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マグデブルグの聖アダルベルト大司教  St. Adalbert de Magdeburg

2024-06-20 17:58:51 | 聖人伝
マグデブルグの聖アダルベルト大司教  St. Adalbert de Magdeburg    記念日 6月 20日


 ロシアのキエフのオルガ女王は長い間、国を統治していたが70歳の時キリスト信者となり、ドイツのオットー大帝に頼んで自分の臣下たちを改宗させるために宣教師を派遣してくれるように頼んだ。オットー大帝は聖マクシミン修道院のアダルベルト修道士を選んで、勇気のある宣教師のグループを引き連れて行かせた。ところが、宣教し始めるやいなやオルガ女王の異教徒の王子シャストラフが母親を退位させ、キリスト信者たちを殺し始めた。その時、難を避けて、ドイツに帰ることのできたのはアダルベルトだけであった。

 オットー大帝はアダルベルトをウェイセンベルグの重要な修道院の院長に任命した。アダルベルトは、修道士のひとつの義務は教会の歴史を記録することだと信じていたので、修道士達によって書かれた年代記が今日に至るまで残っている。

 オットー大帝はマグデブルグ市を創設し、キリスト教の中心地とするために新しい修道院を建て、教皇に勧めて大司教を置くことにした。968年にアダルベルトが最初の大司教として任命され、981年に死去するまで力を尽くして宣教に献身した。








聖ロムアルド大修道院長     St. Romualdus Abbas  

2024-06-19 04:16:47 | 聖人伝
聖ロムアルド大修道院長     St. Romualdus Abbas            記念日 6月 19日



