずかる者の心構えと情念とに応じて、あるいは多くあるいは少なく、霊魂に生命を与え、あらゆる恩寵によってこれを飾る。しかし、悪のなかに生き、大罪の暗黒のなかで卑劣にこれを飲む者には死を与えて、生命は与えない。それは、「血」の欠陥によるのではなく、また、悪の状態、あるいは大きな悪の状態におちいっている聖職者の欠陥によるのでもない。なぜなら、聖職者の悪は、「血」を腐敗させたり、汚したりすることも、その恩寵と功徳とを減らしたりすることもないし、まして、かれから「血」をさずかる者に害を与えることがないからである。しかし、この聖職者は、過失を犯して自分自身に害を加えるし、罰を受ける者となる。しかも、この罰は、その過失に対するまことの痛悔と悔恨とによらなければ、まぬかれることができない。
 それで、わたしが言いたいのは、この「血」は、これを卑劣に受ける者に害を与えるということである。すでに話したように、それは「血」の欠陥によるのでも、聖職者の欠陥によるのでもない。きわめて不幸なことであるが、自分の精神と体とを汚し、自分と隣人とにきわめて残酷な結果を招く自分自身の過失によって、邪悪な状態におちいっていることによるのである。たしかに、罪人は、その霊魂のなかで恩寵をほろぼし、その心のなかで「血」の実を足で踏みにじって、自分自身に対し、残酷にふるまった。この「血」は、聖い洗礼において、かれに与えられたものである。そのとき、かれは、その父母によって宿されたとき背負わされた原罪の汚れを、この「血」によって取り除かれたのであった。
 全人類の集団は、第一の人アダムの罪によって腐敗させられた。そして、この集団から引き出されたあなたがたはみな、腐敗させられて、永遠の生命を所有することができなくなった。それゆえ、わたしは、わたしの「言葉」、わたしの「ひとり子」を、たまものとしてあなたがたに与えた。わたしは、わたしの偉大さをあなたがたの人性の卑賎さに一致させ (9) 、罪によって失った恩寵を回復させた。わたしは、苦痛を感じないから、苦しみを堪え忍ぶことができなかった。しかし、わたしの神的「正義」は、過失に対して罰を下すことを求めた。他方、人間はその償いを果す十分な能力をもっていなかった。なんらかの償いを果たしたとは言え、それは自分自身のためであって、理性をめぐまれた他の被造物のためではなかった。
 実のところ、人間は、自分のためにも他人のためにも、恩寵を受けるに足る償いを果たすことができなかった。なぜなら、過失は無限の「いつくしみ」である「わたし」に対して犯されたものだからである。それで、わたしは、堕落していて、さきに話した理由のために、そしてまた、その弱さのために、自分で償いを果たすことのできない人間を回復させたいと考え、わたしの「子」、「言葉」をつかわし、あなたがたと同じく、アダムの腐敗した集団から引き出された人性をまとわせた。それは、かれに、人間が罪を犯した同じ人性のなかで、苦しみを受けさせ、その体のなかで、十字架の恥ずべき死にいたるまで、罰に服させ、わたしの怒りをなだめさせるためであった。
 このようにして、かれは、わたしの正義に償いをささげると同時に、人間の造られた目的である善に達することができるように、その過失をあがなうことを求めるわたしの神的あわれみを、満足させたのであった。このようにして、神の本性に一致した人間の本性は、全人類のために償いを果たすことができた。それも、実のところ、アダムの集団から出た有限な本性のなかで堪え忍んだ苦しみだけによるのではなく、永遠の「神性」、無限の神の本性の功徳によるのである。この二つの本性の一致のゆえに、わたしは、わたしの「ひとり子」の血のいけにえを喜んで受けいれた。このいけにえは、かれを十字架にしばりつけ釘つけるくさりであった神的仁愛の火によって、神の本性と練り合わされ混ぜ合わされたものであった。
 このようにして、人間の本性は、もっばら神の本性の功徳によって、過失を償うことができた。アダムの罪のけがれは、このようにして消された。しかし、傷がなおったのちも傷あとが残るように、罪への傾きとあらゆる肉体的弱さとが、しるしとして残った。
