goo blog サービス終了のお知らせ 

カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

愛、謙遜、分別

2021-06-15 14:38:26 | 対話(聖カタリナ)
の三徳が一つに結ばれていることの比喩。──霊魂はどのようにこの比喩にあやかるべきかについて。

 この三つの善徳のあいだには、どのような関係があるか、知っているであろうか。地面に一つの輪がおかれていて、その中央に一本の木があり、その一部として、これに結合した脇芽があると想像してほしい。木はこの輪にかこまれた土地から養分を吸い取る。それで、木は土地から引き抜かれるならば枯れるであろうし、土地に植えられるまでは、実を結ばないにちがいない。ところで、霊魂は木のようなもので、愛するためにつくられ、愛がなければ生きることができないことを、思い浮かべてほしい。
 事実、霊魂は、完全なまことの仁愛の神的愛をもたないならば、生命の実ではなく、死の実を生ずる。それで、この木の根、すなわち霊魂の愛情が、自分自身のまことの認識のなかに固定し、そこから養分を取る必要がある。自分自身の認識が、始めも終わりもないわたしに結びついているならば、まるい輪のように、その中をまわりめぐつても、どこで始まりどこで終わるか、決して見きわめることができないであろう。それでも、あなたがその中にいることに変わりはない。あなた自身と「わたし」とのこの認識は、まことの謙遜の徳に見出されるし、また立っている。この謙遜の大きさは、輪の広さと同じである。すなわち、自分自身の認識は、繰りかえして言うが、わたしの認識と一つになっている。さもなければ、この認識は、始めも終わりもない輪ではないであろう。自分自身の認識という始めはあるであろう。しかし、それは、わたしの認識と一つでないならば、虚空のなかに消え失せるであろう。
 要するに、仁愛の木は謙遜のなかに養われる。この木は、すでに話したように、まことの分別という脇芽をつけている。この仁愛の木すなわち霊魂のなかにある愛の情念の髄は、忍耐である。忍耐は、霊魂にわたしが現存していること、および、この霊魂がわたしと一致していることを示すしるしである。
 このように心地よく植えられた木は、多くの多彩なにおいをもつ花、善徳にかおる花をつけている。この木は、霊魂にとって恩寵の実を生じ、隣人にとって有益な実を生ずる。隣人は、わたしのしもべたちの実を受け取る熱誠のいかんに応じて、この実を利用する。この木は、わたしに対して、わたしの名の栄光と賛美との芳香を立ちのぼらせる。なぜなら、これを創造したのはわたしだからである。こうして、この木は、その最終目的、すなわち、その神であり、永遠の生命である「わたし」に到達する。そして、それは、霊魂が望まないかぎり、奪われることがない。
 この木の結ぶすべての実は、分別によって味付けされている。なぜなら、すでに話したように、この分別によって、すべてが結合されているからである。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)



苦業ではなく善徳を重視せよ

2021-06-14 01:01:18 | 対話(聖カタリナ)
外面的な苦業ではなく善徳を重視すべきことについて。──分別は謙遜の上にきずかれていて、各人に負っているものを返すことについて。