 聖ロムアルドの生涯は御憐れみの限りない事と、罪人も痛悔して聖寵の導きに従えばよく完徳の域に達し得る事とを示す最高の実例である。

 彼はイタリアのラヴェンナに生まれた。父母は貴族であったが、その生活振りは全く世俗的非キリスト教的であったから、息子のロムアルドも見真似ですでに若い時から心の清さを失い、父母の如く放埒な生活を送るようになった。しかし信仰だけは依然として守っていた。これは不品行な人にしては極めて珍しい例である。
 彼はしばしば、例えば馬に乗って人里離れた静かな所へ来た時など、どうにかして聖教に違わぬ生活がしたい、否、時としては聖人のような完徳の生活がしたいとさえ思う事があった。が、一方堕落の淵からはなかなか浮かび上がる事が出来なかった。
 けれども遂に恐るべき事件が起こって、その織りに与えられた天主のあつい聖寵は、彼の改心を促さずにはおかなかった。その事件とは彼の父セルギオがふとした事から親戚の一人と不和になり、決闘を行ってこれを刺し殺した事である。その時青年ロムアルドも介添人として無理に父に同行を命ぜられたが、相手の悲惨な死に様を見ると深く心を打たれ、ラヴェンナ郊外のクラッセ修道院に40日間籠もって、殺人罪を犯した父と、それに連座した我が身の為、償いの苦行をする事にしたのである。
 償い終わって心が晴れると、彼は又元通りの生活に帰ろうとしたが、一人の修士は彼を全く改心させたいと思い、熱心に修道院に入ることをすすめた。しかし彼はなかなかそれを聴く気色もないので、その修士が最後に「では、私達の教会の保護者聖アポリナリオに逢わせて上げますがどうですか」と言うと、そんな事の出来る訳がないと思うロムアルドは「よろしい、そうしたら修道者になりましょう」と約束した。
 その晩彼は修士に連れられて教会に行った。そして祈りをしていると果たしてその聖人が現れ、幾つもある祭壇を一々見回り、それから自分の墓の所で消え失せた。その次の晩も同様であった。かくてロムアルドは全く改心して、修道院に入る事を願うに至ったのである。
 修道院に入った時彼はようよう21歳であったが、始めからまじめに総てを行い、殊に祈りと克己の業とを好んだ。残念な事にはこの修道院には世間的な空気がみなぎっていて、修道者もあまり熱心でなかったから、ロムアルドは黙視出来ず再三それを咎めたが、その為多くの人々は彼を憎み、中には彼を殺そうと謀る者さえ出るに至った。幸い天主の御加護に依って彼はそれに気づき、自ら願ってその修道院を去った。もっともそのまま世間に帰った訳ではない、完徳に達したい欲求からマリノという山修士に師事する事になったのである。
 その頃ヴェニスの大統領のペトロ・ウルセオロが遁世の志あり、マリノとロムアルドに相談してフランス、クザンの聖ミカエル修道院に入ったが、マリノとロムアルドもその修道院の付近に庵を結び、従前の厳格な生活を営む一方、農耕の業にも従った。
 その頃ロムアルドはさまざまの試練に遭遇した。まず過去の記憶が彼を苦しめ、悪魔も内外から彼を責めさいなんだ。しかし彼はその悩みがいかに大きくともよく耐え忍び、深い信頼を以て祈り、総てを我が罪の償いとして献げた。されば彼の徳は目に見えて進歩すると共に、彼の父もまた改心の恵みを得て修道院に入る決心をするに至ったのである。
 が、父にはその生活があまりに厳しすぎたのであろう、間もなく又世間に帰ろうとした。それと知ったロムアルドは急ぎイタリアの父の許に帰った。そして或いは慰め或いは諫め、忍耐して修道院に留まる事を、誠意おもてに現して願ったので、父もその言葉に従い還俗を思い止まり、しばらくの後敬虔な死を遂げたという。
 爾来数年間はロムアルドの上に慌ただしい月日が続いた。彼はイタリア国内を転々と、静寂の境を求めてさまよい歩いた。適当な所はいくらでもあったが、彼が一旦そこに庵を結ぶと、たちまちにしてそれが駄目になるのである。というのは、それと知るや否や四方八方から、教えを請いに数多の人々が潮の如く押し寄せて来るからである。弟子にしてくれと言う者もある、私共の修院長になってくれと願う修士等もある。ロムアルドはほとほと困却せずにはいられなかった。彼は唯人々の煩いを逃れて、静かに貧しく慎ましやかに天主に仕えていれば満足なのである。

 996年ドイツ皇帝オットー3世は、イタリア訪問の折り自分の保護の下にあるクラッセの修道院をも訪れたが、その乱脈に驚き、改革を思い立ち、之が遂行に適当な人材を修道者等に選ばしめた所、誰も彼もロムアルドを望んだ。で、皇帝は親しく聖人を訪い、その大任の引き受け方を懇請したので、彼もやむなく承諾した。
 けれども彼の様々な努力も矢張り空しかった。彼は司教と皇帝に願って淋しくまたわが庵に帰った。
 しかしそこにおける数人の弟子の敬虔な生活は彼の心を十分に慰めてくれた。中でも、後にロシアに布教し殉教したボニファチオ、ハンガリーに布教し、同時に殉教したヨハネとベネディクト、この3人は傑出していた。ボニファチオ殉教の報に接した時など、ロムアルドは自らその地へ急行しようとまで思った。もっとも丁度重病の床にあってその望みを果たす事は出来なかったが。
 後彼はある富豪からカマルドリと呼ぶ静かな土地を贈られ、そこに弟子達の為に修道院を設け、同時にカマルドリ修道会を創立した。同会は今日もなお存し、峻厳な生活振りを以て世に聞こえている。
 ロムアルドは又シトリオ山上にも一つの修道院を設けた。そこへ彼は、前に放埒の限りを尽くした貴族出の一青年を入らしめたが、この青年は改心を誓いながらも素行は依然収まらなかった。で、ロムアルドは彼を善導すべく百方手を尽くしたけれど、相手は心を改める所か却って師の忠言叱責を怨みに思い、彼が自分と共に人知れず放蕩をしているというような、あらぬ噂を立てた。人々はこれを信じて大いに怒り、彼を縛り首の刑に処すか、或いは彼の住居を焼き払おうとまでいきり立った。彼は御ミサを立てる事も禁ぜられた。けれどもロムアルドは唯黙々としてこの濡れ衣の屈辱を忍び、その命に服した。もっともある時天主御自身が現れ給うて、御ミサを献げよと仰せられたとも言われている。彼は今や年老いて死期の近づいた事を悟った。ある日彼は一人でいたいからと言って傍の人々を去らしめた。孤独を愛した彼は、死ぬにも天主と水入らずで唯一人死にたいと思ったのである。
 翌朝聖堂に彼の姿が見えなかったので、弟子達がその部屋へ行ってみると、師は安らかに大往生を遂げていた。時に1027年、6月19日の事であった。