 アダムの過失はあなたがたに致命傷を負わせた。しかし、偉大な「医師」、わたしの「ひとり子」が降り、人間があまりに衰弱していたために飲むことができなかった苦いくすりを飲んで、病人をいやした。かれは、乳母のように、子供のためにくすりを飲んだ。なぜなら、かの女は大きく強いが、子供は苦味を我慢することができないからである。かれもまた乳母であった。あなたがたの本性と一致した「神性」の偉大さと力とをもって、過失のためにすつかり衰弱した子供であるあなたがたをいやし、生き返らせるために、十字架の残酷な死という苦いくすりを飲んだのである。
 すでに話したように、あなたがたが宿されたときは、父母から背負った原罪の傷あとしか残っていなかった。この傷あとさえも、この光栄ある貴い「血」の功徳により、恩寵の生命を与える効力のある聖い洗礼によって、不完全にではあるが、消された。霊魂が聖い洗礼を受けるやいなや、原罪は除かれ、恩寵が注賦された。悪への傾きは、すでに話したように、原罪の残した傷あとであるが、はるかに弱められ、霊魂は、望むならば、これをおさえることができるようになった。
 このようにして、霊魂は、わたしを愛し、わたしに奉仕する心状と望みとによって、自分自身準備する心構えのいかんに応じて、恩寵を、あるいは少なくあるいは多く受け、増加させることができるのである。しかし、霊魂は、聖い洗礼によって恩寵を受けているにもかかわらず、悪に対する傾きも善に対する傾きも、同じようにもつことができる。分別の年齢に達すると、霊魂は、自由意志により、その意志の好むところにしたがって、善あるいは悪を選ぶことができる。人間の自由はきわめて大きく、光栄ある「血」の功徳によって受けた力はきわめて強いので、自分が望まないかぎり、悪魔も被造物も、これにどんなに小さい罪でさえ、強制することができない。人間は、自分自身の官能を統御し、自分が創造された目的を達成するために、奴隷状態から解放されて、自由になったのである。
 ああ、みじめな人間よ、わたしから受けたはてしない恩恵を無視して、動物のように汚泥をたのしみにするとは。これほどの無知に満ちたみじめな被造物に、これ以上大きな恩恵を与えることができるであろうか。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)



神の答えによって霊魂の苦しみはどうなるか

2021-06-18 05:05:46 | 対話(聖カタリナ)
神の答えによって、この霊魂の苦しみは、一方においてはやわらげられるが、他方においてはさらに増すことについて。──聖なる教会と神の民とのために祈らなければならないことについて。

 すると、自分自身のなかに抱いている果てしない望みに悩まされ、燃え立たされているこの霊魂は、神の大いなるいつくしみに対して、言い知れない愛を感じた。そして、これほど甘美に答えて下さり、願いを満たして下さった神の仁愛の広大さを観想するのであった。神は、ご自分に加えられる侮辱、聖なる教会の悪、霊魂が自分自身の認識によって示された自分のみじめさに対して抱いていた悲しみに、希望を開いて下さったではないか。この希望は苦しみをやわらげたが、しかしまたこれを増加させた。いと高く永遠な「父」は、完徳の道を示して下さったのち、さらに、──あらためて、もっとくわしく説明されるが、──ご自分に対する侮辱と霊魂の亡びとについて話して下さったからである。
 霊魂は、自分自身の認識のなかで、もっとよく神を認識する。それは、自分自身に対する神のいつくしみを体験するからである。そのうえ、霊魂は、神のこの心地よい鏡のなかで、その尊厳と卑賎とを同時に認識する。
 霊魂は、その尊厳を創造によって与えられた。霊魂は、自分の側からはなんの功績もないのに、神の似姿としてつくられ、このたまものを、純然たる恩寵によってさずけられたことをさとる。霊魂はまた、神のいつくしみのこの鏡のなかで、自分自身の過失によって招いたそのみじめさを認識する。人間が鏡を見て、自分の顔のよごれをもっともよく認めるように、霊魂は、自分自身のまことの認識をもつようになると、望みにより、知性の目で神の甘美な鏡を見るまでに上昇する。そして、神のなかに発見する清さによって、自分の顔のよごれをもっとよく認識する (4) 。
