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カトリック情報 Catholics in Japan

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聖ピオ10世教皇     St. Pius X. Papa

2025-08-21 15:19:16 | 聖人伝

聖ピオ10世教皇     St. Pius X. Papa             記念日 8月 21日


 教皇になるには、家柄も財産も必要ではない。ただキリスト信者で資格さえあれば、即ち神学俗学に造詣深く、経験や徳に卓れていれば誰でもなれる。聖会はそう教えているが、ピオ10世の一生はその実例である。
 ピオ10世は北イタリアのリエゼという小さな町に、始め郵便配達夫であり、後に小さな郵便局長となったサルトの長子として生まれ、洗礼の時にはヨゼフと名付けられた。小さいときから同胞の救霊の為に働きたいという憧れをもち、早くからその為の勉強を始めたが、家が貧乏なのでそれはなかなか容易なことでなく、カステルフランコにある中学校までの遠い路を、裸足で通学しなければならないこともしばしばあった。両親にはまだ養わなければならない息子や娘があったから、ヨゼフは司祭になる決心をした時、神学校の給費生になる特典を受けるよう、人に尽力してもらい、成績が抜群であった為に、首尾よくそれを許された。
 長男の彼がめでたく司祭になって、始めてミサ聖祭を献げた時、母親マルガレーテ・サルトの喜びは一方ではなかった。彼女が愛するヨゼフの為に忍んで来た数々の苦労は空しくなかったからである。
 彼の最初に赴任した所はトンボロという村で、そこの助任司祭になった彼は、特に少年等の為に意を用い、その慈父ともなれば恩師ともなった。その大部分は全く読み書きが出来なかったからである。
 「しかしお礼はどういう風にしたらよいでしょうか?」ある人がそう訊くと、彼は答えて言った。
 「この村の人には、何かというとすぐ呪いの言葉を吐く悪い癖がありますが、それをやめて下さい。私にはそれが何よりも有難いお礼です」
 目上の主任司祭は、もう年寄りで気弱な人であったが彼はその人に9年の間従順に仕え、助任司祭として縁の下の力持ちのような仕事でも何でも厭わずにした。当時は誰も彼にもっと高い地位を与えようと思わなかったし彼自身もそうしたものを得ようと努めなかった。しかしその偉大な才能が認められ、サルザノの主任司祭に任ぜられた。サルザノの人々は、彼が卑賤の出であるというのであまり信用せず之を迎えた。けれども彼の才能及びそのすべての人、わけても貧民に対する愛と犠牲を厭わぬ親切とは、やがてあらゆる人の心を引きつけ、9年後その司教区の主事兼トレヴィーソ神学校指導司祭に任せられた時には、誰一人別れを悲しまぬ者がないほどであった。
 彼はまた9年たつと、レオ13世教皇からマントワの司教に挙げられ、更にまた9年たつと遂にヴェネチアの総大司教兼枢機卿に任ぜられた。その折り彼は平に辞退しようとしたのであるが、ランボーラ枢機卿に「これは既に辞退した人が一人あるので、またお受けしないとなったら、教皇もどれほど遺憾に思われるか知れない」と注意されると、素直に教皇の御意に添うこととしたのであった。
 彼はそれからイタリア全国でも重要教区の一つである、その司教区の改革に倦まずたゆまず努力し、そこでまた人心を収攬することに成功し、従来カトリックを敵視していた政府とさえ友好関係を結ぶことが出来た。しかしながら彼を最も愛したのは貧しい人達であった。彼は自分の必要欠くべからざるものさえ彼等に施してしまい、為に彼の家事を見てくれる妹たちが困ることも度々あったのである。
 その内にレオ13世教皇が永眠されたので、サルト枢機卿も新教皇選挙の為ローマに上京しなければならなかった。彼はそれがすぐ済んで、間もなく帰ることが出来ると思い、出発の際には従者に往復切符を買わせた。けれどもその戻りの方は要らなくなってしまった。なぜなら彼は最早ヴェネチアに帰らずに、選挙者の圧倒的多数の希望に従い、教皇の重責を双肩に担うこととなったからである。教皇としての名前には、その前々代のピオという名前を選んだ。
 4億の信徒を擁するキリストの教会を導いて、科学の進歩を誇る世の不信仰不道徳の嵐を切り抜けさせるのは、決して生易しいことではない。ピオ10世の教皇としての特筆すべき事跡には、信仰を深めるいろいろな運動のほかに、わけても回勅を発して御聖体を頻繁に且つ立派に拝領させるようにした改革がある。この措置に対しては何十万、また何十万という人が彼に感謝して来たし、また天国に入ってからも永遠に感謝してやまぬであろう。かれが標語として選んだのは、「一切をキリストにおいて革新する」という聖パウロの言葉であった。
 彼の晩年、1914年8月2日、突如第一次世界大戦が勃発した。彼は平和回復のために努力したが、徒労に終わった。そしてそれから三週間目、1914年8月20日を一期として世を去ったのである。
 それから三代目の後継者ピオ12世教皇が、聖ペトロ大聖堂の前で。多数信徒参集の下に、彼を福者の列に加えられたのは、1951年6月15日のことであった。そして1954年には聖ピオ10世教皇として列聖されたのである。

