聖ゼフィリーノ教皇 記念日 8月 26日
198年から217年まで教皇であったゼフィリーノは、度々殉教者の中に数えられているが、彼は殺されたのではない。
ゼフィリーノを殉教者として扱う人々の意向は、当時のキリスト教の神学者たちの間に起きた大きな争いによって、彼が非常に悩まされ、実際に心臓を痛めたことによるのである。しかし、ゼフィリーノは、カリストという助祭(彼は後に教皇となった)の努力により厳しさと愛徳とを常に保って、自分の誤りを悟った人々を喜んで迎え入れた。また同時に、キリストに関する真理が信用のおけない教師達によってゆがめられることの重大さを意識していた。
とはいえ、ゼフィリーノの寛大さを批判する人々もいた。学者のヒッポリトは、誤った教えを信じて離れていく立派な信者たちを十分に抑制しないと言って、ゼフィリーノを非難した。ヒッポリトの批判が正しかったかどうかは別として、ゼフィリーノは、必要だと自分が判断した時には厳しくすることができたことは確かであった。しかし、自分が悪かったことを認めて、立ち帰って来た者をいつでも快く迎え入れたのもゼフィリーノ教皇であった。
聖ルドヴィコ王(ルイ9世)証聖者 St. Ludovicus Rex C. 記念日 8月 25日
13世紀は世道人心が頽廃して信仰道徳が危機に瀕する一方、主の御摂理によりアッシジの聖フランシスコ、聖ドミニコ、聖女クララ等偉大な聖人聖女が輩出し、人々に正しき道を示された時代であった。殊に聖フランシスコの創立にかかる三修道会は、会員の立派な模範によって世人の士気を振粛する上に最も力あり、その感化は欧州各国に隠れもなく、九重の雲深い帝王達の宮殿にまでも及んだのである。後にフランシスコ第三会の保護者と仰がれるに至ったフランスの聖王ルドヴィコも、アッシジの師父の清貧と使徒的情熱に感激し、鋭意そのあとに倣うべく努力された結果、ついにあの大を成されたのである。
この身分高き聖者は1215年4月25日フランス、ポアシイの宮中にルドヴィコ8世王の王子として誕生された。彼が後年聖人となった最初の原因は恐らく信仰深きブランカを母として恵まれた幸福であったろう。実際この王妃は天成の美人で、また勝れた叡智の所有者であったが、それ以上信仰に厚く聖徳に秀で、我が子ルドヴィコにもその幼年の頃から敬虔の道を教え、常々「私はお前に対して世の母親に劣らぬ愛情をもっているつもりだけど、お前が一度でも天主に背いて大罪を犯す位なら、お前の死ぬのを見る方がよい」と言い聞かせ、汚れない少年の心に罪の恐ろしさを十分に刻み込んだ。そして勿論ルドヴィコは母のこの教訓を生涯片時も忘れはしなかったのである。
とはいえブランカは彼に宗教教育のみを施して足れりとした訳ではない。知育体育、文武の道も決してゆるがせにはしなかった。しかも多才のルドヴィコは往くとして可ならざるなく、殊にラテン語にすぐれこの難しい言を自由に操ったばかりか、聖アウグスチヌスや聖ヒエロニモ等古代教父の難解の著書を毎日日課として少しずつ翻読し、以て神学的知識を深め、天主への愛を増す便りとしたという。
彼が11歳の時父王ルドヴィコ8世が崩ずるや、暫く王妃ブランカが政事をとり、その賢明と聖徳によって国家を数多の難境から救ったが、王子ルドヴィコがプロヴァンス公の長女マルガレタ姫と結婚するに及んで之に王位を継承せしめた。爾来ルドヴィコは旧約時代の賢王ソロモンが主に長寿、富裕,戦勝等を求めず、唯国に善政を布く為の叡智を求めたひそみに倣い、己の弱さと王位にある身の重責を思いみて、一の勅令を出すにも、聖霊のわが叡智を照らし給うよう祈らぬことはなかった。されば彼の御代はフランス史上空前絶後と思われるまでによく治まり、人民こぞって泰平を楽しみ王の徳を謳歌したのである。
最初臣下の中には王の若年を侮った者もあった。しかし彼等もやがては凛然たる王の威光に縮み上がらねばならなかった。王は貧民や不幸な人々に対し溢れるような同情を有し、彼等に圧迫を加え不正を行う者は高官といえども寸毫も仮借するところなくこれを罰した。また高利貸し、虚飾及び決闘を社会の癌として排斥厳禁し、実践糾合人民に範を垂れて完徳の生活を奨めた。