 ついで、この霊魂は、そのなかに、すでに話した方法で、光明と認識とが増したので、内心に、心地よい心痛が、第一の「真理」によって与えられた希望によって穏和された心痛が、増してゆくのを感じた。火はこれに薪を投げ入れると勢いを増すように、この霊魂の情熱は燃えさかり、その人間的体は、霊魂が離晩しないかぎり、これを堪えることができないほどになった。もしも、至上の力である「かた」が、力によって守って下さらなかったら、死をまぬかれることができなかったにちがいない。
 このように、霊魂は、自分自身と神との認識のなかで発見した神的仁愛の火によって清められ、その望みは全世界の救いと聖なる教会の改革との希望によって高まった。そこで、いと高き「父」のみまえに、安心してのぼり、聖なる教会の癩と世のみじめさとを示したのち、モーシェとほとんど同じ言葉を使って (5) 、申し上げた。
 ──わたしの主よ、おんあわれみの眼を、あなたの民であるこの民と聖なる教会の神秘体との上に注いでください。多くの被造物を赦し、これに認識の光明を与えてください。そうすれば、かれらは、あなたの無限のいつくしみによって、大罪の暗黒と永遠の亡びとから救われたのを見て、あなたを賛美するでしょう。そして、あなたは、あなたをはなはだしく侮辱したわたしからよりも、あらゆる悪の機会であり道具であるみじめなわたしからよりも、栄光を受けるでしょう。それゆえ、永遠の神的仁愛よ、わたしはあなたに祈ります。あなたの復讐をわたしの上に加え、あなたの民をあわれんで下さい (6) 。わたしは、あなたがこれをあわれんで下さらないかぎり、決してみ前を立ち去りません。
 それに、たといわたしが永遠の生命を有しているとしても、あなたの民が死のなかにいるとしたら、光明であるべきあなたの浄配が暗黒におおわれているとしたら、なんの役に立つでしょうか。しかもそれは、主としてわたしの罪のため、他の被造物の罪のためではなく、わたしの罪のためではないでしょうか。それゆえ、わたしはあなたに、あなたの民をあわれんでくださるよう、切にお願いします。これに慈悲を注いでください。あなたに人間をあなたの似姿として造らせたあの造られざる仁愛にかけて、お願いします。そのとき、あなたは、「人間をわたしたちの似姿に作ろう」(7) と言われました。そして、ああ、永遠の三位一体よ、あなたは、人間がいと高く永遠な三位一体であるあなたとすべてを分かちあうように望まれて、そのとおり実行されました。あなたは、人間があなたの恩恵を保って、「父」の力を分かつことができるように、記憶を与えられました。あなたのいつくしみを見てこれを認識し、あなたの「ひとり子」の英知を分かつことができるように、知性を与えられました。最後に、知性があなたの「真理」について見たもの、認識したものを愛し、それによって、聖霊の寛仁を分かつことができるように、意志を与えられました。
 あなたは、どのような理由で、人間にこれほどの尊厳を与えられたのでしょうか。あなたは、はかり知れない愛によって、あなたの被造物をあなた自身のなかに眺め、これに夢中になられたのです。あなたは、これを愛によって造り、愛によって、あなたの至高かつ永遠な「善」を味わうことのできる存在を、これに与えられたのです。
 わたしは、人間が罪を犯して、あなたがかれに与えられた尊厳を失ったことを、よく分かります。人間は、その反抗によって、あなたの寛仁に対して、戦いを開きました。あなたの敵になりました。しかし、あなたは、あなたにかれを造らせたおなじ愛の火によって、大きな戦いに引きこまれた霊魂に和解の手段を与えようと望まれました。大きな戦いののちに大きな平和がおとずれるようにするためでした。そこで、あなたは、あなたとわたしたちとの「仲介者」であるあなたの「ひとり子」、「み言葉」をお与えになりました。かれはわたしたちの義となられました (8) 。なぜなら、わたしたちの不義を負われ、そして、ああ、永遠の「父」よ、あなたがかれに命じた従順を実行して、わたしたちの人性をまとわれ、わたしたちの姿と本性とを取られたからです。