 わたしがわたしのしもべたちに求める聖く心地よい業、すなわち、あなたに語ったような方法で試された霊魂の内的善徳については、以上の通りである。わたしが求めるのは、ただ肉体的な業、すなわち、外的な行為、無数のさまざまな苦業だけではない。それは善徳の道具であって、善徳ではない。もしも、このような外的業が、さきに述べた善徳から分離しているとしたら、わたしにとって、あまり心地よいものではない。たとえば、もしも霊魂が、このような苦業を、主として、始めた苦業そのものに執着して実行するならば、その完徳のさまたげとなるにちがいない。まことの謙遜と完全な忍耐とをともなった自分自身に対する聖い憎しみをもって、愛に執着しなければならない。それと同時に、他の内的善徳にも、わたしの誉れと霊魂の救いとに対する飢えと望みとをもって、執着しなければならない。このような善徳は、官能的な意志が、善徳に対する愛の攻撃によって死滅したこと、あるいは絶えず死滅していることを示すのである。
 このような分別をもって、苦業を実行すべきであり、苦業よりも善徳を愛すべきである。そして、苦業はただ善徳を増し加える手段にすぎないと考え、必要に応じ、自分の力を考慮して実行すべきである。
 そうではなくて、苦業を土台とするときは、自分自身の完徳を妨害することになろう。なぜなら、自分自身の認識とわたしの「いつくしみ」とが与える分別の光明をもって行動しないからである。むしろ、わたしの真理に合致せず、無分別に行動することになろう。わたしがもっとも愛しているものを愛せず、もっとも憎んでいるものを憎まないからである。
 分別とは、霊魂が自分自身と「わたし」とに対して所有しなければならないまことの認識にほかならない。分別はこの認識のなかに根をおろすのである。分別は、仁愛に接ぎ木され、これと一つになったひこばえである。このひこばえが、一本の木が多くの枝をもつように、多くの他のひこばえを生ずるのは真実である。しかし、木と枝とに生命を与えるのは根である。そして、この根は謙遜の土のなかにおろさなければならない。謙遜は仁愛の乳母であって、分別のひこばえあるいは木は、この仁愛に接がれている。分別は、謙遜の徳のなかに植えられていないならば、善徳ではないし、生命の実を結ばないであろう。なぜなら、謙遜は霊魂が自分自身についてもつ認識から生まれるからである。そのうえ、すでに話したように、分別の根は、自分自身とわたしのいつくしみとの認識であって、霊魂はこれによって、自然に、すべての人に負っているものを返すのである。
 まず第一に、霊魂は、わたしに帰すべきものを、わたしに帰する。すなわち、わたしの名に栄光と賛美とを帰し、わたしから受けたと信じている恩寵とたまものとをわたしに帰する。霊魂は当然自分に帰すべきものだと意識するものを自分自身に帰し、自分は自分自身で存在するのではなく、その存在はわたしの恩寵によって与えられたものであることを認める。霊魂は、存在のほかに所有するすべての恩寵を、同じように、自分自身にではなく、わたしに帰する。自分自身については、多くの恩恵に対して忘恩者であったこと、受けた時間と恩寵とを利用しなかったことを告白する。それゆえ、自分は罰を受けるのが当然であると考え、自分を、その過失のゆえに、憎しみと嫌悪との対象と見なすのである。
 自分自身の認識とまことの謙遜との上にきずかれた分別の徳の効果は、以上の通りである。この謙遜がなければ、すでに話したように、霊魂は無分別におちいるであろう。分別の泉が謙遜であるように、無分別の泉は傲慢である。それゆえ、分別がないならば、泥棒のように、わたしに属する誉れを自分自身のものにし、これを誇る。当然自分自身に帰すべきものは、これをわたしの責任に帰し、わたしがこの霊魂と他の被造物とのなかに成就した神秘的な業については嘆きつぶやく。そして、わたしについても隣人についても、あらゆる面でつまずく。
 分別の徳を所有している人々の行いは、これと正反対である。すでに話したように、わたしと自分自身とに負っているものを返したのち、隣人に負っているものを返す。とくに、愛に発する情念と、みながたがいにささげなければならない謙遜で絶え間ない祈りとを、これに与える 。ついで、さきに話したように、その教えによって、誠実で聖い生活の手本によって、その意見によって、救いをまっとうするために必要な助けによって、隣人に負っているものを返す。
 人間は、どんな身分におかれても、君主であっても、高位聖職者であっても、臣下であっても、この徳をもっているならば、隣人に対してなすことを、すべて、分別をもって、仁愛の情念によってなす。なぜなら、これらの善徳はいっしょに結合され、溶け合っていて、自分自身の認識から発生するまことの謙遜の土地に植えられているからである。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)



