写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

宥恕(ゆうじょ)

2024年08月13日 | 随想

宥恕(ゆうじょ)、意味は「寛大な心で許すこと」。

スマイル(2018年2月12日)の最後の部分で、作家 石牟礼道子さんが紹介している「人を憎めば我が身はさらに地獄ぞ」という水俣病患者の言葉の紹介とともに、それは「憎悪」から「宥恕」への昇華である、という痛切な感情を表現してみていたところだが、この季節に「宥恕(ゆうじょ)」をテーマとして採りあげるといっても、無差別空襲や原爆投下について許そうと、そんなバカなことを言うつもりはさらさら無い。
パール判事主な空襲被害の死者数(続)空襲一覧(続々)空襲一覧光と影アパルトヘイト今日だけは・・・あの戦争で無知あるいは洗脳されたまま、など戦闘行為とは関係のない「虐殺」が目的の行為は許されるものではない。この感情はイスラエルウクライナへも抱いている。)


さて、月刊誌『致知』という「人間学を学ぶ」という月刊誌がある。
書店では手に入らない定期購読冊子であり、内容も素晴らしいのだが、松下幸之助をたびたび採りあげて特集しているのは世の中の求めに応じているとしても、だ。
鳩山政権や(旧)民主党ズブズブの稲森和夫を持ち上げている姿勢にはとても共感できず、購買案内とかもずっと無視を決め込んできている。特集記事がどんなに素晴らしくとも、だ。

そんな中、月刊誌『致知』の2014年7月号に「降りかかる逆境と試練が私の人生の花を咲かせた」という特集記事があった。
衝撃的だった。ここまで人を許せるものか、と何度も何度も読み返した。

・・・・・と、ここまででも感動的ではあるが、ここまでの内容なら話半分でしかない。

折角の機会なので、全文を紹介しておこう。今はリンクも無くなっていることだし。
圧巻は最後の亡夫にかける独白、胸を打つ。


愛媛県西条市にある「のらねこ学かん」という 知的障碍者のための通所施設。
ここを自費で運営する 塩見志満子さんの人生は、まさに試練に次ぐ試練の連続だったといいます。
ハンディのある人たちと関わり、その人生の花を開かせようと、きょうも奔走を続ける塩見さんの活動の原点とは――。

【塩見】
1つのきっかけとなったのは
私が38歳の時に、小学2年生の長男を白血病で失ったことです。
白血病というのは大変な痛みが伴うんですよ。

ある時、長男は
あまりの痛さに耐えかねて、
そんなこと言う子じゃないんですが
痛いが(痛いぞ)、ボロ医者
と大声で叫んだんです。

主治医の先生は30代の
とても立派な方で
「ごめんよ、ボク、ごめんよ」
と手を震わせておられた。

長男はその2か月半後に亡くなりました。

49日が済んだ後、
主人と2人、お世話をかけたその主治医の先生に
御礼を言うために病院に行きました。
ところが、いらっしゃらないんです。
聞いてみたら、長男が死んだ後、
「僕は小児がんの研究をするためにアメリカに渡る」
とすぐにその病院を辞められたと。
私たちは「ボロ医者」という長男の一言が、
この先生をいたく傷つけたかもしれないと思うと申し訳なさでいっぱいでした。

後で知ったのには、その先生は10年間アメリカで小児がんの研究をした後、
小児がんの権威となり日本の国立小児病院に帰ってこられたそうです。
いま思い出しても本当に素敵な先生でしたね。
 ・  ・  ・  ・
長男が小学2年生で亡くなりましたので、
4人兄弟姉妹の末っ子の二男が3年生になった時、私たちは、
「ああ この子は大丈夫じゃ。お兄ちゃんのように死んだりはしない」
と喜んでいたんです。