 ああ、仁愛の深き淵よ、偉大そのものであるあなたが、これほどの卑賎まで、わたしたちの人性まで、お降りになられたのを観想して、張り裂けない心があるでしょうか。わたしたちはあなたの似姿です。そしてあなたは、永遠の「神性」をアダムの腐敗した肉のみじめな雲の下にかくし、人間と結ばれた一致によって、わたしたちの似姿になられたのです。
 その理由はなにだったのでしょうか。「愛」だったのです。このようにして、神であるあなたは人間となり、人間は神となったのです。このくすしき愛によって、わたしはあなたに、あなたの被造物をあわれんでくださるよう要請し、哀願いたします。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)



憐れみの神

2021-06-17 06:40:55 | 対話(聖カタリナ)
神は大きな苦しみを使ってそのしもべたちを慰め、教会を改革することについて。

「真理」である「わたし」は、あなたも知るとおり、あなたに偉大な完徳を獲得させ、保持させる真理と教えとを述べた。わたしはまた同じように、過失と罪とを自分と隣人とのために償うにはどうすればよいかについて説明した。そのとき話したように、被造物が死すべき体のなかに生きているあいだに堪え忍ぶ苦しみは、もしも仁愛の感情、まことの痛悔、および罪に対する嫌悪と結びついていないならば、単独では、過失と罰とを十分に償うことができない。しかし、仁愛と結びつくならば、償うことができる。それは、あなたがたがなすことのできるなんらかの苦業の功徳によるのではなく、仁愛と犯した過失の痛悔との功徳による。この仁愛は、知性の光明と、「仁愛」そのものである「わたし」以外に対象をもたない純潔で惜しみない心とによって、獲得される。以上のことはみな、あなたがわたしに苦しみたいと願ったとき、説明したことである。
 わたしがこれをあなたに説明したのは、あなたとわたしの他のしもべたちとが、どの程度に、またどのような方法で、あなたがた自身を犠牲にささげなければならないかと知ってほしいからである。犠牲と言うのは、ちょうど主人に差し上げるコップと水のように、外的な犠牲と内的な犠牲とが一つになった犠牲のことである。コップがなければ水を差し上げることはできないし、主人は水のはいっていないコップを差し出されて喜ぶことはないであろう。あなたがたに言うが、あなたがたも、このように、あなたがたの多くの外的苦しみのコップを、どんな方法で送られようが、あなたがたに都合のよい時も、場所も、苦しみも選ばないで、わたしが送る通りに受諾して、わたしに差し上げなければならない。このコップは満たされていなければならない。もしもあなたがたが、すべての試練を愛の感情をもって受けるならば、そしてまた、罪に対する憎悪をともなったまことの忍耐をもって、あなたがたの隣人のすべての欠点を堪え忍ぶならば、このコップは満たされるであろう。
 これらの苦しみは、このようにして、霊魂に生命を与えるわたしの恩寵の水で満たされたコップになる。そうなれば、わたしは、わたしの親愛な妻、すなわちわたしによく仕えるすべての霊魂のこの贈り物、すなわち、その苦難、その願望、その涙、その溜め息、その謙遜、その絶え間ない祈りを、喜んで受ける。これらすべては、わたしにはなはだしい侮辱を加える敵と世の悪人とに対する怒りを、かれらに対して抱いている愛によって、やわらげるように取りなす手段である。
 それゆえ、雄々しく、死ぬまで、苦しみを堪えてほしい。それは、わたしにとって、あなたがたがわたしを愛しているしるしになるであろう。被造物や艱難を恐れて、“すき” に背を向け、うしろを振り返ってはならない。あなたがたは、艱難のなかで喜ばなければならない。世はあなたがたに数多くの不義をおこなって喜んでいる。あなたがたは、世がわたしに加える不義を見て、悲しまなければならない。なぜなら、この不義はわたしを侮辱することによってあなたがたを侮辱するし、あなたがたを侮辱することによって、あなたがたと一つになっているわたしを侮辱するからである。