善徳は他人の悪意によって試され強められる

2021-06-13 00:30:04 | 対話(聖カタリナ)
善徳は反対の悪徳によって試され強められることについて。

 わたしはあなたに、人間はどのようにして隣人に奉仕するか、また、この奉仕によって、どのようにわたしに対して抱いている愛を示すかについて語った。
 これから、人間は、隣人から侮辱される機会に、自分が忍耐の徳を所有しているかいなかを試すことができることについて話したい。人間は、傲慢な者によって自分の謙遜を、信仰のない者によって自分の信仰を、絶望している者によって自分の希望を、不義な者によって自分の正義を、残酷な者によって自分の慈悲を、短気な者によって自分の寛容と柔和とを試すことができる。
 すべての善徳は、隣人によって試され、出産されるし、悪人は隣人によってその悪徳を出産するのである。つぎのことをよく心にとどめてほしい。謙遜が傲慢によって証されるのは、謙遜が傲慢に勝利をしめるからである。傲慢な者は謙遜な者に害を加える力がない。わたしを愛せず、わたしに希望しない悪人の不忠実が、わたしに忠実な者の信仰を減少させることはできないし、わたしに対する愛によって自分のなかに宿しているその希望を減少させることはできない。かれは、隣人に示す愛のたのしみによってこれを強化し、これを証す。わたしに忠実な者は、わたしにも自分にも希望していない不忠実な者を見ても、──わたしを愛さない者は、信仰もわたしに対する希望も抱くことができないし、その愛する自分の官能しか信ぜず、これにしか希望しない──これを忠実に愛しつづけ、わたしのなかに、希望をもって、その救いを求めつづける。このように、ある人々の不忠実とその希望の欠如とは、信仰者の善徳を証す。信仰の徳を証す必要のあるこのような機会とその他の機会に、信仰者は、自分自身と隣人とに対して、その証しを提供するのである。
 あなたの正義は、他人の不正義によって弱められないばかりか、受けた不正義は、あなたが忍耐の徳によって正義を保っていることを証す。これと同じように、温和と寛容とは、怒りに出合うとき、優しい忍耐をともなっていることを証す。嫉妬、反感、憎悪もまた、仁愛の情念と霊魂の救いに対する飢えと望みとを証すのである。
 そのうえ、善徳は、悪に対して善を返す人々のなかに示されるばかりではない。あなたに言いたいのは、試練はしばしばかれらを灼熱した炭火となし、仁愛の火に燃えさからせるということである。しかも、その炎は、怒っている悪人の心と精神とのなかにおいても、憎しみと恨みとを挽きつくし、しばしば、敵意を好意に変える。悪人の怒りのまとになっていて、その攻撃をつぶやくことなく堪え忍ぶ人の仁愛と完全な忍耐との効力は以上述べた通りである。
 力と堅忍との徳について考えるとすれば、これらの善徳は、人々の侮辱と悪口とに対する長い忍耐によって証明される。かれらは、しばしば、あるときは暴力によって、あるときはへつらいによって、「真理」の道と教えとから遠ざけるように努める。しかし、力の徳がまことに内心に宿っているならば、強く、ゆるぐことがない。この徳は、すでに話したように、このようにして、隣人を介して、外的に証明される。もしも、この徳が、多くの困難になやまされているとき、立派な証しをなすことができないならば、「真理」の上にきずかれた善徳とは言えないであろう。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)