教訓

 わが罪の償いをせねばならぬ。それには病苦、日頃の労苦、又人に悪意を持たれるつらさなどを忍ぶがよい。不成功、忘恩、誹謗などに心痛む時も、聖ロムアルドの如く常に天主への信頼を失ってはならぬ。いつかは必ずその報いを受けるであろう。






聖ユリアナ修道女    St. Juliana Virg.  

2024-06-18 03:36:19 | 聖人伝
聖ユリアナ修道女    St. Juliana Virg.                    記念日 6月 18日



 聖ユリアナ童貞は、かの聖母の僕会の7人の創立者達がフィレンツェに男子修道院を起こした時、同じ目的で除し修道院を創めた人である。

 彼女は1270年イタリアの貴族ファルコニエリ家に生まれた。それまで長い間女子に恵まれなかった両親は、喜びのあまり一つの美麗な聖堂を建てて聖会に献げたが、それこそ今もユリアナの墓所として知られている至聖なる御告げの聖堂に他ならない。
 さてユリアナは独り子であったので、父母に手の中の玉といつくしまれて健やかに生い立ち、教育も殊更入念に聖教の旨に従って施されたが、16歳を迎えると、両親は彼女にしかるべき養子を取って家を継がせようとした。ところが生来信心深く、この世の財宝や快楽を望む心のないユリアナは、生涯身をイエズスの浄配として献げたいと、熱誠おもてに溢れて申し出たから、親も相談の上遂にその願いを聞き入れるに至った。かくて彼女は童貞の誓願を立て聖母の僕会の総長であるフィリポ・ベニチオからその第三会員に加わる事を許されたのである。
 それからユリアナは在家のまま、ベニチオに与えられた戒律に従って修道に励んだが、母の没後20年を経た頃、志を同じくする童貞女等数人と、始めて協同的修道生活を営む事とした。そして自分ではいつまでも姉妹達の末席に留まりたいと望んだものの、彼等のたっての懇望黙し難く、とうとう院長の重任を帯び、一院の慈母として全修女達の上を配慮し、実践躬行彼等に模範を垂れ、ある時はその婢の如くになって彼等の為に尽くした。なおユリアナはそれまで一定の会則がなかったのを憂えて、わが豊かな体験から適当な戒律を編纂し、教皇マルチノ5世に送って認可を受け、また姉妹達の修道服をも制定した。
 ユリアナは慈善の業を非常に重んじ、戒律の中にも之を加えた外に、しばしば自分で、或いは暇のない場合には部下の修女を遣って、フィレンツェ市中の病人を慰問した。苦行に対してもたぐいまれな熱心を示し、例えば大斉の如きも、毎週水曜と金曜とには全然食物を摂らず、土曜にも僅かしか摂らぬという風に徹底的に行った。そして祈りに就いては、会則に定めてあるだけでは足れりとせず、自ら進んで様々の祈りを献げるのであった。
 かように克己修道に努めること37年、71歳の老齢に達した彼女は、胃を病んで危篤に陥った。吐瀉が激しいので御聖体拝領も許されなかったが、その切なる願いにより司祭はせめてもの心やりに、仰臥している彼女の胸に白布をかけ、その上に至聖なる御聖体を載せてやった。ユリアナは恭しくそれを礼拝しつつ霊的に御聖体の主と一致し、喜びの色をたたえながら安らかに息を引き取った。それは1341年の6月19日のことであった。
 後人々は聖女の遺骸を洗おうとした時、その胸にくっきりと丸い御聖体の形が、それに描かれている十字架までも明らかに印せられているのを見いだしたという。