 あなたも熟知しているように、わたしはあなたがたにわたしの似姿を与えた。しかし、あなたがたは罪によって恩寵を失った。この恩寵の生命をあなたがたに取り戻させるために、わたしは、わたしの本性を、あなたがたの人性の被布でおおって、あなたがたに一致させた。このようにして、わたしの似姿であるあなたがたから、あなたがたの似姿を借りて、人間の形を取った。霊魂が大罪によってわたしから離れないかぎり、わたしはあなたがたと一つである。なぜなら、わたしを愛する者はわたしのなかにとどまり、わたしはかれのなかにとどまるからである (1) 。しかし、このような人は、世から迫害されるであろう。なぜなら、世はわたしと同一化していないからである。そのため、世はわたしの「ひとり子」を、十字架の屈辱的な死に追い込んだのである。あなたがたに対しても同じである。世はあなたがたを迫害する。そして、死ぬまで迫害するであろう。なぜなら、世はわたしを愛さないからである。世がわたしを愛するならば、あなたがたも愛するであろう (2) 。しかし、喜ぶがよい。なぜなら、あなたがたの喜びは、天において、まったきものとなるからである (3) 。
 そのうえ、あなたに言いたい。聖なる教会の神秘体のなかに艱難が多くなれば多くなるほど、喜びと慰めとも多くなるであろう。喜びとは、栄光の花である聖人と善牧者との改革である。わたしの名に栄光と賛美とを帰し、真理のなかにきずいた善徳の芳香をわたしの方に立ちのぼらせるのは、かれらである。改革されるのは、芳り高い花であるべきわたしの司祭たちであり、牧者たちであろう。しかし、わたしの妻である「教会」の実は改革される必要はない。司祭たちの過失によって腐敗させられたり、衰微させられたりすることはないからである。だから、哀しみのなかにあっても、あなたの霊魂の父やわたしの他のしもべたちといっしょに喜ぶがよい。なぜなら、永遠の「真理」であるわたしが、あなたがたになぐさめを与えることを約束したからである。あなたがたが苦しんだのち、わたしは、聖なる教会の改革によって、あなたがたの辛い試練に、なぐさめをまじえるであろう。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)



苦業や修業は善徳を修める手段に過ぎない

2021-06-16 01:00:54 | 対話(聖カタリナ)
苦業とその他の肉体的修行とは、善徳を修める手段として利用すべきであって、主要な目的であってはならないことについて。──分別の光明と外的業との関係について。

 これこそ、わたしが霊魂に要求する実と業である。この実こそ、必要のあるとき、善徳を証すのである。ずっと以前に、このことをあなたに話したことがある。覚えているであろうか。そのとき、あなたは、わたしのために大きな苦業をおこないたいと望んで、「あなたのためになにをしたらいいでしょうか。なにを堪え忍んだらいいでしょうか」とたずねた。それで、あなたの精神に答えた。「わたしは、わずかの言葉と多くの業とを喜ぶ『者』だ」と。それは、わたしに向かって、言葉のひびきで、「主よ、主よ、わたしはあなたのためになにかをしたい」と叫ぶだけで満足する者も、わたしのために多くの苦業をおこなって、体を苦しめたいと望みながら、我意を放棄しない者も、わたしに喜ばれると思うのは間違っていることを、理解させたいからであった。わたしが求めるのは、雄々しい忍苦の業と、忍耐と、あなたに説明したその他の善徳である。霊魂の内部にあるこれらの善徳は、活動的で、恩寵の実を結ぶ。