祈りは一般に信仰のバロメーターとも言えようが、ルドヴィコの祈祷を好むことは尋常一様ではなかった。そして毎日二つあるいは三つのミサ聖祭を拝聴し、聴罪司祭と共に聖務日祷を誦え、今ほど頻繁な御聖体拝領が許されていなかった当時においては異例とも言うべき二ヶ月に一度、聖きパンを受けることを怠らなかった。しかもその拝領台に赴くや、主の御前に歩行するを畏れ多しとして膝行し、その天のマンナを戴く時には敬神の情自ら面に現れてさながら天使の如くであったという。
かつて臣下のある者が王の信心に凝って余りに多くの時間を費やすことを難じた所、ルドヴィコは答えて「もし余が御ミサでなく狩猟その他の遊びに熱中したとするならば、今に数倍する時間を徒費してもその方達は何事をも申すまい、それが事一度宗教に関するとなるとたちまち非難の語気をもたらすとは誠におかしい話ではないか」と言われたとのことである。
かように敬虔篤信なルドヴィコであったから、その心は自ずと表に現れて、麗しい数々の美徳とならずにはいなかった。中でも王者に似げぬ節倹質素な生活振りと、貧民病者に対する仁慈の程とは、人々を感嘆せしむるに十分であったが、これは言うまでもなく、彼が聖フランシスコの第三会に入会した、その輝かしい結果であったに相違ない。また彼は聖職者を深く尊び、枢密顧問もしばしばその中から選び、わけてもフランシスコ会の修士には特別の信頼と尊敬とを寄せていた。
今ルドヴィコ王博愛の実例を二、三挙げてみれば、彼は毎日120人の貧者に食を施し、四旬節中は更に多数の人に恵み、自ら手を下して憐れな癩病者の体を洗い清め、之に接吻することさえ厭わなかった。なおその仁愛は自国民ならず、遠くサラセン人の奴隷となって働いているキリスト教徒にまで及び、常に彼等に深甚な同情を現し、之が解放に援助を与えた。
東ローマ皇帝バルヅイン二世はルドヴィコの聖徳に感じ、わが首府コンスタンチノープルに国宝として保存されていた、救い主イエズス・キリストの聖血に染まった茨の冠を贈ることとした。それを聞くやルドヴィコは歓喜に堪えず、幾千の信徒を従え、裸足でパリから二三里も出迎え、自らその聖き遺物を捧持し行列して、あらかじめそれを安置すべく建てた美麗な小聖堂に運んだ。
その後王は大病に罹って奇跡的に全快した感謝の印として、その頃サラセン人の手に落ちていた聖地エルサレム奪還の十字軍を起こし、1248年大軍を率いて出征した。最初は向かうところ敵なく連戦連勝の有り様であったが、やがて不幸にも疫病によって多くの将士を失い、為に一軍の士気も著しく沮喪してサラセンの軍勢に大敗を蒙り、王自身も捕虜となる憂き目を見るに至った。
彼は暫くの間要求された巨額の賠償金の都合がつかなかった為に、生命を奪われる危険に直面していたが、有難い天主の御摂理により辛くもそれを支払い得て漸う自由の身体となることが出来た。それから彼は残れる将兵を駆り集め、パレスチナのアッコンへ行き、次いで己一人主の聖蹟の此処彼処を巡礼した。その中に母ブランカ薨去の悲報に接したので、ルドヴィコは蒼惶として帰国の途についたが、久しぶりで帰って見ると官吏の綱紀は甚だ弛緩し、税を貪って私腹を肥やしたり人民を瞞着して利益を求めたりする者もあったから、彼はすぐさま粛正に乗り出し、奸吏を厳罰に処する一方、人民の受けた損害を自分が出費して償ってやった。そして十字軍出征戦没将士遺族の弔問救護に万全の策を講じ、また聖職者を多数養成し学術を盛んならしめる為今も名高いソルボンヌ大学をパリに創立した。
