聖ライムンド・ノンナート証聖者 St. Raymundus Nonnatus C. 記念日 8月 31日
サラセン人は8世紀頃からヨーロッパ諸国を侵略し、殊にスペインを全く征服して数多のキリスト信者達を北アフリカに連れ行き、奴隷に売り飛ばした。残った信者達はこの憐れむべき兄弟姉妹を救い出す為あらゆる方法を講じ、メルセデの聖母マリア会と呼ぶ奴隷救済の修道会を組織したことさえあった。聖ライムンド・ノンナートは同会中最も有名な一人である。
彼は1204年スペインのポルテロに生まれた。そのノンナートというのはあだ名で「生まれざる」という意味であるが、これは出産に際し死亡した母の胎内から帝王切開の大手術を行って取り出されたに基づいているのである。
両親はさしたる財産もなかったが、清廉潔白な信心深い人々で、父は母なきライムンドを慈しみ育て、ゆくゆくは騎士か学者にして名を挙げさせようと楽しみにしていた。実際またライムンドはその期待を裏切らぬ程の才能に恵まれ、大学も抜群の成績で卒業したのであったが、性質極めて敬虔に、世間的な野心は何一つ抱いていなかった。それで学校を出ると父の望みに従って暫くは山の農場の執事を勤めたが、思いのままに祈祷や、黙想の出来る境遇をこの上もない幸福と考えていた。そして暇あるに任せて付近にある聖ニコラオの小聖堂をしばしば訪問し、聖母マリアの聖絵の前に平伏して主の召し出しがどこにあるかを示し給うよう熱心に祈願をこめた。
その甲斐あって聖霊の御光に心を照らされ、彼が悟った聖母の御勧めは「最近創立されたメルセデの聖マリア会に入り、奴隷となっている兄弟達を救え!」ということであった。で、ライムンドは早速バルセロナに赴き、同会創立者聖ペトロ・ノラスコに入会を懇願して許された。父は息子のこうした決心になかなか同意しなかったが、彼の再三の願いとその代父カルドネ男爵の斡旋執り成しに心折れて、ようよう承諾を与えた。若き修練者は歓喜に充ち感謝に溢れ、今は後顧の憂もなしと余人に倍する熱心を以てひたすら道に精進したから、三年後には早くも北アフリカのアルジェリアへ奴隷なるキリスト信者を贖い返す使命を帯びて派遣されることになった。彼は出来る限り彼等に肉身の自由を与えると共に、またその霊魂を精神的悩み、即ち罪の絆しから救いだそうと試みたのみならず、マホメット教徒なるサラセン人達に教理を説き彼等をも異教の闇から聖教の光に導こうと努めた。
かくて数多の奴隷を解放し、用意した身代金も尽きてしまうと、ライムンドは本国から賠償金の来るまで自分の身を人質として更に奴隷の全信者を自由の身にしてやろうとした。これを見たサラセン人の中には、その比類なき隣人愛に感動してキリスト教を信ずるようになった者も少なくなかったが、またその為に彼に憎悪を抱いた頑迷固陋の徒もない訳ではなかった。そういう輩は彼を捕らえて鞭打ったり、手と足とを後に廻して厳しく縛り上げたり、飲食物を与えなかったり、さまざまの責め苦を与え、一度などは残酷極まる串刺しの刑にして殺そうとしたことさえあった。しかし人質を殺しては賠償金が取れぬので、ただその為にのみ辛くも彼の生命を助けておいたのであった。
それから残忍非道なサラセン人達は賠償金の来るまでライムンドを陰惨な獄中に投じ、その上下の唇に真紅に灼いた釘を通して之に錠をかけ、物が言えぬようにし、食事の折り獄卒がその錠をあけ飲食させるばかりで、八ヶ月の長い間を監禁した。その間の彼の苦痛は言うまでもない。しかし彼はどこまでも希望を失わずイエズスの御苦難を偲びつつ忍耐したのであった。
そのうちに彼の悲惨な境遇を伝え聞いた本国の会長からは速やかに帰国せよという命令と共に、取り急ぎ賠償金を送付して来た。また時の教皇グレゴリオ4世はライムンドの布教の功績と犠牲の偉大さに感嘆して彼を枢機卿の位に挙げる旨通告された。
けれども幾多の苦労と拷問に体力衰えたライムンドは、1240年スペインに上陸するやたちまち熱病に罹り、教皇のお召しを受けてローマに赴く途中ついにコルドヴァで倒れ、同年8月31日黄泉の客となった。