 それ以外のみなもとから流れ出る業はみな、単なるさわぎにすぎない。なぜなら、有限な業以外のなにものでもないからである。ところが、無限であるわたしは、無限の業、すなわち、愛の無限の情念を求める。つまり、苦業と他の肉体的修行とは、手段として利用し、愛のなかに主要な位置を占めさせないことを求める。もしも、これを主として愛するならば、わたしには有限な業しかないことになる。それは、言葉が、霊魂の内的愛情から発しないならば、口から出たとたんに、なんでもなくなるのと同じである。霊魂は、善徳を真理のなかに宿して産む。有限な業は、この内的善徳によって、仁愛の情念に一致する。それでこそ、わたしに受諾され、喜ばれるのである。なぜなら、単独ではなく、まことの分別につきそわれるからであり、霊魂は、この肉体的な行為を、主な目的としてではなく、手段として実行するからである。
 それゆえ、苦業あるいはその他の外的行為を、原理や目的にしてはならない。すでに話したように、それは有限な業だからである。有限な業は時間のなかで実行されるし、そのうえ、ときとして、被造物は、これを放棄すること、放棄せざるをえないことがある。霊魂は、ときには止むをえない事情のために、ときには長上の命にもとずき、従傾を実行するために、始めた行為を断念しなければならない。そのようなとき、これを実行しつづけるならば、功徳を積むかわりに、わたしに背くことになろう。要するに、それは有限な業である。それゆえ、手段と見なすべきで、原理と見なすべきではない。しばらくのあいだこれを断念する必要があるのに、原理としてこれに執着するならば、霊魂は空虚におちいるにちがいない。
 栄光にかがやく使徒パウロは、その手紙のなかで、肉体を苦しめ我意を殺せ (23) 、と言ったとき、これを示している。これは、肉が霊に反抗しようとするときは、肉体のたずなをしめ、肉を苦しめなければならないが、意志はこれを完全に殺し、これを放棄して、わたしの意志に従わせなければならない、という意味である。意志をこのように殺すのは分別の徳である。すでに話したように、分別の徳は、霊魂に自分自身を認識させて、これに罪と官能とに対する憎しみと軽蔑とを抱かせることによって、自分自身に返すべきものを返させるからである。これが我意の上にきずかれた自愛心を完全に殺し、これを切り裂く刀である。
 このように行動する者は、わたしに、言葉だけではなく、わたしが喜ぶ多くの業をささげる。わたしが、わずかの言葉と多くの行為とが欲しいと言ったのは、そのためである。わたしは、多くと言って、その数を定めない。なぜなら、すべての善徳と善業とに生命を与える仁愛の上にきずかれた霊魂の情念は、無限に増大しなければならないからである。だからと言って、わたしは言葉を排除しなかった。ただ、わずかの言葉が欲しいと言っただけである。それは、外的行為はみな有限であることを理解させるためである。そのため、「わずかの」と言ったのである。しかし、言葉は、善徳の原理としてではなく、手段として用いるならば、わたしを喜ばせることに変わりはない。
 それゆえ、大きな苦業によって肉体を苦しめることに情熱的に努力する者は、それほどではない者よりも完全であると判断するようなことがあってはならない。なぜなら、すでに話したように、善徳も功徳もそのようなことに成り立つのではないからである。もしもそうだとしたら、正当な理由によって、この苦業の業と行為とを実行することのできない者は、不幸であろう。しかし、善徳はまったく、まことの分別の光明に照らされた仁愛のなかに存する。仁愛がなければ無価値である。分別は、方法を定めず、際限なく、わたしに与える。なぜなら、わたしは至上かつ永遠の「真理」だからである。分別は、わたしを愛する愛には法則も限度も定めることがない。しかし、隣人に対しては、愛徳の秩序にしたがって、当然のことながら、愛に限度を定める。