教訓

 我等は聖女ユリアナから、望みの御聖体拝領、及び臨終の御聖体拝領を重んずべき事に就いて学びたい。公教要理には臨終の御聖体拝領を、年に一度の御復活日頃の御聖体拝領と同様欠くべからざる義務として命じている。これを共に拒む者は大罪を免れぬ。されば我等は命の危うきに臨んだら是非その務めを果た







ピサの聖ライネリオ証聖者 

2024-06-17 04:23:43 | 聖人伝
ピサの聖ライネリオ証聖者                         記念日6月 17日


 ライネリオは、若い時イタリアのピサで放埒な生活を送っていたが、ある日伯母が紹介した聖ヴィト修道院の修道士に会ったときから、すっかり回心して今までの生活を改め、両親が心配するほどの変わり方であった。まもなく、イエズスが地上の生活を送られた聖地への巡礼を望んでライネリオは出発した。巡礼の途中で夢を見たが、それは自分の財布が焼けつくように燃えるコールタールでいっぱいになっていて、それを消すことができたのは水だけであったという夢であった。この夢で教えられたことは、肉体的な欲望を消すことのできるものは酒ではなく、ただ水だけであるということであった。その時からライネリオは水だけを飲み、食事は日曜日と木曜日に限って食べることにした。そして、裸足で歩き回った。ピサに帰った時、修道院に入って謙遜な生活を送ることを望んだが、彼は決して正式の修道者にはならず、司祭として叙階もされなかった。

 1160年、聖ヴィト修道院でライネリオは帰天し、ピサの守護の聖人となった。彼が亡くなってから20年後、建築家でまた彫刻家のボナノ・ピザノがピサのカテドラルの美しい入り口を造り、24のパネルにキリストの生涯から選んだ場面の画をつけて、それをサン・ラニエリの戸口と呼んだ。






聖ルトガルジスおとめ    St. Lutgardis Virg.

2024-06-16 01:09:43 | 聖人伝
聖ルトガルジスおとめ    St. Lutgardis Virg.              記念日 6月 16日


 聖女ルトガルジスの一生は、いわば主イエズス・キリストとの完全な一致を目指す努力精進の連続であった。「汝等は死したる者にして、その生命はキリストと共に天主において隠れたるなり。我等の生命にてましますキリストの現れ給う時には、汝等もまた彼と共に光栄の中に現るべし」(コロサイ書 3・34)この聖パウロの言葉は、彼女の生涯の説明と見ることも出来よう。