教訓
 教皇はいずれも皆、聖会から列福または列聖されるとは限らない、しかし教皇はいずれも皆、信仰道徳について全信徒の信ずべき事を定める時には、謬ることがない。我等聖会の子たる者は、天主が近代において、ただ信ずるべきことを謬りなく定めたのみならず、信者にも未信者にも真理と完徳との灯台と仰がれるような人々を、教皇として聖会に与え給うたことを喜び、且つ手に感謝しよう。




聖ベルナルド修道院長教会博士  St. Bernardus D. E.

2025-08-21 15:19:09 | 聖人伝

聖ベルナルド修道院長教会博士  St. Bernardus D. E.   記念日 8月 20日


 いやしくもカトリック信者にして「慈悲深き童貞マリア」という聖ベルナルドの聖母に祈る文を知らぬ人はよもあるまい。実際過去10世紀に亘りこの麗しい祈祷を口にして、言い尽くせぬ慰めを感じ、新たな力を得た人は、どれほどあったか知れぬのである。されば、かように優れた祈祷を作り、以て多数の人に天主や聖母に対する敬虔を教えた聖ベルナルドは、この功績の一つだけでも十分聖会博士の称号に値したであろう。しかも之は彼の豊富浩瀚な信心に関する著作中、九牛の一毛にも当たらぬのである。
 この偉大な学者聖ベルナルドは1091年フランスのヂジョン近郊にあるフォンテーヌ城に貴族の子と生まれた。父は国家の大官で始終不在がちであったから、彼を教育するのは自然信仰の極めて篤い母の役目となったが、之はベルナルドにとって誠にこの上もない幸福であった。彼は青年時代に及んで懐かしいこの母を失ったけれど、その尊い教訓の数々は深く心に刻まれて永く消える時がなかったのである。
 その21歳のある日のことであった。彼はブルゴーニュの兵営に入営中の兄達を訪れる途中、とある路傍の一礼拝堂に入って兵営暫く祈祷を献げたが、その折りふと母の遺訓を思い出し、世間を捨てて出家入道する覚悟を定めるに至った。そしてその決意の程を、後刻兵営の兄達に話した所、彼等も伯父もことごとく共鳴し、ついに1112年30人の同志を相率いてシトー修道院に入ることとなったのである。伝えによれば彼等が城を去るに臨み、父の傍に残る末弟ニヴァルドを顧みて「私達は皆修道院に入るのだから、この城も領地も父さんの財産は全部お前のものになるのだよ」と言うとニヴァルドは「兄さん達は天国の財産の跡継ぎになるのに、僕はただこの世の財産の跡継ぎになるなんて、随分つまらない役回りだなあ」と答えたという。
 当時フランスには名高い修道院が二つあった。それはクリニュイとシトーとである。中でもシトーは聖ロベルトの創立に係るトラピスト会に属し、生活の厳格を以て聞こえ、食物は常にパンと野菜だけで絶対に肉を用いず、6時間の祈祷と6時間の睡眠の外は、激しい労働に従う定めであった。されば易きに就く人心の常として、この修道院を志願する者は平素でもさまで多からぬを、その頃院内に伝染病が猛威をふるい、修士の死亡相次いだので、世人は益々恐れをなし、シトー入院志願者は殆ど跡を絶つに至った。時のシトー修院長はステファノ・ハーヂングという規矩厳正な英人であったが、この事を深く遺憾とし、日頃から天主によき志願者を与え給うように熱心に祈っていた所、突如ベルナルド等が大挙して入院を願い出たので夢かとばかり驚喜し、早速之を許可した。
 ベルナルドはトラピスト会のあの峻厳無比な戒律を忠実に守ったばかりでなく、自ら進んで余分の苦行をもした。そして常に「ベルナルドよ、汝が此処に来たのは何の為か?」と記した札を座右に置き、己を励ます便りとした。