後信者等の間にはこの博愛の英雄の遺骸を何処に埋めるべきかに就いて争いが起こったから、彼の柩を盲目のロバに乗せて、その行くに任せて留まった地点に葬る事とした所、奇しくも彼が青年の頃最も好んでいた聖ニコラオ小聖堂のほとりに足を止めたので、そこを墓所と定めるに至った。
その墓畔に大修道院と壮麗な大聖堂が建てられたのは、なお後年の事である。そしてライムンドの列聖は1655年に教皇アレクサンデル7世によって行われた。
教訓
主はかつて「わが汝等を愛せし如く汝等も相愛せよ」とお命じになった。しかも主の我等を愛し給うたことはその為に御身を敵にわたし給うたほどであった。聖ライムンドは主の御命令を文字通り実行し、同信の兄弟姉妹を救う為に我が身をわたし、それによって多くの異教人をも永遠の幸福に導いた。我等も人を愛するならば、口先よりも実を以てし、慈善の業に励むべきである。
聖フェリクスと聖アダウクト殉教者 記念日 8月 30日
304年フェリクスがローマの教会で司祭として熱心に任務を果たしていた時、ディオクレチアヌス皇帝による迫害が始まった。多くの信者と共に彼も捕らえられて残酷に苦しめられたが、信仰を固く守ったので、ついに斬首の宣告を受けた。刑場に引き出されたフェリクスの落ち着いた態度を見て感心した群衆の中の一人が大声で叫んだ。「私もこの人が公に宣言する同じおきてを守っている者です。私もイエズス・キリストを信じて、彼に従っています。私もその教えを広めるために命をささげます」
この男は、ローマの兵士に早速捕らえられて、フェリクスと並んで首を斬られた。しかし、誰もこの人の名前を知らなかったので、彼は「アダウクト」と呼ばれた。この名の意味は「追加された者」である。
二人の殉教者はオスチア街道のコモディラ墓地に埋葬された。354年に作られた殉教者リストの中には、ただ「フェリクスとアダウクト」として記録されているだけである。
およそ30年後に、ダマソ教皇は彼等の墓を作り直して、その上に碑銘を記した。
聖モニカ St. Monica Vid. 記念日 8月 27日
かって聖寡婦ヨハンナ・シャンタルが、身持ちの悪い息子の救霊を案じて、その為祈っていると「聖アウグスチヌスの懺悔録第八編を読め!」という声を聞いた。で、それに従って読んでみるとそこには、やはり放蕩の限りを尽くした青年アウグスチヌスの為に、その母モニカが幾年も涙の中に祈り続け、遂に願い叶って息子は改心したばかりか孜々として修徳に励み、類稀な大聖人になったことが記してあった。ヨハンナはそれに感奮、直ちに営々努力、モニカの跡に倣ったという。
この敬虔な慈母の鑑、聖女モニカは332年アフリカの北部タガステに生まれた。その両親は信心深くかつ名門の出であったが、家は貧しかった。モニカの少女時代主としてその教育に当たったのは、一人の篤信の老婢で、やや厳格ではあったけれど、極めて忠実な女であった。小さいモニカは善良な性格を持ち、教え甲斐のある従順な子で、祈祷や教会詣でをこよなく愛した。また貧しい人々を憐れむ心が深く、わけても病める貧民には温かい同情を注ぎ、その為自分の食物を惜しげもなく恵み与える事も稀ではなかった。なお彼女は壮烈な殉教談を聞くのが大好きで、親戚の人々が知っている殉教者の話をするといつも夢中になってそれに聞きとれていたとの事である。
かような性質から推せば、童貞として生涯を天主に献げる事こそ、モニカに適した召し出しであったと思われる。然し両親は彼女を結婚させることに決め、モニカは素直に父母の心に従った。そして嫁いだ先はふしぎにもパトリシオという異教人であったのである。