ルドヴィコ王は先の十字軍失敗に遺憾やる方なく、1267年パリに臣下一同を呼び集め、之に主の聖遺物、かの茨の冠を示して声涙共に下る大熱弁をふるい、その賛同を得て再挙を図ることとなった。かくて彼はまたも大軍を親率して今度はアフリカのチェニスに上陸した所、たちまち疫病に冒されて臥床すること僅かに六日、念願としていた地上の聖地に入る前に、思いもかけず天の都、永遠のエルサレムに凱旋するに至った。その臨終に、彼は両手を十字架に磔れる者の如く広げ「主よ、我は聖堂に入り、主の聖殿に於いて礼拝し、主の聖名を讃美し奉る」と息も絶え絶えに詩編の言葉を祈った後、何の苦しみもなく静かに瞑目したという。その二三ヶ月前、彼はサラセンの使者に「余は貴国の皇帝陛下に受洗の恵みを与えることが出来るとあれば、奴隷となって鉄鎖に繋がれる事敢えて厭う所ではない」と語ったそうであるが、今それよりも更に大なる生命の犠牲をさえ献げたのである。生前既に聖人の噂高かった王の訃報が一度故国に伝わるや。人民その徳を追慕していずれも慈父を失った如く涙せぬはなかった。その後彼の取り次ぎによって奇蹟の行われること数知れず、公然聖位を贈られ、今なお無二の聖王の名誉を世に謳われている。
教訓
我等は聖ルドヴィコ王の生涯により一つの事実を確かめることが出来る。それは身分境遇の如何に拘わらず、誠意さえあれば天主の十戒や福音の聖教は必ず守り得るということである。されば我等は聖ルドヴィコの如く天主の御旨に従う堅い決心を起こし、その賜う聖寵を活用するに努めるならば、また王の如く天のエルサレムに入城を許されるに相違ない。
聖バルトロマイ使徒 St. Bartholomaenus Ap. 記念日 8月 24日
主は荒れ野において40日間断食された後、まずペトロとアンドレア、ヤコボとヨハネの二組の兄弟を使徒に召され、次いでガレリアへの道すがら見かけたベッサイダ生まれのフィリポにも「私に従え!」という有難いお言葉を賜った。このフィリポはかねてからイエズスについてさまざまの不思議な噂を耳にし、待望の救い主はこの方の他にはないと深く心服していたので、今のお招きを渡りに船と、早速御弟子方の中に加わることとなったが、その喜びに黙し難く、日頃から親しいナタナエルという友人を訪れた。ナタナエルはその時ちょうど庭園のイチジクの樹の下で黙想に耽っていたが、案内を乞う声に出迎えるとフィリポは意気軒昂の体で「私等はモーゼの律法にも預言者達にも書き記された人に逢ったよ。ナザレトのイエズスという方だ」と告げた。「ナザレト人?ナザレト人にろくな者があるものか?」ナタナエルがさもさも軽蔑したようにこういうと、フィリポは「まあまあ百聞は一見に如かずだ、来てみるがいい」とすすめて無理に彼をイエズスの御許につれて行った。
主はナタナエルを一目ご覧になるより「いや、これは実に野心のないイスラエル人だ」と仰せになった。で、彼がびっくりして「どうして私をご存じです」とお尋ねすると。主は「フィリポが案内を乞う前に、お前はイチジクの樹の下にいたであろう。私はちゃんと知っている」と答えられたから、ナタナエルはいよいよ驚嘆の情を深め、その全知を認めずにはいられなくなり、「師よ、貴方は天主の御子、イスラエルの王たる御方でございます」と恐れ入ってこれに帰依した。このナタナエルこそ誰であろう、本日祝われる聖バルトロマイに他ならない。即ちバルトロマイとはトロマイの子という意味で、血統を明らかにするあだ名であり、ナタナエルとは彼の本名なのである。
バルトロマイの人となりについては、先の主の聖言だけで、既に十分その純朴愛すべき風格を知り得たであろうが、彼の事跡に就いては、聖書にこそ何の記載もなけれ、聖会初代の数人が後世に書き残している。殊に聖会史家オイゼビオによれば、バルトロマイは聖霊降臨後間もなく故国を後に、遠く東インドまで行き、諸々に福音を宣べ伝え、後アラメイック語訳のマタイ聖福音書を携えてエジプトのアレクサンドリア市に赴き、盛大な教会を設けたと言うが、聖クリゾストモによればバルトロマイは小アジアのフリジア、リカオニア等を得てアルメニアに至り、そこで多年布教に活動し、ついに壮烈な殉教の死を遂げたそうである。即ち、彼の伝道は数々の華々しい成功をかちえたが、アルメニア王ポリミオ並びにその王妃を改宗させたことはその最もゆうなるものであった。しかるに異教の僧侶等はそれからバルトロマイを深く怨み、次に王位についたポリミオの兄弟アスチアゲスを煽てて彼を捕縛させ、残忍な死刑を執り行わせた。かくて聖人は、アルバノポリスという町に於いて生きながら全身の皮を剥がれ、後十字架に釘づけられて致命したのであった。