 こうしたベルナルドの修道熱心が院長の目に留まらぬ筈はない。やがて彼は抜擢されて1115年12人の同志を伴い、当時ヴェルムートタールと呼ばれ、後クレルーヴォー(明るい谷の義)と称せられた深山の幽谷に赴き、そこに新修道院を設けるに至った。
 それから彼は38歳の時、トロアに開かれた聖職者会議に出席し、神殿騎士修道会の戒律改修を委ねられたが、これこそベルナルドが聖会の為公然活動を始めた最初で、その後は司教の選挙にせよ異端に対する護教にせよ、また種々の争いに対する和解調停にせよ、苟くも聖会の重大問題で彼の関与せぬことは殆どなかった。なお彼は諸々方々の教会から依頼を受けて説教を試みたが、人々はそれを聞くよりも聖人の噂ある彼の風貌に接し、その奇蹟を見、その掩祝を受けたいばかりに数十里の路を遠しとせず来たり集うことさえあった。
 ベルナルドはまた、招聘を受けても之に応じ得ぬような場合には、しばしばその教会に書簡を送って訓戒や忠告を与えることがあった。かような書簡の今に残れるもの、おおよそ500の多きを数えているが、その何れを見ても才気渙発、文章流麗、敬虔に満ち聖会を思うまごころに溢れて、人を動かさずにはおかない。
 しかし彼のあらゆる事跡の中最も顕著なのは、何と言っても聖地パレスチナを回教徒の手から奪還する十字軍の為の説教であろう。これは彼の弟子であった教皇オイジェニオ2世の命によるもので、彼はその為全欧諸国を廻り皇帝諸侯や一般人民に聖戦参加方を勧説したが、この企てはその目的こそ神聖であったものの、参加各国将士は人間故やはりその弱さから互いの間に嫉妬争闘が起こり、ついに失敗に帰するの已むなきに至った。これはベルナルドにとって大いなる試練であった。しかし彼は一切を天主の思し召しとして甘受し、聖会に不利、人々に迷惑を及ぼさぬようにひたすら祈り、補うに峻烈な苦行を以てした。
 さてベルナルドは命ぜられた任務を果たすといつも懐かしの故郷に帰る如くクレールヴォーに急ぎ戻り、愛する修道生活に専念した。そして彼が修道院に帰る時には必ず新たに修道志願の青年を幾人か伴うのが例であった。さればクレールヴォーの行者の数は次第に増えて、彼が臨終の頃には約700の多きに上った位であった。己に対しては秋霜の如く厳しい彼もこれらの弟子達に対しては春日の如く温和で、自分の深い神秘的体験からその与える敬虔上の指導は一として肯綮に当たらぬはなかった。
 1552年ベルナルドは病床に臥す身となった。時たまたまメッツ市の貴族と人民との間に争闘が起こるや、司教は使者を遣わして彼の調停を切に求めた。で、彼は衰えた身を二人の修道者に助けられて同市に赴き、斡旋に努力、とうとう双方を和解せしめる事に成功したが、これぞ彼が最後の活動であったのである。
 やがて病あらたまって、彼が聖会の為にたてた数々の功労また修院に在って孜々として積んだ善徳の報いを受くべく天国に旅立ったのは、1153年8月20日のことであった。行年63歳。死後僅か20年を経たばかりで列聖の栄誉を担ったベルナルドは、又「蜜の流れの博士」とあだ名され、イエズスの聖名及び聖母マリアに対し特に崇敬の厚かった聖人として知られている。

教訓

 聖ベルナルドはトラピスト会の第二の創立者ともいうべく峻厳な修道にいそしみながらも、その国家社会を益したことは驚くべきものがあり、その活動の華々しさは当時の最も偉大な聖職者も三舎を避けるばかりであった、それも決して自ら求めたものではない。聖人の徳の高さに心服した人々が、事毎にその出盧を促したからである。実に「人は灯火をともして枡の下におかず、家にあるすべての物を照らさん為に之を燭台の上におく」とは至言である。されば我等も先ず天主の国とその義とを求め、徳を修めることに努力しよう。



聖ヨハネ・ユード司祭証聖者    St. Joannes Eudes C. 