彼は貧乏で、年齢がモニカの倍ほども違う上に、乱暴で、手のつけられぬ道楽者であった。最初の内はそれでも、若い妻を愛していたようであったが、やがて心変わりして冷たい態度を示すようになった。そればかりでもモニカにはつらいことであるのに、その母というのがまた厄介極まる性質で、事毎に意地悪く彼女に当たる。まだ若い婦人にとって実際総ては耐え難いことばかりであった。然し彼女は自分の善徳の祈りの力に依って最後には勝利を得て夫y姑を改心に導き得る事を確信していた。彼女はいつも従順で、親切丁寧で、決して他人を悪し様に言うようなことはなかった。かくてまず彼女の殊勝な態度に感心して、信仰に入ったのは姑であった。その内に夫パトリシオも彼女の日常に心打たれ、素行を改め、宗教の話にも次第に耳を傾けるようになり、遂に洗礼を受けて熱心な信者となるに至ったのである。モニカは三人の子を儲けた。そのうち年下の二人ナヴィジオという男の子とペルペツアという女の子とは、母親似で感心な子であったが、ただ長男のアウグスチヌスだけは長い間母の苦労の種になった不幸者であったのである。
彼の悪に流れやすい性質は既に少年時代から現れた。彼はカルタゴの学校にいた時分に信仰を失い道ならぬ享楽に耽溺し、やがて間もなくマ二教に入った。
かくと知った母母モニカの悲嘆は筆紙に尽くせぬほどであった。我が子の学業成績のよい事などは彼女にとって何の慰めにもならなかった。それは今のままでゆくならば、せがれの前途には霊的の滅亡あるのみだという事を知っていたからである。
その内に夫パトリシオも死んで、モニカは一切の心配を自分一人の胸に包まねばならなくなった。彼女はアウグスチヌスの素行がいかに悪くとも決して彼を叱りはしなかった。却って優しい態度で、彼の心を引きつけようと努めた。が、それだけに彼女は陰では涙の乾く暇もなく、殆ど絶えず天主に祈った。彼女の息子の罪の償いに苦行を行い、又貧しい中からも及ぶ限り施しを怠らなかった。
ある日のことである。せがれの上を思うと絶えられなくなったモニカは、タガステの司教を訪れてその苦悩を打ち明けた。司教は涙と共に語る彼女の話を逐一聞き取った後「ご安心なさい、そういう涙の子は決して滅びることがありません」と言った。彼女はそれを天から得た答えの如く思い、この上もない慰めを受けた。
彼女は息子のゆく所へはどこへでもついて行った、カルタゴにも行った。イタリアのミラノにも行った。彼女は子を思う母の至情から片時もその傍を離れているに堪えなかったのである。当時ミラノ司教の職に在ったのは聖アンブロジオであった。アウグスチヌスはこの人の説教を度々聴聞に行った。というのは、アンブロジオは雄弁家として世に聞こえ高く、またアウグスチヌス自身、かって雄弁術を学んだことがあったからである。その内に聖なる母モニカの祈祷のしるしはようやく現れて、天主の聖寵が豊かにその子の上に注がれ始めたのであろう、アウグスチヌスは直接アンブロジオの許を訪れるようになった。心眼鋭い聖司教はすぐさまその青年の霊的状態を見て取り、物柔らかに、然し一々確証を挙げて聖教の真理なる所以を説いて聞かせた。アウグスチヌスは反対する事が出来なかった。かくて彼の心は大いに動かされたが、なお去就につき沈思すること暫し、ある日聖なるエジプトの隠遁者達の伝記を読むや、その苦行の生活にかつ驚きかつ感じ、「この人々に出来た事が。どうして私にも出来ぬ筈があろう!」と叫んだ。彼の心は今や全く定まり、直ちに彼は聖会の懐に帰ったのである。
望みに望んでいたことが遂に実現されたのを見た、母モニカのその時の喜びはどれほどであったろう!彼女は最早この世に思い遺すことは更にないように感じ、茲に至らしめ給うた天主の聖寵の程を涙と共に感謝せずにいられなかったのである。
息子の帰正後彼女はアフリカの生まれ故郷に帰ろうとしたが、途中オスチアで重患に罹り、急ぎ馳せつけたアウグスチヌスとその弟に看取られつつ、安らかに永生に入った。時は387年5月4日のことで、享年56歳であった。
教訓
モニカの生涯は不断の祈祷の力のよい例証になる。彼女は熱心に祈り続けて遂に息子の帰正を見る事が出来た。かくて彼女はまた母たる総ての人々に対して、立派な鑑をも示した。「かかる涙の子は決して滅びることがない」という名言も我等の心に銘記しておくべきである。天主はモニカの如く我が子の為涙ながらに絶えず祈る母には、何人にもその願いを聴き入れ給うのである。