その聖い遺骸はまずメソポタミアのダラに、次いで6世紀シシリーに程近いパリ島に移されて恭しく保管されたが、839年にはサラセン人の凌辱の手を免れる為イタリアのベネヴェントに、983年には更にローマに運ばれ、今はチベル河中の一小島に建てられた聖バルトロマイ聖堂の、美麗な紅大理石製霊柩の中に安らかに眠っている。
教訓
資性純朴、真摯正直な聖バルトロマイは主の御招きを受けて使徒の列に加わるや、一生を真理の為に献げ闘った。「すべて真理によれる人は我が声を聞く」という主の聖言は彼の場合にも真実であったと言わねばならぬ。我等もこの聖使徒を鑑として、すべてに真理を求め、偽りを憎む精神を養うべきである。
リマの聖ローザおとめ St. Rosa de Lima V. 記念日 8月 23日
1492年アメリカを発見したクリストファー・コロンブスから、その地の珍しい話の数々を伝え聞いたスペインの人々の中には、新大陸をさながら無限の宝に充たされた楽土の如く考え、我こそはその富を先取しようと希望に燃えつつ故国を船出した者も少なくなかった。殊にそれから40年ほどして南米ペルーを征服したスペイン人達は土着民等を圧迫虐使して時にはほしいままにその生命を奪う暴挙をも敢えてし、宣教師達が彼等の非キリスト教的行為を厳しく戒めたにも拘わらず更に意に介しなかった。さればかような大罪を先ず十分に償わねば天主の聖寵の慈雨は決してこの国をうるおさなかったであろうが、幸いにもか弱い女性の身を以て雄々しい犠牲の生活を送り、神の国をその地に建てる礎石となった人があった、それは聖ローザ童貞に他ならない。
彼女は1586年ペルーの都リマに呱々の声を挙げた。受洗の際の霊名はイザベラ(小さきエリザベト)であったが、生来至って器量がよく、顔のあでやかさは薔薇の花をも欺くという所から、後にはローザ(薔薇)と名付けられるに至った。
彼女の両親は共に立派な心がけの人で、始めは相当な財産もあったけれど、不運続きでこれを失い、次第に貧しくなった。しかし彼等の信仰はその為に決して動揺せず、却って益々深く厚くなりゆくばかりであった。子宝は10人の多数を恵まれたが、ローザはその中で長女であったらしい。
彼女は漸く物心つくほどの年頃から、既に天主の不思議な御指導を受けて、贖罪、犠牲、愛苦の崇高な精神をわきまえていたようであった。それは例えば子供に似気なく、大手術を受けた時甚だしい苦痛を歯を食いしばって忍耐し、一言も泣き言を漏らさなかったり、毎週三日は少量のパンと水で過ごしたり、寝台の代わりに堅い板の上に休んだりした所にも窺われる。そしてこの傾向は長ずるに及んでますます著しくなり、人知れずさまざまの苦行の方法を案出しては実行した。彼女はまた自分の美貌が人の心を迷わすことを懼れ、インド胡椒を顔に擦りこんだり丈なす黒髪を切り落としたりしてその美を損ない、心を乱されぬよう庭の片隅に極く小さい離れを建て、そこに籠もって日に十時間も祈祷や黙想を行い、以て罪人に主の御憐れみを願い求めた。それから他の十時間は織物刺繍等家の働きに用い、睡眠は僅か二時間取るに過ぎなかったというが、勿論かような厳しい償いの生活は、天主特別の思し召しによるもので、主の御扶助がなければ到底人間のよく為し得る所ではない。事実ローザには天主や聖人方が現れて慰安や激励を与えられたことが一再ならずあったのである。