善徳は隣人を介して実行される

2021-06-12 00:39:48 | 対話(聖カタリナ)
善徳は隣人を介して実行されることについて。──被造物のなかに多種多様な善徳が存する理由について。

 わたしはあなたに、すべての罪は、さきに説明した理由により、隣人を介して犯されることについて述べた。理由というのは、罪人が、すべての善徳に生命を与える仁愛の情念を失っていることである。それゆえ、隣人に対する仁愛といつくしみとを亡ぼす自愛心は、あらゆる悪の根源であり、土台である。
 すべての破兼恥、憎悪、残酷、あらゆる種類の壊乱は、この自愛心の根から生まれる 。全世界に害悪を流し、聖なる教会の神秘体とキリスト教の体全体とを病気にかからせているのは、この自愛心である。そえゆえ、わたしはあなたに、すべての善徳は、隣人のなかに、すなわち隣人に対する仁愛のなかに、土台をきずいていると言ったのである。そしてそれは真実である。すでに話したように、仁愛はすべての善徳に生命を与える。仁愛がなければ、どんな善徳も存在することができない。善徳は、わたしに対する純粋な愛によってしか、獲得することができないのである。
 事実、すでに話したように、霊魂は、自分自身を認識するやいなや、その肢体をしばっている邪悪な律法があって、いつも「霊」にさからっているのを認め、謙遜とその官能の情念に対する憎しみとを抱く。そこで、官能に対する憎悪の念をもって立ちあがり、これを理性の足で踏みにじることに熱意をかたむける。そのうえ、わたしから受けたすべてのたまものを自分のなかに認めて、わたしの「いつくしみ」の広大さをさとる。
 霊魂は、自分自身について得たこの認識を、わたしに帰する。なぜなら、この霊魂を暗黒から救い出して、まことの認識の光明に連れ戻したのは、わたしの恩寵であることをさとったからである。霊魂は、ひとたびわたしの「いつくしみ」を認識すると、これを、あるいは仲介を経ないで、あるいは仲介を経て、愛する。すなわち、自分自身あるいは自分自身の利益を介しないでこれを愛するし、わたしに対する愛によって宿した善徳を介してこれを愛する。なぜなら、罪に対する憎しみと善徳に対する愛とを宿さないならば、わたしに心地よく思われないことをさとるからである。霊魂が愛の情念によって善徳を宿すやいなや、善徳は隣人のためになる実を産む。さもなければ、霊魂が自分自身のなかに、これを宿したというのは、真実ではないであろう。しかし、霊魂は真実にわたしを愛するのであるから、この愛の恩恵を真実に隣人に及ぼす。それ以外ではありえない。なぜなら、わたしと隣人とに対して抱く愛は同じものだからである。霊魂は、わたしを愛すれば愛するほど隣人を愛する。なぜなら、霊魂が隣人に対して抱く愛は、わたし自身から発するからである。
 あなたがたが、自分自身のなかに善徳を修めて実行することができるように、わたしが与える手段は、以上の通りである。わたしは、あなたがたの奉仕をわたし自身のために役立てることができない。それで、あなたがたは、これを隣人のために役立てなければならない。もし、あなたがたが、わたしの誉れと霊魂の救いとに対する優しく愛深い望みによって、数多くの聖い祈りの恩恵を隣人に施すならば、あなたがたが、恩寵によって、わたしをあなたがたのなかに所有している証しになるであろう。
 わたしの「真理」を愛する霊魂は、全般的にも個別的にも、あるいは少なくあるいは多く、受ける者の心構えに応じて、そしてまた与える者の熱烈を望みに応じて、すべての人の役に立つように努めることを、決して止めることがない。これは、わたしがさきに望みから分離した苦しみは、過失を償うのに十分ではないことを説明したとき、あなたに示した通りである。