2025-08-21 15:19:01 | 聖人伝

聖ヨハネ・ユード司祭証聖者    St. Joannes Eudes C.      記念日 8月 19日


 世にはカトリックの聖人方を目して、社会国家に何の貢献する所もない世捨て人、無為徒食の徒輩とする者もないではないが、これはもとより大いなる誤りである。なるほど聖会初代の隠修士などには、我が身の救霊を第一として、世間を離れ、独り節を清うした方々もあったが、これとてその没我禁欲の生活により利己貪欲の世人に与えた精神的好影響は決して少なからずその他の聖人方に至っては、或いは自ら何等かの博愛事業を起こし、或いはこれに関与して世道人心を益すると共に直接社会の福利に寄与する所が多かった。聖ヨハネ・ユードの如きも倫落の女達に温かい救いの手を差し伸べた感ずべき聖人の一例である。
 彼は1601年11月14日、北フランスのノルマンディー州リー村に生まれた。父は農を業としていたが多生医術の心得もあり、近隣の誰彼が怪我をしたり病気に罹ったりした場合にはしばしば招かれて手当をしてやったものであるという。母は極めて篤信の人で、幼いときから我が子の心に天主のこと、わけてもその遍在の観念を植え付けるように努力した。さればヨハネの信仰に対する理解の深さは普通の大人も及ばぬばかり、当時に在っては異例の幼年で初めての御聖体拝領を許され、間もなく終身童貞の誓願をたてた位であった。
 彼が14歳になると、父はこれをカレン市に送って、イエズス会経営のある中学に入れた。ヨハネの勤勉と敬虔とはそこでも同輩を凌駕し、学業に於いては一級の優等生となり、信心に於いては同校に組織されているマリア崇敬会会員達の鑑と仰がれるに至った。
 中学の課程を終えたヨハネは引き続いて哲学を専攻したが、彼はこの頃から己の将来に就いて種々考えを廻らせ、自分の召命を知るべく熱心に祈祷や苦行を行い、ついに司祭となることこそ主の御旨と確信し、これを父に打ち明けてその許可を願った。父はかねがね息子の世間的立身を夢み、彼の配偶としてある富豪の令嬢を娶る手筈まできめていたので、この話を聞くと一時は大いに驚いたが、根が物わかりのよい人だけにやがて快く彼の望みを容れてくれたけれども、世俗司祭となるか修道司祭となるかの点についてはなかなか意見が一致しなかった。即ち父を始め一家の者は前者をすすめヨハネのみは後者を望んだからである。とはいえ彼の熱心な祈祷と根気のよい嘆願とは結局父の心を動かさずにはいなかった。父はとうとう彼に同意し、温かい親心をこめた掩祝を与えてくれたのである。
 かくてヨハネは聖フィリポ・ネリの創立にかかるオラトリオ会に入り、24歳にして叙階の秘蹟を受け、憧れの司祭職につくことが出来た。が、幾分健康を害していた為まだその働きも十分せぬ中に、保養を命ぜられてパリ近郊の田園に送られた。しかし生来勤勉な彼は為すこともなく日を送ることに耐えられなかったので、聖書の研究を続けることとしたが、その敬虔さは聖書を手にするや必ずひざまずいてこれを為し、玩味熟読、黙想に耽るときには、一切を忘れて天主に遊ぶが如く、見る者も思わずかたちを改めずにはいられぬほどであったという。「聖書は御聖体に次ぐカトリック信者の宝である」とは彼の常々口にしていた言葉である。