 ルトガルジスは1182年ベルギーのトングル市の貴族の家に生まれた。母は大層信心深い婦人で彼女をも敬虔に育て上げようと努めたのに、父は全然世俗的な人間でこの世の快楽虚栄社交などに娘の心を向けようとしたから、ルトガルジスはこの相反する教育方針の犠牲となって、善を為しがたく、悪に流れやすい志操定まらぬ少女と生い立ったのであった。
 ようやく年頃になった彼女は、父の考えに従い、某という貴族の一青年と結婚する事にした。所が不幸にも父が商売の手違いから大損害を蒙り、為に予定の持参金も娘に与える事が出来なくなってしまった。すると最初から人より金を目当てにしていたらしい某は、たちまちにその婚約を破棄し去り、再び彼女を顧みぬようになったのである。
 その時のルトガルジスの恥ずかしさはどれほどであったろう!彼女は今や人の心の頼み難さを始めてはっきりと見せつけられたような気がし、母の勧告のままに今後は修院に入り、ただ天主のみを望んで生きようと思い立つに至った。
 その為に天主の思し召しの有無を知るべく一心に祈りをしていた時の事である、彼女は思いもかけずイエズスの御出現を蒙った。すなわち主は鮮血淋漓たる御脇腹の傷を示し給いつつ「見よ、汝の愛すべきものを!この傷においてこそ汝は無上の歓喜を見い出すであろう」と仰せになったのである。ルトガルジスの進路はかくして確定した。彼女は主キリストを浄配と選び、その聖旨に適うことを求めて日夜徳を磨く決意を固めたのであった。
 いよいよ彼女が憧れの修道誓願を立てたのはその18の年の事であった。それからのルトガルジスは、愛する主に仕える為修道女の本分たる、祈り、労働、苦行などに脇目もふらず没入した、すると天主の方でも彼女をより完徳に導こうとの御心から病気に罹るなどの肉体的苦痛や他人に誤解されるなどの精神的苦痛をほとんど絶えず与え給うた。かようにしてルトガルジスの魂は一日一日より固く主に結ばれ、後に聖主はまた度々彼女に現れて、親しく神秘的生活の奥義を明かし給うたと伝えられている。
 こうした恵みは全く己を捨てた熱心な祈りの人にでなければなかなか与えられるものではないが、ルトガルジスの祈りを愛する事は実に驚くべきほどであった。彼女は会則に定められた務めの祈りを果たすはもちろん、暇さえあれば祈り、黙想等によって限りなき天主の御心の堂奥に参入するのをこの上ない楽しみとしていた。それに彼女の祈る願いは実際不思議なほど叶えられた。一例を挙げれば、ある時彼女と知り合いの一修院長が死去したが、その人は生前甚だ憐れみの情に欠ける所があった。で、ルトガルジスはその死後の運命を心配してその為しばしば祈ると共に罪の償いの業をも熱心に行った所、しばらくしてその人が天国の光栄に包まれて現れ、「あなたのお祈りのおかげで、煉獄の償いを40年も縮められました」と告げ、繰り返し謝意を表して消え去ったとの事である。かく彼女が殊にも罪人の為力を尽くしたのは、一つには自分の若き日の不信心を今更の如くに悲しむ罪滅ぼしの心から出たのであろう。
 天主との深い神秘的一致の恵みを許されたルトガルジスは、直接聖主から御指導を授かる事も一再ではなかった。彼女が7年間の大斉を3度命じられた如きもその実例である。その最初の大斉は当時流布しつつあったアルボア派の異端を滅ぼす為、次は罪人の改心の為、そして最後のはまさに聖会に降りかかろうとする迫害を未然に防ぎ止める為に他ならなかった。
 さてルトガルジスはかように主の聖旨のままに修道に専念し、他の姉妹達のあっぱれな模範となったから、彼女がわずか25歳の若年で一院の院長と推されたのも、格別驚くに足らぬ事であろう。しかし謙遜な彼女はそれを望まず、願い出て故郷の修院を去り、ブラバント州アヴィエルの修院に移って約40年も敬虔な修道生活を続けた。その終わりの11年間は主の特別な思し召しから全く盲目となったが、彼女はその難儀不自由をも主の御苦難に合わせて天父に献げ、世の罪の償いとしたのであった。
 かくて数々の功績を積み、地上から主と一致していたルトガルジスが、いよいよ豊かな報酬を得、永遠に浄配と楽しむべく天国に召されたのは、1246年6月16日の事で享年64歳であった。

教訓

 世人は聖女ルトガルジスの生涯を価値なきものと考えるかも知れぬ。しかしそれはあまりに物質的、自然的な立場からのみ見るからである。霊的超自然的立場よりすれば、彼女の祈り、苦行とは、どれほど人類社会のため災いを防ぎ幸いをもたらしたか計り知れぬのである。我等はこの聖女の一生から祈りの大いなる力と従ってその必要な所以を学ぼうではないか。