 分別の光明が隣人に与えるのは、規律のある愛である。この光明は、すでに話したように、仁愛から発する。隣人に奉仕するためだと言って、罪によって自分自身をそこなうのは、愛の秩序に反する。全世界を地獄から救うため、あるいは大きな善徳の行為をなすために、ただ一つの罪で十分であるとしても、これを犯すのは、分別によって秩序立てられた仁愛ではない。このような仁愛は分別を完全に欠いている。なぜなら、たとい善徳の偉大な行為をなすためであっても、あるいは隣人に奉仕するためであっても、罪を犯すことは許されないからである。聖い分別が要求する秩序はつぎの通りである。霊魂は、すべての能力をあげて、雄々しく、あらゆる配慮をつくして、わたしに奉仕する。そして、隣人を愛の情念によって愛し、その霊魂の救いのためには、できれば千度も、肉体の生命をささげる心構えを抱いている。隣人に恩寵の生命を獲得させるためには、どんな苦しみも、責苦も堪え忍ぶ覚悟である。そのうえ、隣人の肉体に奉仕するために、物質的富を消費する。
 以上が、仁愛から発する分別の光明のはたらきである。恩寵を所有したいと願うすべての霊魂は、分別によって以上のことをなすのであり、またなさなければならない。要するに、「わたし」を、無限で無条件な愛によって、愛さなければならないし、隣人を、すでに話したように、適度に、秩序のある愛によって、しかもわたしに対する無限の愛によって、愛さなければならない。他人に奉仕するためにと言って、罪を犯し、自分自身に害を加えてはならない。聖パウロは、仁愛はまず自分自身から始めなければならない、と言ったとき、あなたがたにこのことを注意したのであった。さもなければ、他人に対して完全な奉仕をおこなうことはできないであろう。なぜなら、完徳が霊魂のなかにないならば、自分自身のため、あるいは他人のためになすすべてのことは、不完全だからである。
 わたしによって創造された有限な被造物を救うためと言って、無限の「善」であるわたしに背くのは、適当ではない。この過失は、それに期待する結果よりも重大であろう。それで、どんな理由によっても罪を犯してはならない。まことに仁愛を所有している者は、これを心得ている。聖い分別の光明を所有しているからである。
 分別は、すべての暗黒を払い、無知を滅し、あらゆる善徳に、そして善徳のあらゆる手段と行為とに、浸透する光明である。分別は非の打ちどころのない賢明、なにものも打ち勝つことのできない力、きわめて偉大な、終わりまで続く堅忍をそなえている。分別は天から地に広がる。すなわち、「わたし」の認識から自分自身の認識へ、わたしに対する愛から隣人に対する愛に及ぶ。分別は、まことの謙遜によって、世のすべてのわなを避け、その賢明によって、悪魔と被造物とのすべての誘惑を逃げる。分別は、武器をもたない手によって、すなわち長い忍耐によって、悪魔と肉とに勝利をしめる。その心地よく栄光にかがやく光明によって、肉の弱さを示し、それと同時に、肉に対して抱かなければならない憎しみを抱かせる。このようにして、世を打ち倒したのである。すなわち、これを軽蔑し、これをみにくいと思い、これをあざ笑って、その愛の足で踏みにじったのである。こうして、世の主人となり大名となったのである。
 それゆえ、この世の人々は、霊魂の善徳に向かって、なにもなすことができない。いかなる迫害も、この善徳を成長させ、堅固にするだけである。この善徳は、すでに話したように、最初愛の感情によって宿され、ついで、隣人との出合いによって試され、これに対してユダかな実を産む。あなたに示したように、この善徳が証されず、試練のとき人々の前に光りかがやかないとしたら、それは、実際に心の奥に宿されていなかったからである。なぜなら、すでに話したように、隣人の仲介によらないで、善徳が存在すること、完全になること、実を結ぶことは不可能だからである。
 霊魂はその母胎に子供を宿した女に似ている。もしもこれを出産して、人目に見せないならば、その夫は、子供ができたと言うことができない。霊魂の「夫」であるわたしは、霊魂が善徳という子供を、隣人に対する愛徳のなかで産み、これを必要に応じて、全般的にも個別的にも見せないならば、すでに話したけれども、繰りかえして言うが、実際に善徳を宿したとは認めない。悪徳についても同じことを言いたい。悪徳はみな、隣人との出合いによって、犯されるのである。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)