 あたかも1627年、彼の郷里には悪性のペストが発生し、伝染猛烈を極め、これに冒される者は巷に満ち、看護に当たる人々は著しく不足を告げた。そこでヨハネはこの時とばかり修院長の許可を得て、同志の司祭数名とその地に急行し、昼夜を別たず憐れな病者の看護に努め、臨終の人には秘蹟を授け、席の温まる遑もない活動を続けた。そして自分の休養といえば、一日の中僅か二、三時間、それも椅子にかけたままとろとろとまどろむだけで過ごす事さえしばしばあった。
 それからヨハネは人々を促して疫病終息祈願の行列を行い、この地方を聖母に献げて熱心に御保護を求めたところ、さしも猖獗を極めた病魔も次第に衰え、やがて全くその跡を絶つに至った。しかしこの禍に人心はいたく荒み、信仰の念も薄らいだように思われたので、ヨハネは憂慮に堪えず、これが救済策として、先ず黙想会の開催を思い立ち、各町村の教会に於いて一ヶ月から三ヶ月に亘る心霊修行を行った、この試みは大いなる反響をよび、時には4万人からの参加者があったので、彼も益々気をよくし、黙想会を開くこと実に百十回以上の多きに及んだ。そして説教聴聞者の便宜を思い別に解りやすい宗教書を著し、その購読をすすめた。
 当時フランスではヤンゼニズムの主義が甚だ勢を得、為に聖教の真理も危機に瀕するばかりであった。ヨハネはこの時に当たり信者達に立派な指導者がないことを憂え、良き司祭の養成こそ刻下の急務と感じ、司教達にその目的の適う神学校の必要を説き、その賛成を得てこれが設立経営に当たる修道会を創立し、会員たる者はイエズス・マリアの聖心を特に崇敬するよう定めた。
 それから彼はまた先の黙想会に於いて、倫落の女の改心者を数多出したが、これをそのままに放置すれば再び以前の生活に戻る懼れがあるので、彼らの保護事業を起こす必要を痛感し、始めはかかる改心者を熱心なカトリック婦人、わけても寡婦に託するようにした。しかし後間もなくこうした事業はどうしても修道女の犠牲敵献身的な愛によらねばならぬ事を思い、訪問修道女会を招いて右の仕事を委ね、その戒律に新会則若干を加えて「善き牧者の愛の修道女会」と改称させた。
 ヨハネはこの事業の為に随分峻烈な攻撃の矢玉を浴びねばならなかった。思慮ある人々も「貞潔の誓願を立てている修女達を、如何に改心したとはいえ身の穢れている婦人達に接触せしめるのはどんなものであろう」と反対した。そういう非難に対しヨハネは常に答えて言った。「貞潔の徳は真の愛に伴えば、決して穢される憂いがない。それはちょうど太陽の光が汚い泥に当たっても穢されないようなものである」と。実際攻撃者等の考えは杞憂に過ぎずその修道女会には何の醜聞も起こらなかったばかりか、それによって救われた不幸な女達はどれほどあったか知れぬのである。
 ヨハネはその後もかくさまざまの使徒的事業に活躍を続けていたが、1680年病を得、8月19日眠るが如く大往生を遂げた。時に享年79.彼の列福は1909年ピオ10世教皇により、列聖は1925年ピオ11世教皇により、厳かに宣言された。