ところが、その二男も
その年の夏のプールの時間に
沈んで亡くなってしまった。

長男が亡くなって
8年後の同じ7月でした。

近くの高校に勤めていた私のもとに
「はよう来てください」
と連絡があって、
タクシーで駆けつけたら
もう亡くなっていました。

子供たちが集まってきて
「ごめんよ、 おばちゃん、ごめんよ」と。
「どうしたんや」
と聞いたら10分の休み時間に
誰かに背中を押されて
コンクリートに頭をぶつけて、
沈んでしまった、と話してくれました。
 ・  ・  ・  ・
母親は馬鹿ですね。
押したのは誰だ。犯人を見つけるまでは、学校も友達も絶対に許さんぞ
という怒りが込み上げてくるんです。
新聞社が来て、テレビ局が来て
大騒ぎになった時、
同じく高校の教師だった主人が
大泣きしながら駆けつけてきました。
そして、
私を裏の倉庫に連れていって、こう話したんです。
これは辛く悲しいことや。
だけど見方を変えてみろ。
犯人を見つけたら、
その子の両親はこれから、
過ちとはいえ自分の子は
友達を殺してしまった、
という罪を背負って
生きてかないかん。
わしらは死んだ子を
いつかは忘れることがあるけん、
わしら2人が我慢しようや。
うちの子が心臓麻痺で
死んだことにして、
校医の先生に心臓麻痺で死んだ
という診断書さえ書いてもろうたら、
学校も友達も許してやれるやないか。
そうしようや。そうしようや

私はビックリしてしもうて、この人は何を言うんやろかと。
だけど、主人が何度も強くそう言うものだから、仕方がないと思いました。
それで許したんです。友達も学校も・・・・・・。


――普通の人にはできないことだと思います。

こんな時、男性は強いと思いましたね。
でも、いま考えたらお父さんの
言うとおりでした。
争うてお金をもろうたり、裁判して勝ってそれが何になる……。

許してあげて
よかったなぁと思うのは、
命日の7月2日に墓前に
花がない年が1年もないんです。
30年も前の話なのに、
毎年友達が花を手向けて
タワシで墓を磨いてくれている
 もし、私があの時
 学校を訴えていたら、
 お金はもらえても
 こんな優しい人を育てることは
 できなかった。
 そういう人が生活する町には
 できなかった。
 心からそう思います。
・  ・  ・  ・  ・
 ――宝物のような我が子を2人も失うという大変な逆境を、よくぞ乗り越えてこられましたね。

でも、この苦しみは
抜け出そうと思っても
なかなか抜け出せるものでは
ありませんでした。
もう教師は辞めようと思って
退職を願い出たこともあります。
そうしたら校長先生が、
「もし、あなたが希望するなら、あなたを必要としているところがあります」
と言ってくださったんです。
それが養護学校でした。 
私はそれまで長く、 教師として子供たちに人権教育を行ってきました。
いじめはいけない、差別はいけないと。
 ・  ・  ・  ・
だけど、ひとたび学校を出て
家庭の主婦に戻った途端に
対岸の火事でした
自分がその身になれないんです。
「これではいけない。養護学校に通う、あの子らに本気で学ばなんだったら、
きっと一生後悔するだろう」
と痛烈に思いましたね。

教員になりたい人は いっぱいいます。
だけど、この子らの将来を支える人がいない。
この子らには卒業しても「おめでとう」と言ってあげられない。
次に行くところが ないわけですから
その頃はまだ、お母さんが泣きながら育てなくてはいけない世の中でした。
私はこの子らと一緒に生活できる人になろう と思いました。
 
それで57歳の時、教員を辞めて「のらねこ学かん」を立ち上げる決意をしたんです。
 ・  ・  ・  ・
――ご主人は納得されたのですか。

 納得してくれました。 
 でも、その主人も62歳の時に 亡くなってしまうんです。
 国道を挟んだところにある畑に 草を刈りに行く途中、
 2トントラックに はねられたんですね。
 本当の悲しみは涙が出ない、 というのはそのとおりですね。
 主人が横たわっている座敷で 天井を見ながら一日中ボーッと していました。
 
そうしていたら若い男の人が 訪ねてきたんです。
トラックの運転手さんでした。
「僕が事故の相手です。 許してくださいなんて言いません。 
殺されても仕方がありません。
どうか奥さんのいいように してください」
と土間に土下座しましてね。
 ・  ・  ・  ・
二男が死んだ後、
人を許すということを
主人は教えてくれました
世界で一番憎たらしいその人が
玄関に土下座した時、
私がなんであんなことを言ったのか、
自分でも分かりません。
だけど私の口から こういう言葉が出たんです。
あなただけが悪いんじゃないの。車と人が喧嘩をしたら車が勝つに決まっています。
あなたは若いから、主人の分まで生きて幸せになってくださいよ。
そうしたら主人も成仏できる。
私が警察に嘆願書を出すから、
どうかそうしてくださいね
 
だけど、許した後で
親戚が家に集まってきて
「おまえの良識はおかしい」
「それじゃ死んだ者は浮かばれん」
と散々詰め寄られました

その時、私は一人、
親戚と闘いながら心の中で
主人に静かに語り掛けていたんです。
お父さん、これでよかったよね」って