 霊魂は自分をわたしに結びつけ、わたしのなかに自分自身を愛させるこの一致の愛を体験したのち、その愛情をすべての人に拡げて、その需要に応じる。すなわち、恩寵の生命のみなもととなった善徳を宿すことによって、自分自身に善をなしたのち、個々の隣人の需要に目を注ぐ。つまり、すでに話したように、理性をそなえた被造物に全般的に愛の情念を示したのち、わたしが他の人々に奉仕させるために与えたさまざまの恩寵を利用して、身近な人々に助けをもたらす。ある者は、教えによって、すなわち言葉によって、隣人に奉仕し、率直に、はばかることなく、助言を与える。ある者は、その生活によって手本を示す。これはみながなすべきことである。なぜなら、各人は、善良で、聖く、誠実な生活によって、隣人によい感化を与えなければならないからである。
 以上の善徳、そして数えきれないほどのその他の善徳は、隣人に対する愛から生まれる。ところで、このように種々様々の善徳があるのはなぜであろうか。なぜ、各人にすべての善徳を与えないで、ある者にはそのなかの一つを、他の者には別のものを与えるのであろうか。しかし、他のすべての善徳を所有しないで、そのなかの一つを所有することはできないというのは、右に劣らず真実である。なぜなら、すべての善徳はたがいに結合しているからである。わたしは、いくつかの善徳を、ときにはある人に、ときには他の人に、それが他の善徳にくらべて主徳であるように見える方法で、分配する。ある人には仁徳を、他の人には正義を、この人には謙遜を、あの人には強い信仰を、ある人には賢明を、あるいは節制を、あるいは忍耐を、他の人には力を与える。
 わたしは、これらの善徳とその他の多くの善徳とを、多くの被造物の霊魂に、種々の段階に分けて、与える。そのなかの一つが、その対象から見て、主要であるのは事実である。それは、その霊魂が一つの善徳を他の善徳よりも実行する多くの機会に出会うからである。しかし、この善徳に対する愛は、他のすべての善徳を自分に引きつける。すでに話したように、善徳はみな、仁愛の情念によってたがいに結ばれているからである。
 善徳のいくつかのたまものと恩寵とについても、あるいはまた、他の精神的・肉体的たまものについても、これと同じである。肉体的な善について言うならば、わたしは、人間の生活に必要なものを分配するにあたって、きわめて大きな不平等にたよった。わたしは、各人が必要なすべてのものを所有するのを望まなかった。それは、人々が、必然的に、あいたがいに、仁愛を実行する機会をもつことができるようにするためである。わたしにとって、体のためにも霊魂のためにも必要なすべてのものを人間に与えるのは、可能であった。しかし、わたしは、かれらがあいたがいに要求し合い、わたしから受けた恩寵と恩恵とを分配するわたしの代務者となる (19) のを望んだ。人間は、好むと好まざるとにかかわらず、仁愛を実行する必要からのがれることができない。もっとも、これらの行為は、わたしに対する愛のために実行されなければ、恩寵に関してはなんの価値もないのは真実である。
 以上によってわかるように、わたしはかれらに仁愛の徳を実行させるために、かれらをわたしの代務者に仕立てたのであり、ちがった状態とちがった段階においたのである。これは、わたしの家には部屋が多い けれども、わたしはそこに愛以外のなにも望まないことを示す。わたしに向けられる愛は隣人に対する愛を含む。隣人を愛する者は、律法を完うする 。それゆえ、この愛のきずなにつながっている者は、その状態に応じて、有益な者となることができるのである。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)