教訓

 聖ヨハネ・ユードが「善き牧者の愛の修女会」の為に定めた戒律に二つある。一は主の聖心の会則と呼び、主のお命じになった数々の掟を含み、他は聖母マリアの御心の会則と名付け、聖母により最上の模範を示された修道実践上の方法であった。実際信者にとって主の御掟を守り、聖マリアの御生活に倣う以外に何の望むべき所があろうか。
 されば、至聖なるイエズスの聖心、我等を憐れみ給え。
汚れなきマリアの御心、我等の為に祈り給え。






聖ヘレナ皇太后         St. Helena Vid.

2025-08-18 00:00:05 | 聖人伝

聖ヘレナ皇太后         St. Helena Vid.                記念日 8月 18日


 ローマ帝国に於いて初めてキリスト教信仰の自由を与えたのは、言うまでもなく歴史に名高いコンスタンチノ大帝であるが、それまで300年の長い間続いた迫害に、従容教えに殉じて死に赴く信者達の天晴れな態度は、その平生の立派な行いと共に、心ある者の感嘆を呼び起こすに十分であった。コンスタンチノ大帝の父コンスタンチオや母ヘレナもこの感嘆を禁じ得ずキリスト教に深い敬意を有するに至った。そしてヘレナの如きはついに受洗し、後世聖女と仰がれるまでその信仰に徹したのである。
 聖女生誕の年は定かではないが、何でも250年前後であったろうと推定される。それは初子なるコンスタンチノが274年2月27日に生まれているからである。しかしヘレナの生まれ故郷は明らかで、小アジア、ビチニア州のドレパヌムという所であった。両親は爵位もなければ財産もない人々であったから、若いヘレナも働いて糊口を得なければならなかったが、生まれつき器量も美しく心だても善かった所から、丁度ビチニアに勤務中のローマ将校コンスタンチオに見いだされ、とうとうその妻となった。彼女が初産したのは、当時ナイススと呼ばれていた今のニッシュ市(セルビア領内にある)で、その子が即ちコンスタンチノであった。コンスタンチノとは小さいコンスタンチオという意味である。
 そのうちに夫コンスタンチオは次第に昇進してマクシミアノ皇帝の寵臣となり、また部下の気受けも甚だよく、やがてはローマ帝国西部の総督として、ガリア、南ドイツ、イスパニア、ブリタニア等諸地方の統治を委ねられることとなった。但しそれには条件があって、第一、妻ヘレナを去ってマクシミアノの皇女テオドラを娶ること、第二、息子コンスタンチノを人質として小アジアのニコメジアなるリチニオの邸宅に送ることの二箇条が要求されたのである。コンスタンチオは始めかかる道に外れた要求には応ぜられぬと考えていたが、勃々たる野心は押さえ難くついに妻子を犠牲にする覚悟を定めた。それはあたかも292年のことであった。
 ヘレナは感情を抑え淋しい諦めを以て黙々と身を引いた。コンスタンチノは東ローマ総督リチニオの邸宅に人質となって行った。かくて父コンスタンチオは宿望を遂げて西ローマの総督となったが病に倒れるや我が子を呼び戻そうとした。リチニオはそれを知るとコンスタンチノを毒殺しようとしたけれど、辛くも難を逃れたコンスタンチノは父の許に帰り、306年父をあの世に見送った後、軍部の支持を受けてその後継総督となった。
 彼はそれから母ヘレナを、ドイツのトリールなる己の邸に呼び迎え、父が彼女から奪った位と権利とをことごとく返し与えた。そして名高いミルヴィオ橋の一戦に勝利を得るや、西ローマ国皇帝として首府ローマに居を移し、母ヘレナに皇太后アウグスタという尊号を贈り、貨幣の鋳造権を与え、またその生まれ故郷ドレパヌム市を美化して之にヘレノポリス(ヘレナの町)と命名し、幾久しく母を記念するよすがとした。
 しかしつぶさに辛酸をなめたヘレナは、もはや煙のようにはかない浮き世の栄華などに心引かれはしなかった。却って永遠不朽の幸福を説くキリスト教にことごとく傾倒し、遂に60歳の時願い出て洗礼の恵みを受けるに至った。歴史家として名あるオイゼビオは彼女を評して「主イエズス・キリストから親しく教えを受けた如く、その信仰は堅固にその熱心は著しかった」と記している。
 ヘレナは身皇太后の高き位に在り、殊に貨幣の鋳造権を有していた為に甚だ富裕であったが、彼女は貧民救済や聖堂建立にはいささかも惜しむ色なく金銭を抛ち、わが尊い身分を忘れて貧しい人々と共に聖式にあずかり共に祈ることを好んだ。
 コンスタンチノはその後首府を我が身の記念として東の方コンスタンチノープル(コンスタンチノの市の義)に移した。
 ヘレナは主イエズス・キリストがその聖き御生涯を送り給うたパレスチナに近く住み得る幸いを心から喜び、また聖地参詣を思い立って326年その望みを果たした。教敵は昔聖遺物隠滅の為、カルワリオ山頂の主の十字架を何処へか投げ捨て代わりに女神ヴェヌスの像を建てたが、ヘレナは苦心惨憺、諸々を発掘の末、ついに聖十字架発見に成功した。    聖十字架の発見の記念
 ヘレナはそれから更に聖主の御誕生地ベトレヘム及び御昇天オリーブ山に記念の聖堂を建立し、数多の遺物を携えてコンスタンチノープルに戻ったが、幾程もなく天主の御召しを受けてこの世を去った。享年およそ80と言われている。その画像は頭に美麗な冠を戴き、豪華なマントを纏い、威儀を正した皇太后の服装で十字架を抱いている様に描くのが普通である。

教訓

 聖女ヘレナはコンスタンチノ大帝の皇太后としてよりも、むしろキリストの十字架を発見し、これを救霊の印と仰ぎ大いなる崇敬を尽くしたことによって後世に名を残した。我等人間の幸福というものは、この世の位階勲等や名誉を得るよりもむしろ信仰を熱心に守る所に在すのではあるまいか。聖パウロも「天主は智者を辱しめんとして世の愚かなる所を召し給い、強き所を辱しめんとて世の弱き所を召し給い、現にある所を滅ぼさんとて、世の卑しき所、ないがしろにせらるる所、無き所をば召し給いしなり」と記している。



聖ヒアチント証聖者    St. Hyacinthus C.