かくの如く肉身上の苦行に精励した彼女は、またしばしば天主にも棄てられたような孤独感を始め、諸々の耐え難い霊的の悩みにも襲われた。それはいわば主のゲッセマネにおける御苦痛をある程度まで共にしたようなものであった。それに父母も信心深い人ではあったけれど、彼女の精神が理解できず、苦行をやめて早く結婚せよとしきりに勧め、彼女がそれを素直に聴かないといっては、厳しく叱り、時には打擲さえもした。しかしこの難に訴えることも出来ぬ苦痛を、ローザはじっと押しこらえ、少しも悪い顔を見せずいそいそと家庭の仕事に立ち働き、影では親の為に主の御祝福を祈った。そしてつとに天主にたてた純血の誓願を一層固める為に、20歳の時にドミニコ会の第三会に入り、父母の膝下に在りながらも、最も完全な修道女の様な生活を送り、己を全く世の救霊の犠牲として献げた。その狭い離れはローザの敬虔をよみし給う天主の御恵みによってさながらこの世の天国の如く変わり、その周囲には美麗な薔薇の花が咲き乱れ、小鳥共は恐れる色なく室内に飛び入り、愛らしくさえずり交わし、祈祷を献げる聖女と共に天地の創造主を讃美した。
克己の業を求めて飽くことのないローザは、主にあやかるべく鞭と茨の冠とを作り、これを用いて我が身を懲らし、更に生石灰を以て手を灼き、その苦痛を天主に献げる等なおも苦行を続けたが、もし指導司祭の厳禁がなかったら、どれほどまで峻烈な犠牲を行ったか知れない。
かような彼女の捨身修徳が豊かな聖寵を招来せぬはずはない。実際彼女は幾度となく幻の中に深い霊界の真理を啓示されたこともあったが、謙遜な彼女はいつもそれを自分の心一つに包んで他人に語らなかった。ただ指導司祭が命令すると、従順の徳を破りたくないばかりに、その消息の一班を打ち明けるに過ぎなかった。
日頃峻烈な苦行に勉めたせいか、ローザはついに健康を害し極めて苦痛な病気に罹った。それは体内に灼けつくような痛みを感じ、どんな手当をしても、どんな薬を飲んでも、少しも快方に向かわなかった。かくてその苦しみを世の償いとして主に献げること三年、いよいよ最後の間近いことを悟ったローザはゴルゴダにおける主の御受難を黙想し、三日目に主の聖名を三度誦えたと思うと、眠るが如く大往生を遂げた。時に1617年8月24日。その感ずべき犠牲の生涯は天に於いて厚く報いられたことであろう。死後彼女はアメリカ一の聖女、南米の花と讃えられ、その取り次ぎによる奇蹟も数多起こったから、1671年遂に列聖の栄誉をになうに至った。
教訓
我等はリマの聖ローザ童貞の伝を呼んでその苦行に対する熱意に感嘆すると共に一つの事に注意を呼び起こしたい。それは天主は限りない御憐れみを有し給うが、また限りない正義の御方であるから如何なる罪をも償いなしには看過せられぬと言うことである。故に我等は少なくとも、日々の生活に見いだされるささやかな不快、苦痛等を耐え忍び、自他の罪の償いに献げ、聖女ローザの代祷を願って益々己が犠牲精神を強化するように努めよう。
天の元后聖マリア 記念日 8月22日
古い文献と典礼の文献のすべてにあらわれている聖マリアの元后としての位は、神の母としての資格にもとづいている。1955年教皇ピオ12世は、この日を全教会の祝日として5月31日に祝うように定めたが、後に典礼刷新によって、被昇天祭の冠として8月22日に移された、同じ奥義を記念するからである。第二ヴァティカン公会議は、この信仰をこうのべている、「原罪のいかなる汚れにも染まずに守られていた汚れないおとめマリアは、地上の道のりを終えて、肉身と霊魂とともども天の栄光に引き上げられ、そして主から、すべてのものの女王として高められた。それは、『王の王、主の主』であり、罪と死の征服者である自分の子に、マリアがよりよく似たものとなるためであった」(教会憲章 59)。すべての信者は、主とともに王となる使命をうけているが、マリアは、すべての人よりも先に、すべての人よりも完全にイエズスの約束の実現をうけたのである、「あなたたちは、わたしのこころみの間、たえずわたしとともにいたのであるから、父が、わたしのために王国をそなえてくださったように、わたしもまた、あなたたちのために王国をそなえよう」