善徳も欠点も隣人を介して取得される

2021-06-11 03:30:18 | 対話(聖カタリナ)
善徳も欠点も隣人を介して取得されることについて

 あなたに知ってほしいのは、どんな善徳も、そしてまた、どんな欠点も、隣人を介して取得されるということである。わたしを憎んでいる者は、隣人に、そしてまた、主な隣人である自分自身に、害を加える。しかも、この害は、全般的であるとともに個別的である。
 全般的である。なぜなら、あなたがたは、あなたがたの隣人を自分自身のように愛さなければならないからである。この愛は、祈りによって、言葉によって、助言によって隣人を助けること、その要求に応じて、霊的あるいは物質的助けをこれに与えることを義務づける。
 もしも、あなたがたに手段がないために、これを現実に実行することができないときは、せめてその望みを抱かなければならない。しかし、わたしを愛さない者は、隣人も愛さない。隣人を愛さないならば、これを助けない。その結果、自分自身に害を与える。なぜなら、隣人のためにわたしにささげなければならない祈りと敬虔な望みとをささげないならば、わたしの恩寵を失うと同時に、隣人の期待を裏切るからである。隣人に対する助けはみな、わたしに対する愛のためにかれに対して抱く愛から発するものでなければならない。
 同じように、隣人に害を加えない悪はないと言うことができる。なぜなら、わたしを愛さないならば、隣人に対して抱かなければならない仁愛に生きることができないからである。すべての悪は、霊魂がわたしと隣人とに対する仁愛を失っているところから生まれる。善をなすことができないから悪をおこなうのである。それでは、だれに対して悪をおこなうのであろうか。まず自分自身に対して、つぎに隣人に対して。わたしに害を加えるわけではない。なぜなら、わたしが、隣人に対してなされたことをわたし自身に対してなされたかのように受け取らないかぎり (14) 、悪がわたしに及ぶことはありえないからである。恩寵を失わせる過失を犯すならば、自分自身に害を加える。これほど大きな悪はない。隣人に与えなければならない仁愛と愛とをこれに与えず、また、この愛のゆえに、隣人のために祈りと聖い望みとをわたしにささげて、これを助けないならば、隣人に害を加える。
 以上が、理性を与えられた被造物に対しておこなわなければならない全般的な奉仕である。しかし、あなたがたのそばにいて、あなたがたの目の下で生活している人々に与えなければならない個別的な助けがある。このような条件のなかで、あなたがたは、言葉により、教えにより、善業の手本により、隣人が悩んでいるあらゆる機会に、無私無欲に、自分自身のことのように、自愛の欲情を去って、たがいに助け合わなければならない。隣人に対する愛をもたない者は、かれに対して、これを実行することがないであろう。しかし、これを実行しないことによって、個別的な害を加える。隣人が期待していた善を実行しないばかりでなく、そのうえ、絶えず悪と害とをこれに加える。どのようなしかたによってであろうか。つぎのようなしかたで。
 罪には行為によるものと思いによるものとがある。思いの罪は、罪に対する喜びと善徳に対する反感とを抱くやいなや、すなわち、わたしと隣人とに対して抱かなければならない仁愛の情念を失わせる官能的な自己愛を抱くやいなや、犯される。この罪は、すでに話したように、一度宿されると、官能的で邪悪な意志の好みに応じて、隣人に対し、さまざまの方法で、つぎつぎに罪を産む。ときには、全般的にも、個別的にも、残酷行為を産む。全般的な残酷行為というのは、自分 (15) と他の被造物とが恩寵を失って死と亡びとの危険におちいっているのを知りながら、善徳に対する愛と悪徳に対する憎しみとによって、自分あるいは他者を助けようとしないことである。しかも、罪人の残酷さは、かれ自身の行為によって、拡大される。かれは、善徳の手本を示さないばかりか、その悪徳にかられて、悪魔の役目を果たし、被造物を善徳から遠ざけ、これを悪徳に引きこむ。霊魂に対し、その生命を奪って死を与える道具となるということは、いかにも残酷なことではないだろうか。
 罪人はまた、貪欲により、肉体に対して残酷行為をなす。隣人を助けないばかりか、かえってかれらから奪い、貧しい人々の物を盗む。ときには権威を利用し、ときには策略をめぐらし、ときには不法行為によって、隣人の物を、そしてときには人身を、買収する。ああ、なんというみじめな残酷行為であろうか。もしも、罪人が改心して隣人に対する同情と親切とを抱かないかぎり、わたしはかれに対して、無慈悲になるであろう。
 この残酷さは、ときとして、侮辱的な言葉を生むであろう。そして、この言葉の結果、しばしば、殺人事件が起きるであろう。ときには、みだらな行為によって隣人の人格を腐敗させ、これを悪臭に満ちたおぞましい動物の状態に堕落させるであろう。しかも、毒を飲まされるのは、一人や二人ではないであろう。この人に愛をもって近づく者、かれとまじわる者は、だれかれの別なく、毒を飲まされるにちがいない。
 傲慢はどこで生まれるのであろうか。隣人のなかで、もっばら隣人のなかで生まれるのである。傲慢な人は、自分の名声を高める必要上、他人を軽蔑し、自分は他人よりもすぐれていると思い、その結果、他人を侮辱する。権力の座にあるときは、どんな不法行為、どんな残酷行為もいとわない。人間の肉の売買きえも辞さない。
 ああ、いとしいむすめよ、わたしに加えられた侮辱を嘆くがよい。そして、これらの死者を悼むがよい。祈りによってかれらの死に勝利を占めてほしい。これまで話したことによってわかるように、罪は、どこから生まれるものも、どんな種類の人から生まれるものも、みな、隣人に向けられるし、隣人を介して犯される。それ意外には、ひそかな罪も、公けの罪も、決して犯されないであろう。ひそかな罪は、隣人に与えなければならないのに与えないとき犯され、公けの罪は、すでに話したように、悪徳を生むとき犯される。それゆえ、わたしに加えられたすべての侮辱は隣人を介して行われるというのは、きわめて真実である。

聖カタリナに現れたイエズス様による啓示  

(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)