2025-08-17 11:52:45 | 聖人伝

聖ヒアチント証聖者    St. Hyacinthus C.          記念日 8月 17日


 今熱心なカトリック教国として知られているポーランドが、初めてキリスト教に改宗したのは10世紀の終わり頃であったが、もとより始めから国民一般がよく聖教の趣旨をわきまえていた訳では決してない。その蒙を啓き信仰を深める上には、聖アダルベルトとか、本日祝う聖ヒアチント等の東奔西走して教えを説いた活躍が、あずかって大いに力があったのである。

 ヒアチントは1185年西ポーランドの有名な貴族オドロヴォンズ家に生まれ、クラカウ及びプラハの両市に於いて普通の教育を受けた後、イタリアのボローニャ市に留学して神学と聖会法とを修め、博士号を得て帰国、クラカウの司教カドルベックに同司教座聖堂の参事会員に任ぜられた。
 カドルベックが没すると、その後任司教に補せられたのはヒアチントの伯父コンスキーであった。彼は1218年教皇に敬意を表すべく遙々ローマに上ったが、その時にはヒアチント及びチェスラオという二人の甥も同伴して行ったのである。
 たまたまローマにはスペインの聖ドミニコが、その創立した新修道会の認可を得る為来ていた。コンスキー司教は彼の語る所を聞いて大いに感動し、ポーランドにも同修道士の派遣方を願った。ところが同じくドミニコ会の理想に感激共鳴したヒアチントとチェスラオは、自らその会員となり故国に於いて活動したいと申し出たから、ドミニコも大いに喜び、彼らに修練を施す事暫し、ついに聖サビナの聖堂で二人の着衣式を執行った。
 やがてポーランドに帰ったヒアチントは早速国の首都クラカウ市にドミニコ会の修道院を建て聖三位に献げ、そこを本拠として諸々を巡回説教したが、全国至る所で大歓迎を受け、多大の成果を収めることが出来た。殊に彼は祈祷と苦行に熱心で奇蹟を行う力さえ授かっていたから、衆人が彼に帰依することは一通りでなく、我も我もと馳せ集まってその教えに耳を傾けたのである。
 ヒアチントがプロシアに布教を試みるべく、友人と共にダンチッヒ市に行こうとワイクセル河の畔まで来た時であった。あたかも大雨が降った為大河の水量は増して、渦巻く濁流は見るも凄まじいばかり、しかも渡るべき橋もなければ船も見えない。ここに於いてヒアチントは暫く地上にひざまずき天を仰いで主の御扶助を祈り求めていたが、つと起ち上って水に向かい十字架の印をしたと思うと、友を促し河を渡り始めたのに、さながら地上を歩む如く少しも沈むことがなかったという。これは聖人の列聖調査記録中にも載っている名高い奇蹟である。
 ヒアチントは主要な都市に修道院を建て、そこを根城として使徒的事業に活躍した。その中に韃靼人の襲来を蒙り、数多の教会を破壊されたが、彼はこの不慮の災禍にも絶望せず、いち早く復興に着手した。
 さてヒアチントは数々の労苦を忍びながら使徒的活動を続けること30年、1257年8月3日病を得、常々特に崇敬していた聖マリア被昇天の大祝日に臨終の秘蹟を受け、この世で樹てた勲功の報酬を授かるため天国指して旅立った。享年時に70であった。

教訓

 主イエズス・キリストは御昇天の直前遺言して「すべての被造物に福音を宣べよ」と仰せられた。聖ヒアチント始め多くの宣教師が艱難労苦に甘んじて布教に努めたのは、全くこの聖言によるのである。我等も同胞の救霊をなおざりにせず、機会ある毎に主の聖教を伝えるよう心がけねばならぬ。